新たなる旅たち
魏晋南北朝時代を模した、しかし魏晋南北朝時代よりも清廉なる世界で、知略とまことの新たな戦いが幕を開ける。
【本作について】
拙作『南魏紀伝』の正統なる続編です。前作をお読みの方はもちろん、本作からお読みいただく方も大歓迎です!
【世界観の前提】
舞台は三国志の時代が終わり、晋(世祖・司馬炎)さえも滅びた後の、魏晋南北朝の様な時代設定です。中原には三つの王朝が並び立っています。
東部を統べる「青燕」
北部・北西北を領する「延漢」
南部・南西部を守る「南魏」
この世界は、歴史の悪しき因習である賄賂が非常に稀で、宦官が存在しない、極めて清廉な法治社会です。
【主人公】
南魏の文武官・魯雲。
童顔でありながら高い知性を持ち、自力で無双するのではなく、仲間たちの「武力」や「知恵」を結集させて難局を切り開いていく知将です。前作で一度は戦いを終えた彼の、さらなる命がけの戦い(仕事)が始まります。
前作『南魏紀伝』のファンの方はもちろん、『史記』『後漢書』『三国志』などの中国古典や、重厚な歴史if・架空戦記がお好きな方には、国籍を問わず楽しんでいただける内容だと思います。
日本人、中国人、そしてすべての読者の皆様からの温かいご感想や、評価(ブックマーク・★)をいただけますと、執筆の大きな励みになります。どうぞよろしくお願いいたします!
『南魏志賈良伝』に曰く――
男子の文武官において最も特筆すべき者の姓は賈、名は良なり。その武芸、弓馬に秀でた麗玉と紀覧の二強を相手にして引かず、武芸のみを本分とする武官においても、これを凌ぐ者、南魏においては稀代の猛将彭蒙公のみ。その智謀、朱都尉と魯都尉には劣れども、文武官としては低からず、軍師郭俊の命を受け、日々任務に邁進す。
これなる名将、性苛烈にして時に同胞と対立することあるも、その言動は常に南魏の国益のためであるが故、尚書左丞魯伯寧公[注]、これなる猛将を高く評せり。
注:伯寧は南魏の尚書左丞である魯真の字。
第一章
陸正や呂恬といった、南魏からの援軍として延漢の北西部に派遣されていた知恵者や武将は、皇太子李嬰の病気の回復による戦線復帰と、北西部の城の奪還が終了したこと、そしてさらに別の任務があるとの理由によって延漢における軍功第二位の猛将である姜恂との別れを惜しんだ。
「姜恂どの、貴殿らとの共闘は、実に多くの事を学ばせていただく良い機会でありました」
陸正が頭を下げて別れを惜しむと、姜恂も陸正に頭を下げ、
「いやいや、こちらこそ陸正どのと呂恬どのおよびその部下の方々にはいろいろと助けていただいた。私こそ南魏の将兵そして知恵者に感謝いたします」
と恭しく応じた。
そうした感動的な別れの後、呂恬と陸正は、各々別の任地に向かった。南魏の他の将兵にも各々の任地が与えられていた。延漢の援軍に行った南魏の将兵および陸正という知恵者、彼らが向かう先は延漢と匈奴の国境付近の様々な要所だった。延漢は匈奴と国境を接しており、一部の将兵が匈奴に勝っても様々な場所から侵略を繰り返す匈奴に対して南魏からの援軍を複数の要所に配する以外に根本的な対抗手段は無いという結論に延漢の朝廷は至った。そこで延漢王李荘は南魏王周越に一定程度の金品を渡す代わりに南魏の将兵および陸正という知恵者を今しばらく借りたいと申し出、周越は各将兵と知恵者に直接報酬を渡し、さらにしばしの休息を与えてから派遣することと東にまで派遣する場合には長距離の移動になるので更にいくばくかの報酬を彼らに直接渡すことを条件に、南魏の将兵と知恵者の延漢における援軍としてのさらなる起用を許可した。
呂恬はおおむね国境の中央近くに派遣されることになったが、陸正は遠く東の地、廉頗将軍の子孫にあたる廉淵将軍の赴任先へと向かった。その道中陸正は、馬車に揺られながら
(私はよりによって北東の国境付近か。しかし馬車でゆったりと移動するのも悪くない。移動に日数がかかればかかるほど四書五経や兵法書など、私が好きな書物をゆっくり読めるからね)
と、長い道中をそれなりに楽しむつもりで泰然自若としていた。
魯雲と雪蘭が和解して、春華がその二人を見守ってからしばらくの後、南魏の王都武漢の官舎のそばで、若い二人の男たちの声が響いた。
「えい!」
「やあ!」
「とうッ!」
勢いの良い掛け声とともに、棍と棍が激しくぶつかる音がする。そして数分後にはだいたい同じ結果が待っている。
「う~ん。駄目だ。お前にだけは五回に一回しか勝てないぞ彭蒙!」
「気にするな賈良。貴殿は文武官でオレは武官なのだ。むしろ文武官でありながらオレを相手に五回に一回も勝つ事こそが驚異的だ。武官の中にもお前に負ける者は少なくないだろう?」
「まあな。むしろオレにほぼ毎回勝っている武官はオマエだけだ。オマエほど強い奴は見たことが無い。あとは自治区の様になったあの城に住んでいる張蓋だな。アイツとお前の一騎打ちを見た時の衝撃は、いまだにオレの脳裏に残っているよ」
「ああ、あれは本当に良い勝負だった。張蓋はこんな風に組み手をしたい相手だな」
「そうだな。あの勝負は本当に名勝負だった。お前と張蓋はそれぞれ南魏と契丹を代表する最強武将だよ。ひょっとしたら、この時代で最強の二人じゃないか?」
「そうかもな。だが延漢にも猛将がいるらしいし、青燕や靺鞨や鮮卑の中にも猛者はいるかもしれないぞ」
「……分かった。そうした猛者に負けないために、もう一度組み手をしようぜ」
