582.大海蛇の鏡と腕輪話
3月にコミックス2冊が発売です。
住川 惠先生、『魔導具師ダリヤはうつむかない』9巻、3月10日
彩綺いろは先生、『服飾師ルチアはあきらめない』6巻、3月18日
どうぞよろしくお願いします!
窓から差し込む光が、作業台の上にある水晶板をきらきらと照らしている。
広い作業場の壁は艶やかな白、床は濃灰の大理石、家具と調度は黒と銀、床から天井まである黒い棚には本と魔封箱、ガラスケースなどが整然と並んでいた。
ここはオズヴァルドの工房。
ダリヤは今まで何度も来ているのだが、乱雑になっているのを見たことがない。
心から見習いたい。
「では、始めます――」
ダリヤは作業テーブルの向かいにいるオズヴァルドに、そう宣言する。
そして、大きい匙で大海蛇の肺の粉をすくい、水晶板の上、数ヶ所に置いた。
以前、手鏡の大きさのものを作った。
しかし、だんだんサイズが増し、今回は書類四枚分ほどの大きさである。
手で持ち上げられないので、作業机に置いたままで進めることになった。
落ち着くべく一度息を吐くと、右手を持ち上げる。
二本の指から魔力を流し、青灰色の粉を溶かし広げ、均一に付与する。
あせらず、ゆっくり、正確に――
薄い水晶板は静かな泉のようなもの。
魔力で波紋を立てるのではなく、ただ静かに満たしていくだけ。
ここまで感覚として学んだ付与を、ダリヤは淡々と続けた。
やがて、魔力がふわりと指に戻る感触に、満ちた、とわかった。
指をそっと離せば、水晶板であったものが、鏡のように自分の面を映す。
鏡の上に手をかざしても、どこも歪みは見えない。
そこからは付与に抜けがないか、高低差はないか、気泡がないかを慎重に確認する。
均一な付与は、地味に見えるが難しい。
ダリヤはこの課題で、これまで何度も失敗している。
表面が波打つ、まだら模様、気泡が入る、色がついてグラデーション。
一緒に付与を学んだラウル――オズヴァルドの息子と共に、何度恨めしく水晶板を眺めたことか。
今日はラウルも学院で試験だそうで、お互い緊張して先生に向かっているのかもしれない。
作業机の向こうでは、銀の目が静かに自分の手元を見つめている。
今日は一つのミスもなくうまくいった、と思いたい。
「できました」
「拝見しましょう」
オズヴァルドは立ち上がると、テーブルの上の鏡を見る。
角度を変えて細められる目、時折、表面に触れる指――黙ったまま行われる確認は、どうしても長い時間に感じられた。
開け放たれた扉の向こう、隣の部屋にはヴォルフがいる。
本日の付き添い役を引き受けてくれたためだ。
今頃、ダリヤの課題が通るかどうかを心配してくれているだろう。
けれど、今は彼のいる部屋に目を向けることはしない。
商業ギルドからここに来るまでの馬車では、あまり会話が弾まなかった。
正確には、ヴォルフの口数が少なかった。
課題のことを話していたから、気を遣ってくれたのだろう。
でも、もしかしたら、ダリヤがうまく話を振れなかったということもありえる。
これからもヴォルフと楽しく話せるよう、本を読んだり、他の人と話したり、話題を豊富にする努力をするべきかもしれない。
そこまで考えて、ダリヤははっとする。
最近、何を考えても最後はヴォルフに行き着いてしまう。
今は貴重な学びの機会、先生に実技を確認してもらっているところだ。
余計なことは考えまい。
ダリヤは背筋をただし、オズヴァルドの言葉を待った。
「完璧です。魔力制御を、とてもよく学ばれましたね」
穏やかな声と笑みに、肩の力が抜けた。
「ありがとうございます、オズヴァルド先生」
「――ただ」
続く言葉に、思わず身構える。
だが、先生はにこやかに笑んだままだった。
「付与にかける時間はもう少し短くしましょう。ダリヤなら、あと三分の一ほどは削れます」
「三分の一、ですか?」
