第六十八話 両者わりとガチ
「…………勝てない?」
呟いた次の瞬間、いちにのさんとリズムを踏んで接近し正面を突いた俺の拳は二度とも軽く平手でいなされていた。
問答無用で殴りかかった俺に全く動揺を見せない少年。
こいつやっぱ強いわと思いながら流れのままに放った右回し蹴りも、姿勢を低くして避けられ、出来た俺の隙に少年の腰捻りつき右ストレートが下から入る。軸に残した左腕で咄嗟に受けるが、即座に拳を引かれ衝撃が残る。
あ。ちょっと、少年? 手を出した俺がこんなん思うのもあれだけど、君、わりと本気?
衝撃殺そうとしてないっていうか、むしろ残そうとしてるでしょ。それ、内側にダメージくるアレでしょ。しかもそのちっこい身体でこの衝撃ってどんだけ身体の使い方がうまいのよ。
売り言葉に買い言葉、お前では勝てないと言われ、だったらやってやろーじゃねーかと実力勝負に飛び出した猿。それでもどこかで歯止めをかけようとしていたのか重心が乗り切っていなかった。
だが、その所作を見てスイッチが完全に入った。
少年の突きを体幹をずらしながら捌いて、息を読む。
早いテンポで繰り出される突きを二手三手と左右に逃し次に伸びてきた腕を掴む。が、手首を反され逆に掴まれて引かれる。その瞬間、少年の右足が地面を離れたのを視界に捉え、寸前で左足で膝蹴りをガード。しかし少年の攻勢が緩まる事はなく態勢が崩れたところに右上段後ろ蹴りが飛んできて腕で防いだものの蹴り倒された。
「場数が違います」
勝者の強さでもなく、憐れみでも無く、淡々とした声音が俺に降る。
うー……ん。少年が言う事は理解出来る。頭では少年の方が強いと理解している。手足の長さで有利なのに、それが一つも通ってないのを見せつけられれば、嫌でも分かる。
分かっているけど、それでも俺の身体は諦めようとしない。
これは、たぶんアレだ。自己防衛本能が作動しちゃってる状態だ。
少年の事を思ってではなく、ただ、俺が俺を保っていられなくなるのが怖いだけだ。
同じ事がもう一度でもあれば、
――お母さんが必ず守るから
お父さんの分も……守るから――
俺は壊れる。
推測でもなんでもなく、それは確定事項だ。自分がどれだけへたれなのかぐらい知っている。
ぐっと足に力を入れて地面を蹴り、大きく蹴りを放つ。
それを難なく躱されるが、下段中段掛け蹴りに上段蹴りを連続で放つ。防戦一方となった少年はそれでも冷静で、最後の足刀を軸をずらして取った。取られた瞬間、俺はもう片方の足で容赦なく少年のこめかみを狙った。少年は右腕を滑り込ませたが、体重を乗せた蹴りに身体は軽く吹っ飛び、ガトの死骸にぶつかった。
それに、隣に誰かがいるというのは無理だ。誰かがいると思うだけで、身体が震えて動きがままならなくなる。だから学院で襲われた時は本当に危なかった。
長時間戦えないという身体的な問題もあったが、青年が出てきてしまった事で保っていた精神が瓦解しそうだった。終わるまで症状を抑えられたらから良かったが、対峙している最中だったら間違いなく殺されていただろう。
少年は衝撃に息を詰まらせたが、すぐに立て直し俺の追撃を防ぐ。
だけど、そういえば少年と共闘した時はそこまでの拒否反応は出なかった。
少年が自分よりも強いとわかっていたからか。それとも状況的に少年にフェリアを助けてもらわなければならなかったから反応が抑制されたのか。
もしそうなら下種だな。
都合がいいにも程がある。
懐に飛び込みながら放たれた少年の掌底が、俺の顎にクリーンヒット。
ガコンと頭蓋骨揺らされて俺は仰け反り倒れた。
キルミヤは倒れたまま、動かなかった。
茫洋とした目はどこを見ているのかも分からず、危うさを感じて慌てて駆け寄ろうとしたとき、倒れたキルミヤに小さな影が重なった。
何かと目を凝らせば、小さな赤ん坊のようだった。ただし実体はなく、幻。
キルミヤが幻を見せているのかと思ったけれど、感情が欠けてしまったような顔でぼうっとしたまま。とても幻を見せている様子では無かった。
生まれたばかりに見える赤子は青褐色の髪に薄い紫の瞳。へにゃへにゃと笑ってちいさな手を伸ばしている。
それは思わず手を伸ばしてしまうほど無垢な笑顔だった。けれど幻に触れる事はできず、赤子が握ったのは赤子と同じ色の髪だった。そして赤子が握ったその先に、女性が現れた。
赤子は女性の腕に抱かれて嬉しそうにきゃらきゃらと笑い出した。
どことなく、キルミヤに似た小柄な女性も嬉しそうに歌を唄う。それはどこにでもある、子供の為の子守歌。
これは………キルミヤの、過去?
もしかして精霊が? ………不可能じゃないかもしれないけど……でも何を見せようと……
母親は赤子を大事に大事に抱え、赤子は母親に抱かれて幸せそうで、見つめ合っては陽だまりの中でお互いに笑っている。
戸惑いながらも見ていれば、暖かな母子の光景に胸が少し軋んだ。
それでも赤子も母親も幸せそうで、いつの間にか僕の頬も緩んでいた。
それが、一変した。
何がどうなったのか、背中を大きく切り裂かれた母親が赤子を守るように胸に隠していた。
そして赤子は、とても赤子がするものとは思えない血走った目でこちらを睨んでいた。
その視線に、すべての精霊に敵意を向けられているような有り得ない恐怖感に、僕は固まった。けれど、すぐさま解ける。母親が赤子の目にキスをし微笑んだだけで、赤子はへにゃりと笑った。
母親は微笑んだまま赤子に何か囁いている。
赤子は笑って、母親に小さな手を一生懸命伸ばしている。
母親が動かなくなっても、赤子は笑っていた。
誰も来ず、たった一人だけで、母親の血濡れた髪をつかみ締めて。
やがて二人に差し込む日が陰り、赤子から笑顔が消えていった。
泣くことはおろか、喜びも悲しみも怒りもそこには存在せず、人形のような抜け殻だけが残っていた。
……彼は………この時の事を覚えているのだろうか。
表情を失くした赤子が薄れ、そのままキルミヤの表情に重なった。
たぶん、覚えていたとしても、覚えていなかったとしても、血が駄目なのはここから来ているのだろう。そして人を寄せようとしない理由も、これが関係しているのだろう。
「僕は、そう簡単に死にませんよ。
あなたより、死線は多くくぐっています」
色のない目が動き視界に僕を捕らえる。
「それに僕にはやらなければいけないことがあります。
あなたのために死ぬことも、あなたのせいで死ぬこともありません」
薄い紫の目に色は灯らない。
どんなに言葉を紡いでも、彼には届かないのかもしれない。
でも、それならそれでいい。
いつか誰かが彼を救ってくれるだろう。キルミヤを見ていると、なんとなくそんな気がする。
「もし僕を遠ざけたいなら、少なくとも僕に勝ってから言ってください」
だから僕はその未来への道が閉ざされないようにするだけだ。