第二十二章 王都オスニエル
無数の星が輝く夜空の下、グリフォンたちは里の草原でそれぞれ体を伏せて静かに眠りに就いていた。イザベラは夫のルミウスの翼に包まれ、テオも浦辺に寄り添うように体を密着させて眠っていた。
ロディル率いる憲兵騎士団たちとの緊張感に満ちた睨み合いが発展したこともあり、いずれもすっかり夢の中をさまよっていた。
ただ一頭を除いて…。
瞼を開いたテオは、浦辺を起こさないようそっと立ち上がった。
足音を忍ばせながら一塊になって眠る群れから離れたテオは、夜目が利いた状態で山々が連なる遠方を見すえた。
(騎士たちが帰って行った方角は、確かあっちだったな)
と、テオは思いつつも確信を抱けずにいた。あのとき、恐ろしい目に遭って頭が混乱していたため、ハッキリとした記憶がおぼろげにしか残っていなかったからだ。
テオはしばらく悩んだが、その間に群れの誰かが目を覚ましてしまってはマズイので、直感を信じ空高く飛び上がった。
半ば冷え込む風が身に染みる夜中、テオはたった一頭で飛び続けた。
故郷であるグリフォンの里の上空を飛来しながら、テオは国境である山脈を目指して翼を羽ばたかせた。成熟した大人のグリフォンたちと比べるとスピードは劣るため、見ず知らずの街に到着するのにどれほどの時間を費やすか分からなかったが、それでも彼は夢中で飛び続けた。
国境の上空に差しかかったとき、孤独感がテオを襲った。父親のルミウスと旅に出かけたときを除くと、彼が単独で故郷を離れたのは今回が初めてだったからだ。また、夜目が利いているとは言え比較的視界が芳しくないという悪条件も、テオの心を一層心細くした。
しかし、胸の内に宿る疑問を解くまではどうしても戻るわけにはいかない、という意思を掲げる彼は引き返そうとは思わなかった。
テオは臆病風に吹かれた自分を奮い立たせるように首を激しく振ると、後ろを振り返ることなく一直線に飛行を継続させた。
グリンメル王国領域であるミデェール広原上空を飛翔しているときになって、まぶしい陽の光を放ちながら太陽が地平線の彼方から姿を現した。
顔に注ぐ陽光に目を細めながら、テオは地上を見下ろした。
広々とした平原に三つの街が点在していた。
テオは、フェルナールの森で騎士が言っていた“オスニエル”と呼ばれる街がこの中にあるかもしれないと思い、キョロキョロと街から街へと目を動かした。
テオの視線が、一つの街に絞られた。
その街には、巨大な十字架の形をした建造物が神々しい存在感を放ちながらそびえていた。
(あそこかもしれない)
ほかの二つの街とあきらかに一線を画しているその街が、騎士の言っていたオスニエルかもしれないとテオは思った。
確信を得るため、テオはその街に向かってゆっくり降下した。
高い塔の陰に隠れながら、テオは街の様子を窺った。
早朝にも関わらず、街の大通りには老若男女問わず多くの人が行き来しており、旅の途中で立ち寄ったらしい冒険者、魔法使い、行商人らしい身なりの人間たちも宿屋から姿を現し、街はまたたく間に盛況を呈し始めた。
街の人々の声を聞こうと、テオは耳を澄ませた。
「おぅ、おはよ! 今日も最高の天気だな」
「起きて早々だけど、オスニエルの街を観光しよう」
「退魔の教えが聞きたい? それなら、広場で時々牧師が聞かせてくれるぜ」
「おいで。今日も十字架の前でお祈りしましょうね」
「今日は退魔の教えが聞けるかしら?」
「奥さん、今なら安くしとくよ!」
「あれ? この店、いつの間にか酒場になってるぞ」
と、様々な人の声が聞こえてきた。
ここが王都オスニエルで間違いないと発覚しテオは喜んだが、同時に人々の口から聞こえる“タイマの教え”とはなんだろう…という疑問を抱いた。
テオは人影のない建物の陰を見付けるとそこに着地した。
誰も来ないことを確かめてからテオはフーッと深く息を吸い込み、全神経を集中させた。
突然、テオの体が光に包まれた。
輝きを放っていた光はパッと飛散すると、そこにいたのは一頭のグリフォンではなく、茶色の髪を肩まで伸ばしたあどけない顔立ちの少年だった。