「ええ。力みが抜ければすぐでしょう。ここからは数をこなす段階です」
今回も時間をそうかけたつもりはなかった。
そこから三分の一の時間を削るのには、一体どのぐらい付与がいるものか――
遠い目になっていると、声が続いた。
「私から依頼を出してもよろしいですか? 数は四十、納期は四ヶ月。材料は分割支給で予備に三割を付けます。利益の取り分は六対四でどうでしょう?」
練習がそのまま仕事になるらしい。
予備材料までもらえるとは、いたれりつくせりである。
「ありがとうございます! 全力を尽くします」
少し勢い込んで返すと、オズヴァルドは微妙に口元を歪めた。
「ダリヤ、魔導具師としては合格ですが、商会長としては不合格です」
「え?」
「私相手なら、七対三に下げるよう交渉なさい」
思わぬ教えに、言葉に詰まる。
「……その、材料は支給していただきますし、予備分もありますから、おかしくないと思うのですが……」
「イヴァーノなら七割五分は寄こせと笑顔で言うでしょうね」
「う……」
自分の見積もりは甘いらしい。
商売はすべて副会長に任せている弊害である。
やはりここからもう少し、商業的なことを学ぶべきだろうか。
「人には向き不向きがあります。金額交渉が苦手なら、後で見積を送りますと言って持ち帰りなさい。そして、イヴァーノを前に立たせることです。彼ならよほどの相手でないかぎり、天秤を相手に傾けることはないでしょう」
「わかりました。あの、こちらもイヴァーノに相談してよろしいでしょうか?」
「任せて構いませんよ。イヴァーノも私の生徒ですから、実習といたしましょう」
ごめんなさい、イヴァーノ。オズヴァルド先生がなんだかすごくいい笑顔です、ダリヤは内で謝罪する。
そして、神妙な表情で使った道具を片付け始めた。
大海蛇の粉の瓶を棚に戻していたオズヴァルドが、不意に振り返る。
「予定より早く終わりましたね。ヴォルフ様もご一緒に、東ノ国のお茶はいかがですか?」
「ありがとうございます」
その提案に、ダリヤは素直にうなずいた。
・・・・・・・
移動した客室で、オズヴァルドはメイドを下がらせた。
そして、ダリヤとヴォルフを前に、手ずから緑茶を淹れてくれる。
手慣れているらしいきれいな所作だった。
淡い湯気と共に、やわらかな緑茶の香りが広がっていく。
ダリヤとヴォルフは、勧められた茶碗を口に運ぶ。
少しの苦味とほのかな甘み、澄んだ香り――
ここまで張りつめていた気持ちが、ゆっくりとほどけていく気がした。
「こちらの菓子は緑茶の仕入れ先からお勧めいただいたものです」
「そうなのですね。茶色と黄色の色合いがきれいです」
目の前に出されたお茶菓子は、スポンジケーキ――四角ではなく三角に切られているが、前世のカステラを思わせる色合いだ。
口に入れると、ややしっとり、それでもふわと軽い食感で、しっかりした甘さだった。
その味はカステラにかなり近い。
味わいの黄金比というものがあるのかもしれない、そう思いつつ、しっかり味わった。
「つい先日のことですが――」
お茶を飲みながら、オズヴァルドが話し出す。
高等学院のバザーできれいな画が売られていてすぐに服飾ギルドに買われたこと、国境で蜂蜜市なるものが開催されること、最近は商船の行き来がスムーズで香辛料が少し安くなったこと――彼は本当に話が巧みだ。
自分だけが話すのではなく、ダリヤとヴォルフが学生だった頃の学院祭について、あるいは蜂蜜を使った菓子の好みなどもさらりと質問される。
ヴォルフと共に笑顔で話し合うことができた。
オズヴァルドはこういったところもまさに先生だ、そう思えた。
二杯目のお茶を淹れつつ、先生が話題を変える。
「ダリヤはそろそろ、防御の腕輪を作ってもいいかもしれませんね」
「大丈夫でしょうか?」
以前はまだ難しいと判断されていた防御の腕輪。
そこまで腕がしっかり上がった自信は、正直ない。
