第九十一話 夜の散歩=不法侵入
姉御は暫く水の入ったカップを持て余すように手の中で回していたが「寝る」と言って二階に上がった。
二階は姉御たちの寝室と客用の部屋の二つがあり、昨日はそこで寝たが今日はレーネが寝ているので俺は一階のソファを借りる。
普通の家庭では客用の部屋がある事も珍しいし、座り心地のいいソファがあるのも珍しい。
さすが近衛所属。給金どれくらいだろ?
ごろんとソファに寝っころがって――
「ちがうちがう………」
かぶった毛布を脇に置いて起き上がり、外套を羽織る。
あくびをしながら足音を忍ばせ台所の奥の裏口に向かい、整然と食器が整えられた食器棚を横目に通り過ぎ、勝手口たるドアに手をかけた。
「ミア?」
じゃすとたいみんぐ。むろん悪い意味で。
振り返ると、踝までのキュロットパンツっぽいズボンに、合わせ襟を腰帯で止め厚手の肩掛けを握りしめている姿のレースが居た。
「どこにいくの?」
なんだこれは。まるで浮気がばれた亭主のようなこの感覚は。
レースの顔を見ていれば、置いて行かれるのではという不安がありありと見て取れるので怒っているとかそういうわけではないのだが。
「ちょっと散歩だよ。レースこそ寝間着は?」
「……なんとなく、落ち着かなくて」
で、自分の服に着替えたと……
「散歩、行く」
俺の外套を掴んで言うものだから、それを外すのも悪いような気になってしまう。
「でもまだ髪を染めてないから」
こんな夜中に髪色なんてわからないし、そもそも誰も好んで出歩かない。それに俺の外套を被せれば何も問題ない。
理由にもならない事を言うと、レースは髪を一房つかみ眉を寄せた。
「じゃあ見られないようにする」
息を吸いこみまたあの歌を歌いはじめるレース。
こりゃ……だめだな。今日は諦めるか。
俺は苦笑して膝を折りレースの視線に合わせた。
「ごめん。いじわる言ったな。
散歩は明日にして今日はもう寝よう。寝られないなら話でもしような」
「まって」
居間に移動しようと促すと、裾を引っ張られた。
「ミア、どこかに行こうとしてた。……邪魔……した?」
「そんな事はないよ」
「そう……なんだ。ごめんなさい」
俯いて項垂れるレースを前に、どうやって話を逸らすか考えていたら腕を掴まれ、引っ張られた。
「行こう」
「え?」
反応が遅れて外に出てしまってから慌ててレースの腕を掴み引き止める。
「まてまて、落ち着け」
「大事なんだよね? 夜なのに行くんだからどうしてもなんだよね?」
「いやそこまで切羽詰まってとかでも……」
……あるんだけど。なるはやで連絡取りたいんだけど。仕方ないよな……
「行こう」
「落ち着けって、今行かないといけないってわけじゃないから」
言うが、レースは首を横に振って否定する。
「ミア、ずっとあたしと居た。あたしの事、里の事、長様の事知らないのに、あたしとずっと居てくれた。怖い事も遠ざけてくれた。なのに、いきなり居なくなるの変」
ありゃ。子供かなぁと思ってたら結構考えてるんだね、この子も。
これは読み間違えた。
「行こう。あたし、役に立ちたい」
「わかったわかった。行くからちょっと待って、戸締りしないと」
腕を掴まれたままドアを閉め、懐から太い針金を取り出して鍵穴に差し込んで引っ掛かりを回しこむ。
カチャと音がして閉まった事を確認し、目を丸くしているレースの手を引いて夜道に出た。
早まったかなぁと思ったが、嬉しそうな顔をしているレースを見てまぁいっかと思うことにする。ミスった俺が悪い。
「鍵、どうやったの?」
月明かりしかない夜道に注意しながら歩いていると、くいくいと手を引かれ尋ねられる。
鍵の概念はあるのか……っていうと、本当に生活環境が違うだけで技術的なものはそう違わない場所?
「ちょっとひっかけて回したんだよ。構造がまだ簡単だから出来たんだけどね」
「そういえば羽の形が単純だった」
え……この子、もしかして鍵の構造理解してる?
カギ羽根とカギ軸を理解しちゃってる?
普通知らないよ? 鍵師ぐらいじゃないと中身なんて公表されてないよ?
