562.二人の飲み会と紅霞草
・オーディオブック『魔導具師ダリヤはうつむかない』5巻、ナレーター 梶山はる香様。10月3日より配信開始となりました。
・コミックス『魔導具師ダリヤはうつむかない ~王立高等学院編〜』3巻、赤羽にな先生 10月18日発売、特典情報のお知らせを活動報告(2025年10月01日)へアップしました。
・『護衛騎士ヨナスはふりむかない』発売中です。
どうぞよろしくお願いします!
「ごゆっくりご歓談ください」
料理人とメイドが出て行くと、部屋は二人だけとなった。
緑の塔ではよくある、というか、ほとんどそうなのだが、こちらの屋敷では初めてで、妙に落ち着かない。
もっともそれはヴォルフだけらしい。
ダリヤは、くつろいだ表情で庭を眺めている。
きれいな横顔をじっと見つめていたら、本人に気づかれた。
「父の作ったものもありそうです」
彼女の目は、父であるカルロが作った虫除け付き小型魔導ランタンを探していたらしい。
淡いオレンジは動きも強弱もつかないのだが、ふと思い出す光があった。
「銀蛍を思い出すね」
「銀蛍を思い出しますね」
二人同時に言って笑ってしまう。
「来年も湖へ見に行こう。その前に、冬にも領地へ行きたいけど」
「そうですね。リチェットさんから、浅い沼地向きの疾風船ができたとお知らせいただきましたし。実際どんな動きなのか、見てみたいです」
「それはもう船と呼ぶべきなのか……」
疾風船は順調に改良を重ねられているらしい。
湖と川の多いスカルファロット領では、使えるところも多そうだ、そういったことを考えつつも、ヴォルフは気になったことを口にする。
「ダリヤ、その……二人になったから、言葉を戻してもらえればと」
「そうね」
当たり前のように彼女が笑う。
ヴォルフは琥珀色の蒸留酒、ダリヤは果実酒のグラスで、なんとなく二度目の乾杯をした。
そこから話を再開し、魔物討伐部隊に黒風の魔剣ならぬ、黒風の槍の新しいものが入ったこと、スライムの粉によるなかなか落ちにくい口紅のことなどを交互に話していく。
続く話は王城の兵舎となった。
「兵舎の部屋数が足りなくなってきたから、改築の話が出てるんだ」
「もしかして、騎士団員を増やさなければいけないようなことが?」
「いや、昔より、独身者と家から通わない者が増えてるせいだって」
言いながら気づく。自分もそうである。
ダリヤも思い当たったらしい。
「やっぱり魔物討伐部隊の仕事だと、兵舎にいる方がいいもの?」
「いや、そう変わらないと思う。五日に一度の待機の日は、待機室に泊まるだけだし」
兵舎の自室には、それほど荷物もない。家には馬もいる。通うのに支障はない。
兵舎にいたのは、ぬくもりを感じられない別邸にいるよりはマシだったからだ。
それがたった一年と少し前。
ここはこんなにも居心地がいいと、今日、ようやく知った気がする。
「ここに帰ってくるのもいいかもしれない……」
ついそう言うと、ダリヤが顔をほころばせた。
「それなら、私がロセッティ商会でこちらにいる日に会えるわね」
囓ろうとしていたソルトバタークッキーが、口元で二つになって落ちた。
それを何事もなかったかのように小皿に置き、指先でさらに半分にしてしまう。
それでも平静を装って、ヴォルフは返す。
「ああ。俺が帰ってきたらロセッティ商会で働く君がいて――いや、いることもあって、こうして気軽に食事も一緒にできるし。やっぱり兵舎の部屋を遠いところから来る騎士に譲るためにもこっちに帰るべきだよね」
次第に口調が早くなってしまったのは、高等学院卒業後、各地出身の新人騎士を考えてのこと、そして、いつも塔でご馳走になるばかりだったから、別邸でダリヤにおいしいものを食べてほしいということからだ。
彼女に会う口実と回数と時間が増えるのが一番の理由ではない、けして。
そうね、と普通に相槌を打ったのち、ダリヤはカットオレンジを味わっている。