「オレはそれで構わないが、文武官であるお前は勉強の方も頑張らないとならないんじゃないか?」
「……それもそうだな」
彭蒙の提案により、その日の組手はそこまでとなった。その後二人は彼らの今の住まい、つまり武漢にある官僚用の官舎に帰った。
第二章
賈良と彭蒙がしばしば組み手をする日々を送っていたころ、彼らと同じく武漢の官僚用官舎に暮らしている麗玉は、先輩や後輩の女性文武官からの期待を背負わされていた。
「麗玉どの。是非とも麗玉どのには我々女性文武官の代表として、守旧派たちとの対決に勝っていただきたく存じます!」
麗玉の後輩にあたる女性文武官が怒気を込めて訴えた。彼女にとって守旧派と言うのはどうしても許せない集団なのだろう。
「守旧派?それは一体どんな派閥ですか?」
麗玉の問いに、麗玉と同期の女性文武官が答えた。
「一部の儒者とそれに阿諛追従する連中です。儒者の全員がとは申しませんが、少なくない割合の者が『女子の武芸や知恵などたかが知れている』と言いふらしており、女性文武官という制度自体が牝鶏司晨だと評して、女性が叫ぶと国が亡ぶと喧伝しているのです」
「しかし麗玉どのは先の戦でいくつかの武功を上げ、同期では賈良どのに次ぐ次席ですよね。麗玉どのの武芸を見れば守旧派の面々も女性文武官という制度を批判しなくなると思います」
こうした評価に対して麗玉は逆に尋ねた。
「ですが私より諸先輩の女性文武官のどなたかが反論なさった方が良いのではありませんか?先輩方の中には私の赴任より前の時点で既に敵の首級をあげておられた方もいらっしゃいますよね?」
だが、麗玉のこの発言に、そばにいた先輩の淳恵泉という女性文武官は答えた。
「麗玉さん、悔しいけどあなたほど武芸に秀でた女性文武官はあなたの先輩にも同期にも、そして後輩にもいないのよ。もちろん私たちも多少は武功をあげたけど、相手が弱卒だったから勝てた様なものだわ。でもあなたは賈良将軍が就任するまでは最強の文武官だった甘成将軍との組手でも五勝五敗の戦績で、契丹の王族随一の猛将ともしばらくは斬り結んだそうじゃないの。その武芸を守旧派たちに示して欲しいのよ」
「かしこまりました。先輩にまでそう言われたのであれば、私の武芸を披露するのは構いません。でも儒者たちが敵対しているとなると、武芸だけでは対抗できないですよね?女性文官のどなたかが舌戦を担当してくださるのですか?」
麗玉のこの問いに対してその場にいた女性文官が答えた。
「それが……守旧派も私たち女性文官については既に南魏の中で長い歴史があるから必ずしも反対はしていないみたいなの。でも貴女たち女性文武官についてはいまだに反対する人が多いのよ。そこで私たち女性文官の代表も協力するから、舌戦においても麗玉さんに担当して欲しいの」
女性文官の代表も協力するという言葉を受け、麗玉は女性文武官全体の地位をめぐる守旧派との対決に臨むことを決意した。麗玉はさっそく日々打ち込んでいる武芸に加え、儒者相手の舌戦に向けた勉強を女性文官の代表の指導の下で行うことになった。
武芸の披露は、馬術と弓術に関しては、馬を駆りながら的を射ることで見事に麗玉の馬術と弓術の腕前を示した。守旧派たちも麗玉の馬術と弓術に見とれてしまうほどで、麗玉の実力を認めざるを得なかった。その後に行われた棍を使っての組手では、同期の文武官の中では賈良以外に負けたことが無い麗玉であるが、相手が麗玉を甘く見て、男性文官との戦いを要求してきた。女子の武芸など、男子ならたとえ文官でも一月で乗り越える、と豪語していた守旧派は、一月だけ真剣に訓練したとはいえ所詮は文官に過ぎないその男性の振るう棍を麗玉がたったの二合目で高く打ち飛ばし、くるくる回りながら落ちてきたその棍を麗玉がはっしと受け止めたことに驚嘆した。
そして舌戦については日をあらためてということになったが、ついにその日がやって来た。
多くの女性文武官と女性文官、そして男性の官僚たちも見守る中、守旧派の儒学者と麗玉の舌戦の火ぶたが切って落とされた。
儒学者は怒りを込めて声を荒げた。
「聖人の教えに『女は内に在り、外の政に関らず』とある。朝廷に婦人が立つなど、天理に背く暴挙である!」
これに対して麗玉は以下の様に答えた。
「先生、かつて周の武王が商を討った際、文王の妃である太姒や邑姜ら『乱臣十人』という十人の有能な臣下が国を支えた、と『論語』にございます。聖人たる孔子もこれを称賛なさいました。もし性別を根拠にして能力ある者を退ければ、それこそ聖人が重んじた『天の才を尽くす』という大義に背くことになりませぬか?」
「……」
儒学者は言葉を失った。さらに麗玉は畳みかけた。
「おそれながら先生が今挙げられた朝廷ですが、我が南魏は既に銀月さまなどの女性文官により支えられている側面が少なくありません。しかも私たち女性文武官は前線に立ち、契丹という西戎を討つべく、命がけで戦いました。もちろん男性の活躍が主たる活躍ですが、ここにおられる女性文武官の中には敵の首級をあげた者もおります。私めは弓術の妙手にして仁義に厚い魯雲公の御高配により推挙されて軍功第一を魯雲公の代わりにいただいた者に過ぎませんが、南魏の朝廷が夷狄から守られていることは、他ならぬそうした女性文武官の活躍による面もございます。男性の官僚たちとともに協力して朝廷をお守りしている女性文武官の活躍なくして、今後どのように南魏が延漢や青燕さらには匈奴や靺鞨や鮮卑や南蛮と伍していくのか、具体的な対策を先生はお持ちでしょうか?」
