第四十四話 心構え
走り出した坊ちゃんを呼び止めるが、ガン無視してくれた。
しかも途中で外套脱ぎ捨て本気モードをアピールしてくるので余計に焦る。さらに意外と足が速い。
そっちはやばそうなんだってば! 何故に伝わらない!?
全力疾走していると、いきなり坊ちゃんの姿が掻き消えた。
なっ――うお!?
危うく一段下がった窪みに、飛び込み前転ぶちかましそうになり寸前の所で木に手をかけ踏みとどまった。
窪みの下を見ると、黒い地面にポツンと薔薇のようなものが咲いていた。その周りを透き通った青い玉が守るように取り囲んでいる。
坊ちゃんはそれに惹かれるように近づき、ゆっくりと手を伸ばして――
「触るなっ!!」
反射的に叫んでいた。
触れてはならないと訴えるように耳鳴りは酷くなり、走っただけではない動悸がしてふらつく。
とにかく坊ちゃんを離さないと。
そう思った俺の動きは、止まった。
わら……ってる?
坊ちゃんは、笑っていた。
とても楽しそうに、愉快そうに、嘲りを含めて俺を見て笑っていた。
そして、腕から流れ出る血がまとわりついた手を青い玉に叩きつけた。
その途端薔薇のような花から、それが纏う妖しい色香そのもののような揺らめく真紅の陽炎が立ち昇った。
笑いを深める坊ちゃんは、これ以上ないというぐらい愉悦に浸っていた。立ち上る陽炎にその身を包まれていきながら。
「パージェス!」
名前を呼ばれ、ハッとして振り向けば班長の兄ちゃんがそこまで来ていた。
前に後ろにという状況に既視感を覚えつつ、慌てて手を挙げる。
「先輩止まって! こっちに来ないでください!」
「何を言っている! お前こそ戻れ!」
ごもっとも。命令無視してるのはこちらでした。
「なんだあれは?」
お隣まで来て足を止めた兄ちゃんに言われ視線を戻せば――大きい薔薇が咲いていた。
………え?
黒い大地に咲く一輪の艶やかな薔薇。その背丈は人程あり、咲いている位置と坊ちゃんの姿が見当たらない事からして、たぶんその巨大な薔薇に坊ちゃんは取り込まれていると思われるのだが………あまりに有り得ない光景に、俺はぼーぜんとした。
「……パージェス」
呆然としていたのは兄ちゃんもだったようで、声に力が無かった。
「なんでしょうか班長」
「……あれは?」
「赤い花に見えます」
「………サジェスは?」
「あの中かと」
「……………そうか」
納得され、兄ちゃんは窪みに降りようとした。
……そうだね、坊ちゃん回収しないとね………いやいや!
俺は咄嗟に兄ちゃんの服を掴み引き止めた。
見た目というか、薔薇に包まれるという状況がふぁんしー過ぎて頭から飛びかけていたが、未だ悪寒はあり、それ以上に薔薇に対する生理的な拒否感がある。
俺の本能は行くな行かせるなと訴えている。
どちらも行かないというのは無しとして、じゃあどちらが行くかというとなると。
「パージェス?」
「班長はここに、私が連れてきます」
「いや、私が行く。あれが何か分からない以上行かせるわけにはいかない」
さすが生真面目班長殿。
説得は不可能と考え、実力行使でやらせてもらおう。
こっそり拳を握り――
「うわあああああああああああ!!!」
突然坊ちゃんの叫び声が響き渡った。
かと思うと弾けるように薔薇の花弁が舞い上がり、一枚の花弁が無数の破片となって飛び散った。
「白の!」
「分かっています!