そして、ヴォルフのあせりを横に、話題を変えた。
「そういえば、私、湖でどうしても気になっていることがあって――」
「なんだろう?」
「二回叩かれたら、二倍浮力がつくのかしら?」
どこで誰が、そう詳しく言われなくてもわかる。
スカルファロット領のグラティア湖、水の精霊であるグラティアは、ダリヤが気に入ったらしい。
他の者の倍、彼女をその水のヒレで祝福していた。
「溺れたくても溺れられないくらい――全然沈まないとか?」
「それじゃ泳げないわよね?」
「水に一切濡れないとかかもしれない」
「そうなると泳ぐどころか、水際で水遊びもできないのでは?」
「大丈夫。そのときは俺が君の腕をつかんで、全力で水に引きずり込むよ」
「言い方が完全に犯罪者」
今晩は二人とも酔っているようだ。
他愛ない話で、笑い声がずっと続く。
魔導具の本を見るか、カードで遊ぼうといって誘ったのだ。
特に、カード遊びは二人よりもっと多い人数の方が面白い。
ドナやメイドに付き合ってもらって遊ぼう、そう思っていた。
けれど、二人だけで話すのが楽しくて、このままでいたいと思ってしまう。
ダリヤといると、時間が加速する気がする。
けれど、そろそろ夜も深くなってきた。
彼女が少しだけ眠たげな目になっているのは当然だ。
騎士でもないのに威圧を一日で二度受け、大公を守ろうと彼女なりに戦い、もらった贈り物で胃を痛め、ここにいるのだから。
むしろ大変な一日だったのだ。
眠くなったのなら、そのまま眠ってもらう方がいいだろう。
「ダリヤ、眠そうだし、今日は泊まっていかない?」
「あ! もう遅いからそろそろ帰るわね」
彼女は帰りの時間を教えられたように立ち上がろうとする。
ヴォルフは咄嗟にその手をつかんでしまった。
「いや、違うんだ。俺は遅くなるのは全然構わない。長く話せるのはむしろ嬉しい。ただ、ダリヤも疲れているだろうから、このまま泊まってもらって、また明日、起きてすぐから話せればと思って……」
「ありがとう、ヴォルフ。それは楽しそうだけれど、泊まりは皆様にご迷惑がかかるから」
「いや、ダリヤの部屋もあるんだし、あとは眠るだけだし……」
つかんだままの手に気づき、失礼すぎると慌てて離した。
グラスからか、果実酒の甘い香りが漂っている。
だが、それより隣のダリヤの方がいい香りで――
俺は犬か、そう思ったら、恥ずかしさに頭痛が一段重くなった。
額に手を当てていると、彼女に名を呼ばれる。
「ヴォルフ? 顔が赤いみたい」
「光の加減じゃないかな」
違うのだ、我が身をちょっと恥じているだけだ。
そう、言うに言えない。
「ちょっとだけ、額に触れていい?」
「構わないけれど熱もなく大したことはないんだ、本当に」
恥じすぎて口から出るままに言葉を返す。
自分に伸ばされた彼女の白い腕、細い指が冷えていて気持ちがいい。
「ヴォルフ、熱があるじゃない!」
「いや、これは違――」
言い訳を考えている間にダリヤが立ち上がった
続いて立ち上がろうとし、くらりと視界が揺れる。
その間に、彼女は思わぬ早さで部屋を横切り、廊下に続くドアを開けた。
「どなたか! ドナさん! ヴォルフが熱を出しています!」
「はいっ!」
廊下で待機していたらしいドナが、すぐに部屋に飛び込んできた。
「たいしたことないよ」
「ヴォルフ様、一応、ちょっと失礼しますね――結構ありそうですね。風邪じゃないでしょうか……なんでここで……」
最後の方が聞こえなかったが、それどころではない。
自分が風邪なら、ダリヤにうつしたら大変だ。
だが、先に動いたのはドナだった。
「すぐ医者を呼びます。ロセッティ会長、申し訳ないのですが、ヴォルフ様の風邪がうつるといけませんから、移動をお願いします」
「そうだね。ダリヤにうつしたくはないから。ごめん、せっかく来てもらったのに」
「いえ、ヴォルフの体が一番ですから! 明日もちゃんとこちらで休んでください」