「付与は確実に上達していますから、問題ないでしょう。肩の力を抜くことが必要ですが――ヴォルフ様、あまりダリヤが仕事ばかりしないよう、声をかけていただければと」
「ぜひ、そうしたいと思います」
ヴォルフにしっかりうなずかれた。
仕事ばかりなどしない、勉強も研究もする、あと、ヴォルフと話したり食事をしたりもする、そう言いたいところだが黙っておく。
「では、ダリヤは近いうちに、自分用の防御の腕輪を作り――」
オズヴァルドが言いかけて止める。
その銀の目はダリヤではなく、ヴォルフへ向いていた。
どうかしたのだろうか、そう思って隣を見ると、ヴォルフがちょっとだけ右手を挙げていた。
「――その前に、何本か銀の腕輪で、二つの付与あたりから練習しましょうか。いきなり金というのも緊張するでしょうから」
「はい、そちらでお願いします」
ダリヤがそう答えると、かぶせるようにヴォルフが続けた。
「――そちらの銀の腕輪は、私の方で買い取らせていただければと思います」
「ヴォルフが、ですか?」
「ああ。その、マルチェラとドナにあってもいいかなと思って」
右手を挙げていた理由に納得した。
彼らの腕輪について相談しようとしていたのだろう。
「なるほど。だと、メーナにもあった方がいいかもしれません」
イヴァーノは足首に高機能の防御の足輪をつけているので問題ない。
しかし、メーナは自分が知る限りそういったものはなかったはずだ。
「銀の方は仕事用ですからシンプルなものがいいでしょう。ダリヤの金の腕輪はしっかりした台に、きれいな色石を入れるのもいいですね。金の台であればブレッサン商会が、色石ならアリオスト商会がお勧めです。ヴォルフ様はご存じですか?」
「はい、アリオスト会長には、お披露目の際にお勧めいただきました」
「イエローサファイアやブラックダイヤなどの石は、弟の商会が扱っております。スカルファロット家でご入り用の際はぜひお声がけください」
横で話が続く中、ダリヤはちょっとだけ思い出に浸っていた。
以前、婚約をしていたトビアスへ、自分は腕輪を贈らなかった。
色石は準備したがそれだけで、台は彼が好みのものを準備するというので放置して――振り返れば、なんとも薄情な婚約者だった。
次があれば全力で腕輪を作るものを――待つのだ、自分。
その予定はまるでないではないか。
いや、そもそも、アクセサリーとしての腕輪であれば、自分で自分の色を入れるのもありだ。
緑の塔の仕事場、棚の奥にしまい込んだままのルビーがある。
なかなかきれいで、自分のイメージとしてはおこがましいが、あれを入れるのもいいかもしれない。
それなりのお値段だったのだ、しまったままではもったいない。
そんなことをいじましく考えていると、ヴォルフの声に我に返った。
「ところで、オズヴァルド殿の腕輪はどのようなものか伺ってもよろしいでしょうか?」
「こちらです。防御の腕輪も兼ねております」
オズヴァルドが左の袖を少し引き、結婚腕輪を見せてくれる。
「裏側はダリヤの防御の腕輪と同じ効果で、銀に見える白金にダイヤを三つ入れています。妻達もすべて同じデザインですよ」
白金の台にそれなりの大きさのダイヤが三つ、光を受けてきらきらと輝く。
「とてもきれいですね……」
「とてもまぶしいです……」
二人そろって感心してしまった。
オズヴァルドが懐かしげに腕輪を見つめた。
「プロポーズのためのものですから、魔力に次いで、気合いも入れたものです」
「素敵な贈り物ですね」
つい、そう言葉が出てしまった。
「兄の助言なのです。腕輪を渡しながらプロポーズすれば相手も少しは断りづらくなるだろうと」
「そんな説が……」
ヴォルフが金の目を丸くする。
オズヴァルドは銀の目を細め、優雅に笑った。
「派手に散ったこともありましたからね」
どう相槌を打っていいのかわからぬ言葉に、ヴォルフが思いきり咳き込んでいた。