「……」
「それに我ら女性文武官が参内するのは周越陛下や張豊閣下、あるいは我らの直属の上司である軍師の先生からのお召しがある場合のみです。そして女性文官については既に宮廷内の役職や様々な地方の城内での役職を果たしております。陛下や閣下や軍師さまの許可に基づき宮廷に参内する女性文武官も、日ごろから王都武漢に限らず様々な地方の城内で政務にいそしんでいる女性文官も、男性の官僚たちと同じく現実に南魏の役に立っているではありませんか。そうした者たちの働きを、先生は南魏にとって無価値とお考えですか?」
「……い、いや何も無価値とは言っていない。ただ、旧来の教えに反すると申しただけだ」
「その旧来の教えとは、私が先ほど挙げた『論語』の事でしょうか?ならば『論語』の教えに従えばこそ女性文官も女性文武官も存続すべき制度ではないでしょうか?」
「……」
その後は儒者から反論が一切なされず、麗玉は武芸と同じかそれ以上に舌戦によって女性文武官の存在意義を世に知らしめた。
後日、麗玉は銀月のもとを訪れた。
「銀月さま、このたびは大変熱心なご指導、誠にありがとうございました」
深々と頭を下げる麗玉に、女性文官代表の法銀月は軽く会釈した。
「気になさらないでください麗玉さん。貴女たち文武官は武芸の稽古だけでも忙しいのですから、本来ならあの舌戦は私たち文官の役目です。それを守旧派があえて『女性文官は既に南魏の中で一定の歴史があるからともかく、女性文武官だけは認められない』として、女性文武官との舌戦を望んだというのが今回の経緯です。だから最初から相手の要求は、武芸の稽古で日夜忙しい女性文武官に対し、無理に高度な水準の弁論を要求する意地悪だったんですよ」
「はあ…そういうものでございますか……」
銀月ほどには守旧派の冷徹な悪意を予見できなかった麗玉は、やや戸惑いながらも納得した。銀月はさらに続けた。
「それにね、実は貴女に教えたことは、すべて兄の法純から受けた忠告通りだったの。私は以前兄に相談したことがあったわ。『兄上、女性文官も最初は守旧派に批判されました。そして五年ぐらい前に認められた女性文武官に至ってはいまだに激しい偏見にさらされています。しかし朱麗玉さんという女性は最近契丹の副王としばらくの間切り結んだ、知勇に優れた英傑です。こうした重要人物がいわれなき差別に苦しまない様にするにはどうすれば良いでしょうか?』とね。そして兄からは『守旧派がこの様に難題を言ったらこのように切り返すべきだ』という想定問答が送られてきたのよ。その、兄がくれた想定問答こそが、私が麗玉さんに教えた内容だったの」
「かしこまりました。ならばさっそく法純さまに私からのお礼の手紙をお書きします。ともあれ、私たち女性文武官を心配して法純さまにご相談くださり、また私にご指導くださり、まことにありがとうございました」
麗玉は銀月に再度頭を下げてその場を去ると、法純にお礼の手紙をしたためて送った。
第三章
耶律玄賽との戦いを終えた際に功績を辞退したから結局軍功第一には叙されなかったとはいえ、多くの人々から称賛された魯雲もまた、武漢の宿舎を住処としていた。そんな魯雲は郭俊との間に若干の軋轢を生んでしまった。紀覧たち樊順党の面々は魯雲の直属部隊になりたいとのことであったが、郭俊は公私の別は厳格にすべきとの考えで、あくまでも樊順党の党首たる樊順も魯雲や麗玉や賈良や彭蒙と同じく武漢もしくは文武官として対等のあつかいとするとして譲らなかった。だが紀覧や樊順をはじめとする樊順党の意志が強いので丞相の張豊にその旨を伝えると、張豊から郭俊に対して樊順党は魯雲の第二部隊という位置づけを与える様にとの正式な命令が下り、最終的には郭俊も折れた。そのことで樊順党の面々は喜び、魯雲の第二部隊として魯雲の部下になった。とは言え、魯雲と郭俊とのわだかまりは魯雲の心に若干の影を落とす結果となった。今度の戦場は延漢の北東部、つまり匈奴に面している北東の国境付近であった。新しい戦地への赴任が決まり、槍術や馬術や弓術の稽古とともに、あらためて『孫子』や『呉子』や『史記』や『後漢書』を読んで、昔の名将や軍師からの知恵を拝借しようとする日々が続いた。
「仲明さん、あまり根をつめてはお体に触ります」
一緒に暮らすことになった雪蘭は、時々そう言って魯雲の体調を気遣ってくれる。だが魯雲も雪蘭の事が気になっている。
「雪蘭さんこそ、傷病者の手当てが忙しくて、なかなかゆっくり休めてないんでしょ?大丈夫なの?」
「仲明さんの軍務や政務に比べれば、私の労力なんてたいしたことないですよ」
医者の手伝いをする、いわば現代で言うところの看護師の様な仕事をしながら、家事も半分以上は雪蘭が担っており、魯雲は買い物や洗濯こそするものの、掃除と料理そして食器洗いは雪蘭の分担である。そんな夫婦生活にも慣れてはきたが、雪蘭にとって医者の手伝いを継続することは大変なのではないかと魯雲は思っている。とは言え、再度の戦いに備え、弓術や槍術や剣術を磨くとともに兵法書の勉強も欠かすわけにはいかず、魯雲の家事の分担が半分に満たないのは時間的に無理も無いことだった。
それに加えて他にも魯雲には気になる事があった。耶律玄賽の処遇である。一応終身刑ではなく有期刑にはなった。だが、魯雲に対して召集令状が来て再度南魏のために戦場に向かう羽目になった魯雲は、あることを思いついて手紙をしたためた。