澄み渡る青 深まる緑 交わりて我らを包む守りと成れ!」
切迫した声が響き、前を見れば俺達の前に高い背と小柄な背。
高い背は、砂糖やら決闘騒ぎやらで世話になった療養室のスレンダーさん。小柄な背はその白い頭ですぐにわかる。
「少年?」
「弟君、状況がわかるかい?」
なんでここにと問おうとするとスレンダーさんに逆に問われ、視線を滑らせ頬が引き攣った。
飛び散った花弁の細かな破片一つ一つはそれ自体が一つの花弁の形をしており、草木に触れたところから真紅の炎となって触れたもの全てを覆い尽くそうと腕を伸ばしていた。
飛び散った花弁は、無数。数えるのも馬鹿らしい数が空を漂い、それだけ見れば桜吹雪のような幻想を纏いながら、ひらひらと舞い降りようとしている。
「どういう事ですか」
この状況でも班長は冷静な声音で尋ねた。
「どうもこうもない。不測の事態という奴だ」
「不測……」
「ルウェンさん、二人を連れて逃げてください。守りを分割します」
守りと聞いて見れば、俺達を包むように水のような膜が張られ花弁を弾いていた。
そういえば少年が何か叫んで魔術を使っていた。
「貴様を置いて? そんな事が出来ると?」
「言い合っている暇はありません。学生を撤退させなければ間違いなく死人が出ますよ」
「どのみちここでやらなければ少なくない犠牲は出る」
「それはさせません。この聖域に留めます」
「そんな事が信じられるか! これをやったのも貴様じゃないのか!」
状況を見ろと言ったくせに喧嘩を始めるスレンダーさんに『おいおい』と思い、思ったことで多少の余裕が俺にも生まれた。
余裕が生まれると、自分の狼狽え具合が分かって顔を覆いたくなった。
悪寒があろうとなかろうと、とにかく早く坊ちゃんを連れ戻すべきだった。
あんな顔をして笑うものだから、どんだけ俺は追い詰めてしまったのだろうかと思考のベクトルを自分に向けてしまって、そこで動きを止めてしまった。止めなければ、こうはならなかったかもしれない。いや、ならなかっただろう。
肝心なとこで動けないなんて、今まで何をやってきたんだよ俺は。
このままでは同じだと思い、俺はループしそうになる感情の処理を後回しと割り切り、思考を目前に移した。
「原因は少年じゃない」
口を挟むと、ぎろっとスレンダーさんに睨まれた。
俺は無視して少年に尋ねる。
「少年。アレ、危険だよな?」
少年はこちらを振り向かず頷いた。
「取り込まれた人間は?」
「……これは『拒絶』。死ぬまで暴れまわるでしょう」
班長が息を呑む。
スレンダーさんは知っているのか、何も言わない。
「了解。じゃあ先生は班長と宿営地に戻って避難を。あの赤髪の人はもうやってそうな気もするけどね。現状を理解しておられそうな先生は向こうに必要でしょう。
ちなみに俺が残る理由は、俺が逃げたら追ってくると思うから」
なに言ってんの? という視線が二方向から来た。
反応を示さない少年は分かったのだろう。ちらつく炎の合間から花弁に包まれた坊ちゃんが薄い笑いを浮かべて俺を見ている事に。ここで俺が逃げれば、俺の後を追うだろうという事を。
「俺も丁度覚悟を決めたとこで、まぁ丁度いいかと。だから早く」
「あのね、弟君。これは訓練でも――」
「諭してる暇なんてないよ?」
俺は苦笑して、後ろを振り返った。
花弁が散ってから言い合い含めて少なくない時間は経っている。当たり前だが、前後左右、既に炎に包まれている状態だ。
おまけに風にのった、破片はさらなる範囲を火の海にしようとしている。
「eesmine vaga vesi kolm korda」
精霊に頼むと、プール一杯の水が空に広がり叩きつけるようにして降り注ぎ炎を押し流した。
俺は驚愕に目を開いている先生と班長の腕を掴み、炎が消えた退路へと放り出す。その俺の行動に合わせ少年は腕を振った。二人が離れたところで水の膜がくびれ、二組に分かたれた。
「その守りも長く持ちません。早く行ってください」
グッジョブ少年。
先生は教職者がやっちゃ駄目でしょというような兇悪な眼で少年の背を睨みつけ、戸惑う班長を脇に抱えて走って行った。
……す……すご! 成人男性並みの男を脇に抱えて走るとかゴリラか!?
口に出したら聞こえてそうなのでこっそり思うだけに留めて、正面に向き直った。
「さて、と。説明してくれる?」
「こちらも、先ほどの魔導についてお尋ねしても?」
俺と少年は視線を交わし、小さく笑った。
少年は泣きそうな顔で。俺は恐怖に引き攣り気味の顔で。