しかも単純だったって、あの鍵はここでは一般的なものだから。俺から見れば単純だけど、ここではそれなりの鍵だから。もっと複雑なのもあるけどそれは本当にごく一部の所謂一握りの人間が使用するような………
「…………レースって、お嬢様?」
「? おじょうさまって?」
「いや、うん。何でもない」
緑の民の里というところがどういう生活環境にあるのか知らないうちから邪推していても仕方がない。
夜中に見回りに見つかれば職質かけられて面倒なので、時々道を変え、直進ではなくじぐざくと目的地まで近づく。
三十分ほどで目的の外壁までたどり着き、さてととレースに視線を落とす。
「レース。これからここに入るけど、これって完全に不法侵入だから見つからないように静かに行くよ」
「泥棒?」
「ちがうちがう。知り合いに会いに行くだけ。昼間は人が多くて接触が難しいから夜にしただけ」
「……明るくても暗くても同じだよ?」
「まぁそうだね。褒められたことじゃないけど、他の手段だと時間が掛かっちゃうから」
言葉を濁して言うと、レースは心得たというように頷きあの歌を小さく歌いはじめた。
「レース?」
「こうすれば絶対見つからない」
一旦歌うのを止めて俺に答えてくれる。
確かに、それなら見つからないだろう。見つからないだろうが……
俺は頭を振って、小さく歌うレースを抱えて壁を飛び越えた。
庭らしいところに降りて、そのままレースの手を引いて建物――宮殿に侵入する。
見張りの気配が至る所に点在しており、さすが国の中枢だと感心しつつ宮殿の正面から見て右側の宮に向かい、見張りが通り過ぎるのを待って二階に上がる。
すぐに左手奥から三つ目の部屋のドアに近づき開いている事を確認してそっと押し開け、滑り込む。
入ったそこは一見書庫のようなところだった。
天井まである書棚にはびっしりと隙間すらなく本が埋め尽くされ、それが壁全面どころか部屋を縦に切るようにいくつも棚があってそこにもびっちりと本が並べられている。
奥へと足を進めると、机がありそこに座る背が見えた。
明かりで手元を照らし、カリカリとペンで紙に文字を書く音だけが響いている。
「いつまで仕事やってんだよ」
「!」
後ろからぼそっと声を掛けると、ガタっと音を立ててこちらを振り返る――グラン。
「……キ――」
「名前は悪いが伏せてる。ミアだ」
キルミヤと呼ぼうとしたグランの口を塞ぎ、視線を右手に、ずっと繋いでるレースへと向ける。
グランは俺につられるように視線を動かし、レースに気付いて大きく目を開いた。
「やめなさい!」
かと思ったら、俺の手を振りほどいてレースの口を塞ぐグラン。
いきなりの事でレースは目を開いたまま硬直してしまった。
「あー……グラン、大丈夫だから。さすがに昔みたいに失神しないから」
「だが平気というわけではないのだろう。目元が引き攣っている」
誤魔化そうとする俺を睨みつけるグラン。
俺は言い当てられて視線が泳いでしまった。
「……彼は、歌が駄目なんだ。だから歌うのを止めてくれるかい?」
レースは目を瞬かせ、俺を見てからグランに視線を戻し頷いた。
「ありがとう」
微笑み手を外すグラン。
「こいつは心配性なだけだから、そんなに気にしなくていいよ。実際ここに来るまで役に立ったんだから」
下唇を噛んで俯くレースに言ったら、何故かグランに胸倉掴まれた。
「心配症とはよく言ってくれる。お前は限界まで口に出さないからどれだけこちらが気をもんだか分かっているのか? 目の前で何度も息を止められた身にもなってみろ」
「あ……あはは……でもそれって三歳くらいまでで」
「私が聞かせないようにしたんだ」
「……ははは」
至近距離で藍色の目に凄まれ何も言えなくなる。
「それに学院で何があった。今までどこに居た」
「え……っと、その辺の事も話すから……とりあえず首絞めるの止めてくれ」
「お前は私に隠している事があるだろ。お前を学院に行かせたと父上に言った瞬間、父上は倒れた」
「おっちゃんが!?」
声がでかくなった途端、ガッと口を鷲掴みにされた。
「声が大きい。横にはフェイしか控えさせていないが、警備の者に見つかれば只じゃすまないぞ」