魯雲が書いた手紙、そこにはかつて秦の章邯が囚人たちに武器を与えて「戦果を挙げれば釈放する」と約束して陳勝と呉広を打ち破った故事にちなんだ献策が述べられていた。その献策とは、武漢の牢獄に収容されている耶律玄賽をはじめとする契丹の戦犯たち、彼ら戦犯にも「匈奴との戦いで奮戦すれば釈放する」という機会を与えようというものだった。
その提案を、魯雲はかつての上官であり今は丞相や他の重臣たちとともに王都武漢で内政を主に担当している韋脩に渡した。韋脩は魯雲の提案が記された書簡を興味深く読み、重臣の中でも特に親しい魯真つまり魯雲の兄に見せた。
「伯寧どの、貴殿の弟である魯雲君が興味深い提案をしたぞ」
魯真に敬意を込めて字の伯寧で呼んでいる韋脩は、魯雲の提案を喜びながら魯真に伝えた。
「英明なる軍師の韋脩さまが興味深いとおっしゃるからには興味をそそられますな。一体どのような提案なのでしょう」
魯真は興味津々と言った雰囲気で魯雲の書簡の中身を知りたがった。そして魯雲の提案を知った魯真は韋脩以上に興味をいだいた。だがその後に彼は、魯雲の案に対して一つだけ追加すべき点がある、とした。他の重臣たちとも協議した結果、最終的に魯真の提案が採用され、使命を受けた使いの者が武漢よりはるか南西部にある成申まで行き、さらに成申でその使者から魯真ら南魏の重臣たちの提案を記した書簡を携えて契丹に向かった。
第四章
数日後、魯雲は以前鍛冶屋に注文していた「あるもの」を持って彭蒙の官舎を訪ねた。
「公徳、鍛冶屋さんに特別注文していた商品が完成したから持ってきたよ」
「おお、仲明。わざわざ持ってきてくれたのか。すまないな」
「気にすることないよ。それよりさっそく持ってみてくれ。結構重いけど公徳ならどうってことないだろ」
そう言いながら魯雲が彭蒙に渡したもの。それは長い柄の先端に偃月つまり三日月の様な湾曲した片刃を付けた武器だった。いわば青龍刀の刃を柄の先端に付けた様な武器だった。
「おおッ!思っていた以上にカッコいい武器だな!」
魯雲が提案して鍛冶屋に注文した特注の武器を彭蒙は気に入ったようだ。
「気に入ってくれてうれしいよ。ともあれ、公徳の剛腕ならこの刃で敵を斬り殺すことも出来るし、刃を逆にして峰打ちすれば敵を殺さず生け捕りにすることもできるだろう」
「なるほどな。柄の部分は槍のように長いが先端がしなった片刃だから、槍の様に長い上に斬ることもできるし峰打ちも出来るわけか。さすがは仲明、素晴らしい案だな。……ところで、せっかくだから一つ相談して良いか?」
「何だい?公徳」
彭蒙の表情が少し思い詰めた表情の様に感じた魯雲は若干の不安をいだいたが尋ねてみた。だが彭蒙が言った言葉は以下の様なものだった。
「いや、そんな深刻な相談じゃない。せっかくだからこの素晴らしい武器、いわばオレの新しい相棒に、何か良い名前を付けてくれないか?」
「ああ、そういうことか。別に良いよ……そうだなぁ……」
魯雲は少し頭をひねっていたが、やがて名前を思いついた。
「そうだ!刃が偃月のような形で天をも遮蔽する、という意味で、遮天偃月というのはどうかな?」
「遮天偃月か!素晴らしい名前だ!是非ともそう呼ばせてもらうぜ!さすがは魯雲、教養がある人間は発想が違うな!」
「ハハハ、感謝してくれてうれしいよ。でもあの耶律玄賽を捕縛できたのは公徳と朱さんのおかげだよ。僕の武芸は公徳にも賈君にも朱さんにも遠く及ばないから、僕の方こそ公徳たちの武芸に感謝してるよ」
「そうか。そう言ってくれてうれしいぜ。でも耶律玄賽を生け捕りに出来たのは仲明の作戦のおかげでもある。オレもお前に感謝してるぜ!」
彭蒙は豪放磊落に笑った。その後はお互いに歓談し、しばらくして魯雲は彭蒙の官舎を去った。
後日、魯雲たちは耶律玄賽の率いる部隊と再会した。魯雲は章邯の故事に倣った今回の措置に対して特に恩を着せるつもりは無かったが、耶律玄賽からは礼を述べないとならないと感じた様で、馬を駆って魯雲の馬車に近づいてきた。
「魯雲どの、今回の御高配には、私も私の部下も感謝いたしております。今回の匈奴との戦いにおいて活躍すれば、私どもを減刑してくださるとのこと、大変ありがたく存じます」
深々と頭を下げる耶律玄賽に、魯雲は答えた。
「わざわざお礼を述べてくださり恐縮です。私は単に、匈奴と延漢の戦いは不可避であるし、延漢がその戦いに勝たないと南魏にも危機が訪れると考えて最善の提案をしたまでです」
「いえいえご謙遜を。魯雲どのはそもそも我々を終身刑から有期刑にするようにと丞相の張豊閣下にお願いなさったとか。その事も今回の我々の処遇も魯雲どのの大御心だと我々一同は大変感謝しております。ただ……」
「ただ…何ですか?」
耶律玄賽が言い淀んでいる様子をいぶかった魯雲が尋ねると、耶律玄賽は答えた。
「ただ、魯雲どのの兄上の魯真どのに対しては、私個人としては怒りを抑えきれません」
「兄が何かしたのですか?」
耶律玄賽の意外な発言を聞いた魯雲はその真意を尋ねた。耶律玄賽は答えた。
「魯雲どのはご存知ないかもしれませんが、魯真どのは私の一人息子である暫隗を私の代わりに武漢の牢獄に入れることを提案し、それと引き換えに私はこうして匈奴との戦いに従事できる身になりました」
「!?……」