ダリヤが丁寧な言葉に戻ってしまった上、夏祭りの約束をなしにされるのが辛すぎる。
壁をガリガリとひっかきたい思いになっていると、ドナが口を開いた。
「それなんですが……申し訳ない続きになりますが、馬車の関係で、俺はできれば、ヴォルフ様のいる方で待機しておきたくて。あと、ロセッティ会長もすでに風邪がうつっていて、明日から具合が悪くなる可能性があるので、しばらくこちらにいてもらえません? ご迷惑だとは思いますが、大丈夫だとなったらお送りしますので。あ、もちろん、必要なものは全部メイドがそろえますから」
「ありがとうございます、お世話になります。何より、ヴォルフを最優先でお願いします。私はお借りしている部屋がありますし、今のドレスも、こちらに置いている服もありますから」
「助かります。メイドを付けますし、よろしかったら本と庭は自由に。メイドは風邪慣れしてますし、交代できますから。あと、内緒ですが、一族の皆様から風邪をうつされると手当がつきますから、遠慮は一切なしで」
ヴォルフが口をはさむ間はなく、流れるようにダリヤの宿泊が決まる。
願ったのは自分だが、その理由が自分の風邪というのが、とても残念だ。
「お大事に――ヴォルフ」
その後、ダリヤはやってきたメイドと共に部屋を出て行った。
彼女の背を見送ったヴォルフは、深いため息をつく。
「ヴォルフ様、残念でしたね。でも、ここからがあるじゃないですか」
いい笑顔で慰めてくれるドナだが、ダリヤに迷惑をかけてしまう形だ。
素直に喜べるわけがない。
「部屋を出る前に、ちょっと失礼しますね」
彼はハンカチを出すと、ヴォルフの唇を拭く。
料理のソースがついていたのかもしれない。
ダリヤの前でそれで話していたかと思うと、とても恥ずかしい。
「あれ、取れない……新しく出たスライム粉入り……?」
ごしごしと拭かれつつ、不思議そうなつぶやきにハッとする。
スライム粉入りの最新口紅は落ちづらい、その話も聞いた。
彼女の朱の唇は艶やかだった。
だが、不埒なことは一切していない。
「違うから! ないから! 赤いのは熱の……!」
言いかけて咳き込んだ。
いよいよ喉もおかしい。
せっかくの夏祭りは風邪で台無しになりそうだ。
せめてもの救いは、彼女が同じ屋敷にいてくれることだが――悔しいものは悔しい。
ヴォルフは床に穴を掘りたい思いになりつつ、自室の寝室へ向かった。
・・・・・・・
「紅霞草の花粉を吸い込んだ――いわゆる、『森妖精の口づけ』、ですね」
ベッドの横に立つ白衣の医師は、ヴォルフに笑顔で告げた。
同室しているドナが、ほっとしたように肩の力を抜く。
「花粉を吸い込んだ量にもよりますが、数日、熱が出て、声のかすれが続きます。こちらの薬を――眠れる薬も足しておきます。治癒魔法はお使いにならないでしょうから、その間は安静になさってください」
「……ありがとう……ございました……」
「いえ、魔物討伐部隊であればより、紅霞草に遭うことも多いかと思います。国の守りに感謝申し上げます」
かすれ声で言うと、逆に礼を言われた。
そうして、医師は短い時間で部屋を出て行った。
『森妖精の口づけ』は、珍しくない病だ。
森に生息する、紅霞草という、かすみ草に似た形の、赤い小さい花がある。
霞のように花粉を薄く飛ばすことから、その名がついたそうだ。
その花粉を吸い込んだ者は、個人差があるが、一週間から十日ほど後に熱を出す。
熱冷ましが効くので、数日、あまり動かないでいられるなら問題ない。
魔物討伐部隊員がよくかかる病気の一つである。
遠征中に発症した場合、病人用の馬車に一、二日乗るか、馬と一緒に待機役になるくらいだ。
治癒魔法で治すこともできるが、魔力を持つ者はまず治さない。
少しだが、魔力値が上がるというのが、その理由である。
もっとも、一度で耐性がつくので継続した魔力上げには使えないが。
ちなみに、この病気のわかりやすい特徴は、森の妖精が気に入った者に口づけたせいといわれる、唇の赤さである。
