29.薬局売却・微笑み社長のどんでん返し
結局私の激怒の電話抗議によって、一か月という準備期間を待たずして夢野薬局はABC薬局チェーンに売られることになった。私はその日からABC薬局の正社員という条件でここに残り、業務の引継ぎをすることに決めた。
もうこれであの貧乏神社長とも縁が切れる。社長は社長で、好きなだけ日出夫と一緒に夢の話をしていればいい。私は小市民として、コツコツと朝から晩まで働いて小金を稼ぐから。
「ねえ、この頃黒岩さん、痩せたんじゃない」
ジュンちゃんがつぶやいた。そういえばダンディー黒岩は二階の事務所には行っているけれど、最近は薬局には寄らないから、あまり気にしていなかった。まあ、いろいろ心労があるのだろう。
でもジュンちゃんは転職してここを去って終わりだけれど、私はここに残って次の会社に対してちゃんと引継ぎをしていく。難しくはないけれど、引継ぎをする人がいなければ、急にここを買い取るという話は進まなかったであろう。引継ぎをする人がいるからABC薬局はここを買い取った。そして売却によって得られた金額は、黒岩の営業所の借金の支払いに充てられる。私は、私たちを信じて応援してくれた黒岩に対して、ちゃんと義理は果たしたのだ。
最後に黒岩が私たちの薬局にやってきた日のことは忘れられない。
痩せたどころではない。げっそりとやつれ、もはやダンディーの面影はどこにも見られなかった。
「来月から岩手の営業所に移動になった」
私たちは言葉に詰まった。何と言って返せばいいのか。つまり、左遷させられたのだった。
「給料が止まったのが、もう少し早く分かっていたらなぁ」
ここに来て言ったのは、その二つの言葉だけだった。それは私たちに言ったのか、独り言だったのか分からなかった。それ以来、黒岩とは会っていない。
でも私はここに残ったことにより、義理は果たしている。数日の間、それで全て解決したと思っていた。
「いやあ、あの社長さんには押し切られましたよ」
数日後、くらげ課長から聞いたことだった。
本当はここを売ったお金は、右から左へ黒岩の営業所の借金の支払いに行く予定だった。ところがギリギリになって、ほほえみ社長が拝み倒した。
「申し訳ありません。どうしても事情があって、このお金を他に回したいのです。ええ、もちろん黒岩さんへはちゃんとお支払いします。本当に必要があって困っています。お願いします。お願いします」
ここで社長の天性のほほえみパワーによって、薬局を売って問屋に支払われるべきお金は、訳の分からない借金ために消えてしまった。
「あとは、我々が毎月社長さんに支払う家賃で、少しずつ黒岩さんへの借金を払うことになってしまいました」
くらげ課長は呆れて言った。
してやられた!
あの社長はああやって、真心いっぱいに見える笑顔で、相手をダマすのがいつもの手なのである。
どれだけあるか分からない借金を抱えて、今後自分は取引をしない薬問屋へ払う気などある訳がない。毎月の家賃だけとなると、これは何年かかるか分からない。
それも仕方ないことなのだろう。お互いにそこにいた人たちが納得して決めたことなのだから。そうやってみんな、あの笑顔にだまされていく。
しかし私はまだ覚えている。最初に会った時にダンディー黒岩が言った言葉を。
「俺はこの薬局に、俺の夢を賭けているんだ。なあに、ダメだったらここの支払いの五百万や六百万くらい、俺の自腹から出してやるさ。俺はそのくらいの気持ちでやっているんだ」
ならばこうなった今、黒岩が自分のお金を自分の会社に払えばいいのではないか。その気が無いのなら、最初からそんなことは言わなければよかったのに。
ここで見るものは夢などではない。
男たちが落ちてゆく姿ばかりだ。