耶律玄賽によると、章邯の故事を模した魯雲の提案は良い案だが、もし耶律玄賽ら契丹の降将たちが裏切ったら一大事と考えて、耶律玄賽の一人息子である耶律暫隗を人質として耶律玄賽のいた武漢の牢獄に投獄しておくべきだと主張し、その程度の事は南魏王周越の裁可を得る必要もあるまいと判断した重臣の許可を得て投獄を決定したのである。
そのことを耶律玄賽から聞かされた魯雲はいったん馬車を止め、深々と頭を下げた。
「耶律玄賽どの、大変申し訳ありませんでした。兄に代わってお詫びいたします」
魯雲の謝罪に対して耶律玄賽も馬を止め、魯雲をなだめた。
「魯雲どの、どうかお気になさらず。貴殿が悪いわけではございません。南魏と延漢のために、ともに援軍として戦いましょう」
耶律玄賽のこの言葉に魯雲は励まされ、廉淵将軍が待つ延漢の北東部へと、魯雲と耶律玄賽はともに向かった。
第五章
郭俊と銀月そして兵站担当の許秀は王都武漢の官舎に住んでいた。そして陶玄や鄭基といった、内政や諜報活動に秀でた者たちとも連携をとっていた。かつては契丹との戦いのために契丹の内情を探っていた陶玄や鄭基であったが、韋脩の提案で陶玄や鄭基には北方の延漢について内情を調べる役割を担うべきだと南魏王周越に上奏し、その結果として、かの廉頗将軍の子孫であり、稀代の猛将である廉淵をもってしても苦戦していると言われている、延漢の北東の情報を調べる事が陶玄や鄭基の新たな任務となった。
他方、東の青燕に対する対策は、法純が今後も軍を指揮することになった。さらに青燕の内情をよく調べる様にとの王命が下り、法純は軍事的な緊張は解かず諜報活動を活発化することにした。
戦地へ向かう魯雲を見送った雪蘭は傷病兵の世話をしながら、武漢でとある人物の到着を待っていた。その人物は仕事で武漢に来るとは言え、せっかくだから雪蘭と会ってみたいと希望しており、そして雪蘭もその人物と会うことを心待ちにしていた。
そして、ついにその日がやって来た。
「久しぶりだね雪蘭」
「そうだね春華。元気だった?」
「元気よ。雪蘭も元気だった?」
「うん。私も元気よ」
その人物とは春華だった。春華は豪商である厳家の次期当主になる。父である厳統の時代から築いていた王都武漢とのつながりをあらためて強化し、さらには武漢在住の豪商である田家の次期当主である田観という若い男性との会合に臨ませようとしたのだ。武漢に住み武漢を拠点としている豪商の田家と成申の厳家は厳統の代からのつながりで、厳家と田家が共有している武漢市内の倉庫や、武漢にある田家の商館で、厳家と田家の交易の現状と今後について話し合うことになったのだ。春華はいわば長期的な商談のために武漢に来たのであるが、久しぶりに雪蘭に会ってみたいと思っていたので事前に手紙をしたため、魯雲と雪蘭が住む官舎を訪ねると伝えておいたのだ。そして今日、実際に雪蘭の住む官舎に春華がやって来たのだ。
「せっかく雪蘭と久しぶりに会えたのは良いけど、仲明くんはまた戦場に行ったの?」
魯雲と雪蘭の仲睦まじい姿を見たいと思って官舎を訪ねた春華は残念そうに言った。
「そうね。お仕事だから仕方ないけど、またしばらく会えないのは残念だわ。武漢での政務ならともかく、戦場に行くんだから仲明さんの身も心配だし……」
不安そうな表情をしてうつむく雪蘭に、春華は穏やかな口調で言った。
「仲明くんなら大丈夫よ。いつも彼の優しさが貴女や他の人たちを守ってくれたように、今回の戦場でも同僚を守ってくれるわ。そして同僚も仲明くんを守ってくれる。相互に支え合う、最高の関係になってくれるよ」
春華の励ましに、雪蘭は感激しながら深くお辞儀した。
第六章
その後、廉淵将軍が守る北東の任地で陸正と合流した魯雲たちは驚いた。廉淵将軍は陸正およびその配下から兵糧をもらい、それでも足りず魯雲たちの兵糧も所望した。
「南魏の諸将、知恵者のみなさま、誠に申し訳ござらぬ。恥ずかしながら我が延漢には、少なくとも私の任地であるこの東方には、厭戦気分が蔓延しており、兵站に関して不熱心な者が少なくないのだ」
「……」
魯雲は驚きのあまりしばし言葉を失った。そこで陸正が事情を説明した。
「魯君…いや魯雲どの。廉淵将軍がおっしゃったことは本当だ。私も最初は驚いたのだが、実際に廉淵将軍のもとには食料の到達が遅れている。また、将兵の交代もあまり頻繁ではなく、長期間にわたる戦闘を余儀なくされて疲労困憊している将兵が少なくないのだ」
「陸正どの、そのような報告は我らが南魏が以前援軍を送った延漢の北西の国境付近でありましたか?陸正どのは以前、延漢の北西の国境付近に赴任なさっていたのですよね?」
魯雲によるこの問いに陸正は首を横に振った。
「いや、私が以前赴任していた北西部ではこんな状況は無かった。たしかに困難な状況はあったが、それは敵である匈奴の攻撃が熾烈であって撃退が困難だったからだ。決して味方である延漢が兵糧や援軍を軽視していたという状況では無かった」
「……」
魯雲たちは自身およびのその部隊の兵糧の一部を廉淵およびその部隊に分け与える事にするとともに陸正に相談した。
「陸正どの、幸い我々はこの地に赴任される際に兵糧を多めにいただいておりますから当面は大丈夫ですが、廉淵どのやその部隊の分も長期にわたって補給してさしあげるのは無理があります。何か良い知恵は無いでしょうか?」
魯雲の問いに陸正は答えた。
「その点についてはすでに武漢に宛てるべき手紙を書いておいた。魯雲どのもご覧になって問題が無いと感じたらそのまま武漢に出すつもりだったのだ」
