第八十話 来てほしくない世界
「――リットの登録員だって勘付かれてるからいつかは俺にたどり着くだろうし」
………勘付かれて。そう。
「お互い言いたいことはあると思うけど、まずは奴さんにお帰り頂くのが先……」
血が噴き出た。
首を切ったからそれは当たり前。
「帰らせる? 帰らせませんよ」
キルミヤは呆然とした顔で、僕を見た。
止まらない鮮血に視線は行かず、僕を見ていた。
「命の保証が無いのは、あなただけではありません。
あなたに関わる全ての者が、その限りでは無くなるという事です。意味をはき違えないでください」
呆然としたままのキルミヤは、僕の言葉が耳に入っていないようだった。それに、少しだけ安堵した。
彼は人を殺せない。それはきっと相手が緑の民でも。仇でも。
「血が駄目なのでしょ。さっさと離れてください」
彼は、陽だまりの中で呑気にへらへら笑っているのが似合う。
周りが何を言おうと、どう見られようとおかまいなしに楽しそうに笑って、よく殴られてはそれでも笑って。
縋る者を見捨てず、敵意ある者でも見捨てず、どんな状況でもへらへらと笑ってその手を伸ばす。
だから人質を一人でも取られれば彼は従ってしまうだろう。そしてそのまま昏い世界へと引きずり込まれてしまう。
やはり、僕が傍に居てはいけない。
僕が近づけば、彼を余計な危険に晒してしまう。『他人』の距離を保たなければ、見守る事も出来ない。
声も無く立ち尽くすキルミヤの視線から顔を逸らし、出来れば僕に恐怖でも抱いてくれる事を願いながら、こちらに近づく反応を始末すべく動く。
キルミヤに目標を変えた相手に反応してしまったため、僕に対して有効な札だと向こうは確信しただろう。反応などしなければ良かったと思うけれど、気付いた瞬間に足が向きを変えてしまっていた。
それは僕の落ち度。だからここで片を付けなければならない。
先程の相手が持っていた通信用のコインはセントバルナの南、ジンバル経由で流出しているセントバルナの魔術具の一つ。フーリの暗部で細工され使用されている代物。暗部を動かせる人間は限られ、指揮をとっているとすればその頭。バイヤス・グナン。目的の為ならば相手が女子供であろうと関係なく、手段を厭わない男。
人数的に見ても彼が自ら出てきていると考えて間違いない。魔術師も居る。
この感覚からして最低二人。こちらの対魔術用要員だろうけれど――
「そんなもので落とされるなら、とっくの昔に落とされていますよ」
僕がどれだけの血をまき散らしてきたのか、本当の意味で知らないだろう。
名も知らない者達を、栄光を掲げた王達を、絶対の力を振りかざす魔術師達を、誇り高き騎士達を、数えきれない程の相手を、この手で葬ってきたという事を。
近づかなければ死なずに済んだものを……
相対距離を測りながら、口頭契約を口にする。
「漆黒に包まれし青緑よ 淡く淡く広まれ 深く深く染まれ
永久の魔に抱かれ貪れ 怠惰な戒めに溺れ
己を失い 我の前に跪け」
完成した魔術に、索敵で掴んでいる相手の一人が不自然に止まった。続けて、二人目も止まった。
残り二人が到着する前に場所へ急ぎ、自分の腕を刺している二人を見つけて短剣を突き刺す。
「なぜ……魔術――」
「ありえ――」
夢魔の檻から必死に逃れようとした二人は、最期まで信じられないという顔をして事切れた。
信じられないのは、そうだろう。
今この場は魔術を封じてある。いや、封じているというよりは発動出来ないように魔力の制御を乱されているといった方が正しい。上級魔術の中でも最高とされる術の一つで、使える者はセントバルナの中でも五名しか居ない魔力錯乱が行使されている。
影響範囲内で使用できる例外は固定化されている魔術具と、この乱れを発生させている魔術師。
そして、意識的に乱れを正す事が出来る者。
今、意識的にこの乱れを正せるのは、カルマか白の民ぐらいだろう。
どれだけ優れた魔術師であろうと、方法を知らなければ正す事など出来ない。それゆえに、魔術師にとっては絶対に避けなければならない相手と言われる。カルマや白の民といった例外中の例外を除けば。
こちらに来ているもう二人も勝手に夢魔の檻の範囲に入り、動きが止まった。
魔術師でも夢魔の檻の影響範囲は分かりにくい。感知に優れた者であれば漂う魔力を感じ取る事も出来るだろうけれど、魔術師でも無い者では叶わない。もともとフーリに魔術師の数は少なく、技術もセントバルナには到底及ばない。魔力錯乱を使える者を集めただけでも称賛に値するのだからこの反応も仕方がない。
同じように眠りから逃れようと痛みを作る二人を見つけ、短剣を突き刺した。