今のヴォルフもいつもより数段、赤が濃い。
ドナがとんでもない勘違いをしたのもそのせいだ。
「なんでこの時期に……」
誰に苦情を言うこともできず、ベッドの上、かけられた毛布をがじがじと噛みたい思いである。
薬を飲まされ、夏休みはまだある、そうドナに慰められていると、ノックの音がした。
彼に対応してもらったが、心配しているダリヤがまだ起きているという。
自分から説明したいと伝え、申し訳ないがこちらへ足を運んでもらうことになった。
「紅霞草の粉だったんですね。風邪じゃなくてよかったです」
「明日にでも……治癒魔法で……治してもらって……夜は、緑の塔で花火を……」
ダリヤと花火を見るためなら、少しの魔力上がりなど、あきらめてもいい気がした。
しかし、自分の提案は彼女に止められる。
「でも、ヴォルフは魔力が上がった方がいいですよね?」
「……君と……花火を見る方がいい……」
「それは、また来年みればいいですよ」
当たり前のように言われ、うれしいがうれしくない。
高めの熱のせいか、まるで物わかりの悪い子供になったようだ。
「あの、横からの上、さしでがましいんですが、この屋敷で、窓を開けてみたらどうです? 高さはないですけど、王城には緑の塔より近いですから、それなりに見えます。それならヴォルフ様に無理はないですし、ロセッティ会長との約束も守れます」
「それでしたら、続けての滞在はご迷惑になりますから、一度帰って通わせていただければと――」
「むしろ、屋敷の者は暇だったので大喜びですよ。夏祭り中でも待機は決まっていますし、張り合いが出ますし。あと、ぶっちゃけ、うまい料理を多めに作れるので、使用人のメニューもちょっと豪華になります」
「そうなんだ……俺は今まで……気づかなく……」
「ヴォルフ様、薬が効いてきたんでしょう、ご無理なく。付き添いが犬くさい俺で申し訳ないんですが、起きたら何でも申しつけてください」
ドナのこんな声を、昔、聞いた気がする。
あれは子供の頃か、毒慣らしで母ヴァネッサと共に具合を悪くし、ベッドを並べていたときだったか。
具合が悪くても、怖くもさみしくもなかった。
「ありがと……ドナ……安心だ……」
なんとかそう答えると、ダリヤも口を開いた。
「ドナさん、お言葉に甘えさせてください。ヴォルフ、私はこちらでお世話になります。しっかり休んで、早く良くなってください」
「皆、喜びますよ。ヴォルフ様、さくっと治して、残りの夏休みをロセッティ会長と過ごさないと!」
以前、兵舎で一人で熱を出したとき、誰にも近寄ってほしくはない、そう思った。
ただただ、体の奥から冷えて寒かった。
あれは寒いのではなくさみしいのだと、よくわかった。
自分の隣には母の騎士。
見上げるダリヤとも、明日、またすぐに会える。
願わくば、それが毎日となるように――
「うん……明日も……明後日も……ずっと一緒にいたい……」
ベッド脇のダリヤが一拍動きを止め、うなずいてくれる。
「――え、ええ、いいですとも! ヴォルフがよくなるまでこちらにいさせてください。具合のいいときに話をしましょう。ささやきでも筆談でもやり取りできますから、何の問題もありません」
「よか……った……」
夏休み期間中、ずっとベッドに横になっていよう。
ダリヤには横になれるような長椅子と、ふかふかのクッションと、一番いい毛布と、香りのいい紅茶と、おいしいお菓子を屋敷の者達に願って――よくなったらドナにまた子犬を見せてもらって、彼にはおいしい酒を贈り、屋敷の者にもお礼を――
とろり、眠気が瞼を閉じさせる。
「おやすみなさい、ヴォルフ、良い夢を」
「……リヤ……」
こくりとうなずいて口を開いたが、最初の声がかすれて音にならなかった。
彼女が近づいてくれたので、その耳元で精一杯、優しくささやく。
「おやすみ、ダリヤ……君も良い夢を……」
そう願う自分の方がきっと、今夜、幸せな夢を見るだろう。