「かしこまりました。さっそく拝読いたします」
魯雲は陸正の用意周到さに感謝しながら陸正の書いた手紙を読んだ。そこには廉淵の窮状が詳述されており、本来は廉淵を支援すべき延漢にも将兵の増援や兵糧を要求すべきであるが、とりあえず南魏からもさらなる増援とそれ以上に兵糧を送って欲しい旨が書かれていた。
「陸正どの、実に詳細な現状報告と具体的な提案でございますな。非の打ち所がないと思われます」
「魯雲どのにそう言っていただけて光栄です。さっそく伝令にこの手紙を渡して武漢に伝えましょう」
「そうですね。…あ、でも申し訳ありませんが一つお願いがございます」
「何ですか?」
「同じ武漢の僕の官舎に送って欲しい手紙を書きます。私信ではありますが、そちらも今回の件に役立つかもしれませんので、伝令にはその手紙も持って行っていただきたいと存じます」
「了解しました。私信とのことですが同じ武漢であれば手間はそれほどかかりませんし、魯雲どのがそうおっしゃるなら道理があることなのでしょう」
かくして魯雲が書いた私信とともに、陸正が書いた手紙は王都武漢に届けられることになった。
第七章
魯雲からの手紙を受け取った雪蘭は驚いた。魯雲が書いた手紙には廉淵将軍が守る延漢北東部における兵糧不足、それも敵に輜重を奪われたからではなく延漢の東部に厭戦気分が蔓延して本来なら送るべき兵糧が送られて来ないか、送られてきた場合も当初の予定より遅れている、という惨状が述べられていたからだ。しかもその手紙で魯雲は雪蘭にお願いをしていた。豪商である厳春華の一族は王都武漢にも共同で所有している倉庫を持っているはずだから、その倉庫の責任者に食料を都合してもらえないか頼んでほしいとのことであった。しかも公職についている魯雲つまり魯都尉としてお願いして欲しいとのことだった。さらに厳家の当主である厳統さまともお会いしたことがあり、ご息女の厳春華どのと幼馴染でもある魯都尉という素性を明かして頼んでほしいとまで書いてあった。魯雲のせっぱ詰まった願いを知った雪蘭は
「仲明さんは一体どんな苦しい状況に置かれているの?私はどうすれば良いの?」
と途方に暮れたが、商談や視察で武漢に来ていた春華が雪蘭の住む官舎に翌日も訪ねてきたので、雪蘭は魯雲からの手紙を急いで見せた。春華は当初戸惑ったが、すぐに落ち着きを取り戻し、このことは厳家と商業上のつながりのある田家の次期当主である田観という若い男性とも相談し、さらには兵站の専門家とも相談すべきと考えた。
兵站の専門家である許秀は魯雲の妻である雪蘭からの訴えを聞いて驚きながらも、夫を心配する妻としては他人事でないから、雪蘭も含めて現状を打開する策を練ろうと考えた。そしてさらに許秀は豪商である春華や田観の協力も必要だろうと感じたので、春華や田観も会議に参加して欲しいと述べた。
そして更に許秀が銀月を会議に引き入れると、南魏の軍師として軍功第一の郭俊にも参加して欲しいと考えた銀月は郭俊に連絡して、多くの人々が会議に参加することになった。とは言えこれは非公式の会議である。そこで場所をどこにしようかと悩んだが、春華の家業つまり厳家の商売として武漢に持っている商家の中で行うことにした。
魯雲や陸正が送った手紙によれば、延漢の東部では厭戦気分が蔓延し、稀代の猛将たる廉淵将軍が兵糧不足や兵の不足で悩んでいるという事が明かされているが、そうした困難な現状を非公式の会議で打開することは難しそうに思われた。
だが、郭俊には秘策があった。その秘策には春華や田観の協力が必要だが、商人である春華や田観たちの使う手形を利用すれば比較的安定して素早く物資を補給できることを利用して、国という公的な立場ではなく、商人という私的な立場で物資を補給してもらうのだ。もちろん商人である春華や田観に私財を使わせるのだから強制は出来ない。そして出来れば後日、いつかこの延漢の東部の役人の一部の怠慢を堂々と指摘出来る時が来たら、春華や田観の使った私財の全てではなくてもせめて半分は国が補填するように延漢王李荘にお願いすると郭俊は言った。春華と田観は、兵糧の補給は延漢の武将のためとはいえ結局援軍に行った南魏軍つまり魯雲たちが苦しむことになるから私財を使ってでもやるべき、と言ってくれた。ただ、郭俊はそれでもなるべく証拠を残して、どれだけの私財を延漢のために使用したのかが分かるようにしておくことを提案した。今回こうして民間人が補填する額のなるべく多くの割合を、本来は負担すべき延漢に請求するためには、春華や田観が補填したことを示す証拠が無いとならないからだ。
そうした郭俊の提案に春華も田観も賛成し、会議は順調に進んだが、郭俊がとある計画を提案した時は一時紛糾した。郭俊は延漢東部の状況から、役人が兵糧を廉淵のところにまで届けるという本来の役割をするよう説得するためには賄賂を要するだろうと考え、厳家あるいは田家が使う商人の手形を賄賂として渡すべきという提案をしたからだ。この提案をした時、兵站の専門家である許秀も女性文官として高い地位に就いている銀月も戸惑った。
「郭俊さま、何をおっしゃっているのですか?今どき賄賂なんてありませんよ」
許秀が言うと、銀月も
「許秀どののおっしゃる通りです。『三国志』の時代ではあるまいし、賄賂なんて南魏にも延漢にも青燕にも存在しませんよ」
と同調した。春華と田観は発言こそ控えたが、豪商の娘および息子として、役人に賄賂を渡した話など親から聞いたこともないし、自身が家業にたずさわる様になってからも賄賂など渡したことも無ければ聞いたこともない。だから銀月と許秀の発言にうなずかざるを得なかった。
つまり会議の参加者のほとんどが郭俊の計画について「あり得ない前提に基づいている」と感じていたのだ。この時郭俊の脳裏に、かつて韋脩と交わした会話がよみがえった――
ある時、郭俊は韋脩から若い女性文官の話を聞いた。徐明琶というその若い文官は優秀な女性らしいが、『三国志』を読んだ時に感じた疑問を韋脩に投げかけたという。
「『三国志』を読んでいると賄賂に関する話が時々出てきますが、当時は本当に賄賂というものがあったのでしょうか?」
そう尋ねられた韋脩は明琶に答えた。
「たしかに我々が暮らしている南魏のみならず延漢にも青燕にも賄賂など無いから徐君がそう思うのも無理はない。しかし『三国志』の時代には実際に賄賂があったのだよ」
軍功第二位の軍師である韋脩にそう言われても、明琶には実感が湧かず怪訝そうな表情をしていた、と韋脩は郭俊に語った。韋脩はさらに言葉を続けた。
「いくら『三国志』を読んでも、今の時代の常識にとらわれて読んでいては『三国志』の時代の人々の心境や生活は理解出来まい。徐君は優秀だが『三国志』の時代の社会を実感することは出来なかった様だよ」
韋脩によるこの発言に郭俊は意見を述べた。
「韋脩どの、たしかに私たちが暮らしている時代では賄賂など無いのが常識です。しかしいくらそれが常識とはいえ、ひょっとして例外はあるかもしれませんよ?」
郭俊が述べたこの言葉に韋脩は一瞬息を止めた。だがその後に大笑いした。
「ハハハハハ!郭俊どのは冗談がお上手ですなあ!」
軍功では郭俊に次ぐ南魏の第二軍師の韋脩でさえも、郭俊によるこの発言を「あり得ない話をあえてする一流の冗談」と解釈したのだ。さらに言うなら、おそらく第三軍師の法純でも韋脩と同じ反応をしたであろう。銀月や許秀がいくら有能な若手官僚とはいえ韋脩や法純の智謀には及ばない。ならば銀月や許秀が賄賂を前提とした計画などあり得ない前提に基づく話だと考えても無理はない。しかしそれならばこの会議の参加者をどうやって説得すれば良いのだろうと郭俊は迷ったが、そこで雪蘭が口を開いた。
「すみません。私は政治の事は全く分かりません。ですが、郭俊さまは今まで南魏の軍師として軍功一位の功績をあげていらっしゃいます。その郭俊さまがおっしゃることであれば正しいのではないでしょうか?」
この言葉に銀月も許秀も、そして春華と田観も戸惑った。だが、考えて見れば「あり得ない前提に基づく話」としか思えない話でも、南魏随一の知恵者である軍師の郭俊が提案したことだ。ひょっとしたら正しいのかもしれない。そんな漠然とした理由から、結局は郭俊によるこの提案は受け入れられ、商人の手形を賄賂として渡すべきという趣旨の手紙が麗玉に送られることになった。
第八章
延漢の北東の国境で廉淵たち延漢軍の友軍として陣を構えている魯雲たち南魏の将兵は、南魏本国からどんな提案や物資が届くだろうかと心待ちにしていた。実際に届いてみると、作戦に使える物資や、戦う際の注意点を郭俊が記した手紙があり、その他にも兵糧など、当面必要になるものが送られてきたから助かることは助かった。しかし同じ延漢国内から、本来は廉淵が受け取るべき兵糧や将兵の補充について催促する必要もあるだろうと考えた郭俊は、延漢の役人に対して麗玉を交渉に向かわせるべきと考え、その麗玉に宛てた手紙と「あるもの」を同封していた。
しかし郭俊が麗玉に宛てた手紙と「あるもの」を見た麗玉はキョトンとしてしまった。あまりにもあり得ない前提に基づく計画だからだ。そこで彼女は郭俊からの手紙を魯雲に見せながら言った。
「ねえ魯雲。この手紙を読んでみて。なぜ郭俊さまはこんなことを書いたのかな?」
「え?どんな手紙なの?」
麗玉が魯雲に見せた手紙。そこには「麗玉どのが役人との交渉に行くべき」という提案とともに「延漢の役人は賄賂を要求するだろうから、その場合は同封した手形を麗玉どのから役人に渡すように」という提案も書かれていた。また、実際に厳家と田家の使っている商売のための手形も同封されていた。それらを見た麗玉は述べた。
「郭俊さまはこんな命令をお出しになったけど、そもそも前提が間違ってるわよね?今どき賄賂なんてあるわけ無いじゃん」
麗玉によるこの言葉に対して魯雲も
「うん。そうだよね。郭俊さまはそんなあり得ないものについて一体どうして指示を出したんだろうね?」
その場にいた陸正も二人の話を聞いて頭をかかえた。
「ありえませんよ今の時代に賄賂なんて。郭俊さまは何故そんなあり得ない話を想定した対策を手紙に書いたのでしょうね?」
麗玉と魯雲と陸正が頭をひねっていると彭蒙が尋ねた。
「何だい?その賄賂ってのは?」
彭蒙の問いに魯雲が答えた。
「公徳、賄賂っていうのは役人が自らの立場を利用して、自国の民や他国の人から不当にお金を巻き上げる悪政のことだよ」
この言葉に彭蒙も首をかしげて
「そんなもん、見たことも聞いたことも無いな」
と答えた。そこで麗玉が言った。
「そうなのよ公徳さん…いえ、彭蒙どの。なのでそんな見たことも聞いたこともないもののためにわざわざ命令を下した郭俊さまの意図が分からなくて私たちは戸惑ってるのよ」
麗玉の言葉にしばらく悩んでいた様子の彭蒙だったが、やがて口を開いた。
「まあ、たしかにそんな賄賂とかいうものはオレも見たことも聞いたこともない。だが、あれだけ多くの戦で勝利を収めてきた郭俊さまがおっしゃることだ。だから今回も郭俊さまの意見が正しいんじゃないのか?」
軍師としての郭俊の勝率はおよそ八割五分にもおよぶ。しかも一度負けた相手に対する再戦では必ず勝っている。郭俊の戦績について、武勇はあっても知恵が無い彭蒙が「約八割五分」という具体的な勝率まで把握していたわけではないだろう。だが、漠然と「郭俊さまの作戦通りに戦えばほとんどの戦で勝ってきた」という経験則が彭蒙にそのことを発させたのである。そこで麗玉も納得した。
「まあ、たしかに郭俊さまのおっしゃる通りに動いて負けたことって滅多にないもんね。……よし、あり得ないとは思うけど、私は郭俊さまのご命令通りにこの手形を懐に忍ばせておくよ!」
魯雲と陸正も彭蒙の話を受け入れた。今の時代、南魏はもとより延漢でも青燕でもあり得ない話だと思っても、あの郭俊が言うことなのだからひょっとして正しいのではないか。そんな漠然とした予感が魯雲の胸中にも湧いてきた。
後日麗玉は部下を連れて陣を離れ、役人たちとの直談判に向かった。稀代の猛将廉淵将軍とその配下の将兵に充分な兵糧を送らず将兵の補充や交代も行わないのでは飢えと疲労で充分な戦果をあげられないのも無理はない。その様な事態になれば延漢の北東部は匈奴に蹂躙されるだろう。麗玉は自らの懸念を単刀直入に伝えた。
だが、厭戦気分が支配する延漢東部の官僚たちは麗玉の諫言に素直に従わなかった。延漢はいっそ匈奴の臣下という地位を得て、独立国であることを放棄すべきではないかという意見を述べる者さえいた。
「この地方を治めていらっしゃる方たちは一体何をお考えですか?廉淵将軍に充分な兵糧と将兵を送り、東方の守りを固めるべきです!」
と麗玉が語気を荒げても、援軍も兵糧も急いで送る気配もなく、遅れてもかまわないかのようなやる気のない口調で答えた。
「しかしなあ、廉淵将軍は確かに当代随一の猛将であるが、智謀には欠けている。西楚の覇王項羽のごとき暴君にならないとも限らない」
だが、この言葉に麗玉は激しく反論した。
「廉淵将軍が武芸随一、我が南魏の彭蒙をも凌ぐ豪傑であることは、廉淵将軍こそ貴国延漢が誇るべき至宝であるという意味です!貴公は猛将廉淵将軍を覇王項羽になぞらえられましたが、武芸に秀でた者が項羽のような残虐な行為をする者ばかりとは限りません!光武帝劉秀のために尽くした、楊虚侯馬武という忠義の猛将も歴史上存在したではありませんか!」
雲台二十八将の中で最強の武を誇る稀代の猛将の名をあげて廉淵を擁護する麗玉の気転と博学さに、厭戦気分に浸っていた役人たちは少なからず驚いた。そしてさすがに何も改善しないのは示しがつかないと感じたのか、輜重を担当している属官にはもう少し急ぐようにと伝えるとの約束はした。ただ、麗玉の気迫と弁舌によってやむを得ず改善したという感じで、匈奴に土地を奪われるという危険性をあまり意識している様には思えなかった。
そこで麗玉は、郭俊から預かった商人の手形を、別れ際にそっと役人の袖の下に潜り込ませた。すると、それまで面倒くさそうにしていた役人の目つきが一変し、今までに見たこともない卑しい笑みを浮かべて手形を懐に収めたのである。その様子を見た麗玉は
(まさか本当に賄賂というものが今でも存在するなんて!……)
と驚愕し、背筋が寒くなるのを覚えた。
その後、南魏の陣営に戻った麗玉は魯雲や陸正と再会すると、延漢の東部の役人の一部が賄賂を受け取った事を報告し、彼女が光武帝劉秀の配下の馬武を引き合いに出して廉淵を弁護したことも話した。
賄賂の話も魯雲や陸正を驚かせたのはもちろんだが、如何に賄賂が当時において稀有な事であるとは言え、すでに「あの郭俊さまがおっしゃる以上ひょっとしたら本当にあるのかもしれない」と考えるようになっていた魯雲と陸正にはそれほど大きな驚きではなかった。だが楊虚侯馬武を引き合いに出して廉淵を弁護した麗玉の気転には二人とも感心した。
陸正は言った。
「馬武ですか……なるほど麗玉どの、実に見事なたとえです。馬武は荒くれ者で酒を愛し、時には言葉も通じぬ野人のようであったが、光武帝劉秀への忠義だけは一度として揺るがなかった。廉淵将軍が学問を修めていないからといって項羽のような破滅の刃と見なすのは蒙昧でしょう。廉淵将軍の素晴らしい武勇をただ恐れるのではなく、その無垢な忠誠を信じて前線を任せる……それこそが器というものです」
魯雲も麗玉を絶賛した。
「朱さんの見識はまさに文武の鑑だね。廉淵将軍の胸中にあるのは馬武と同じく『主君と民を守る』という一本のまっすぐな大樹。それを僕たちが知力という一つの基準で評価しては、それこそ廉淵将軍の力を殺してしまう。朱さんの言う通りだ。僕らは廉淵将軍の背中を信じて、ただ将軍を支えればいいんだよね」
陸正および魯雲という知略に優れた二人に評価された麗玉は少し照れくさく感じたが、自らの判断が間違っていなかったと思えたおかげで安心できた。
現時点ではここまでです。続きの発表時期は未定ですが、大まかな構想は既にあり、現在執筆中です。「賄賂が稀有な存在」とか「宦官が登場しない」という点で、本作は中国の王朝を舞台にした物語としては異例な作品だと思いますが、硬派な歴史ifがお好きな方にお読みいただいて楽しんでいただければ幸いに存じます。