少年は自らの両手と両足を見、それから顔に手を触れた。
「…やった、成功だ!」
人間への変身魔法に成功したテオは、思わず大きな声を出してしまい慌てて口をつぐんだ。
昔、ルミウスによって変身魔法の手ほどきを受けていたテオは、試行錯誤を繰り返した末になんとか習得することが出来たが、わずかな確率で失敗するケースもあったため、確実に成功するという自信までは抱けずにいた。
今回に限って失敗してしまったら…という一抹の不安をテオは抱いていたが、それが杞憂で終わったため思わず喜びの声が漏れてしまったのだ。
次にテオは身に付けている衣類のチェックに入った。
変身魔法は肉体的な変化のほか、対象物にとって必要不可欠な物も一緒に実体化させる効果ももたらすのだが、ほとんどの魔物がそれをうまく活用し切れていなかった。
魔物には体に衣類をまとうという概念が存在しないため、大抵の者がこれまで何度も一糸まとわぬ状態で変身を遂げてしまっていた。
隠すべき箇所を公の場にさらすことへの羞恥どころか、客観視する能力も備えていない彼らはそのままの格好で人混みに紛れ、これまで幾度も大きな騒ぎを発展させていた。
その事例を幾度も耳にしていたルミウスは、人化するにあたっての注意事項として衣の着衣を忘れないようテオに言い聞かせていた。
母親の影響が幸いとなり、テオはルミウスの約束をしっかりと果たしていた。
イメージ通り素朴で決して目立たない組み合わせだったため、少なくとも人間に変身した魔物と感付かれる心配はないだろう、とテオは自信を持った。
余裕になったテオは、軽快な足取りで建物の陰から街の中へと踏み出した。
テオは露骨にキョロキョロとはせず、あえて飄々とした立ち振る舞いをしてこの街の住民だという雰囲気を醸した。よそから少年がたった一人で来ていると思われてしまったときの説明が面倒臭くなると考えたからだ。
露天商のハツラツとした声と井戸端会議を嗜む主婦たちの笑い声のほか、仲間同士で武勇伝を語り合う男たちの声が四方八方から聞こえてくる通りを歩き続けたテオは、例の巨大な十字架がそびえる広場まで辿り着いた。
「すごい…」
と、テオは思わず驚嘆の声を漏らした。
地上から見上げる十字架の存在感は、上空から見下ろしたときとは比較にならないほど壮麗かつ厳かで。てっぺんを見上げるにあたりテオはそのままのけ反って倒れそうになってしまった。
神々しくも力強いオーラを放つ十字架の圧倒的な威厳に、テオは呆然と見惚れてしまった。
そのとき、二人組のカップルがテオの横に並んだ。
「見てごらん。これがオスニエルの象徴と言われている十字架だよ」
「随分大きいわねぇ」
「聞いたところによると、この十字架には魔物を寄せ付けない魔力が宿っているとかでオスニエルの人たちは崇めているんだってさ」
「それじゃあ、共存社会が実現した今もこの国の人たちが魔物を恐れているというのは本当だったのね」
「厳密には、オスニエルの国民だけだね。カルトレイクとイリーナの人たちは、共存社会を支持する諸侯に賛同しているらしいから」
「へ〜」
「グリンメル王国は建国当時から魔物を邪悪な存在と見なしているらしくて、新しい国王が王位を継承し続けてもその考えは変わっていないんだって。今のディアドロス国王は特にその思想が強いって話を聞いてる。だから、この街の牧師と協力して退魔の教えを広めることに並々ならぬ努力を注いでいるんだって」
「それ、本当?」
と、隣で聞き耳を立てていたテオが尋ねた。
カップルは驚いた顔で目をパチクリさせた。
「うん、本当だよ。…キミ、一人? お父さんとお母さんは?」
「迷子じゃないかしら」
「ねぇ。タイマの教えって、魔物を殺すことなの?」
心配顔を浮かべるカップルを尻目にテオは聞いた。
「いや、なにも殺すってわけじゃないんだよ。今は、魔物と人間が一緒に暮らすのが当たり前になっているだろう? だけど、この国の王さまはそれが許せないから、退魔の教えというものを広めて、魔物と人間が別々に暮らしていた昔の社会を、取り戻そうとしているんだよ」
と、男は子どものテオにも分かりやすいよう、言葉を区切りながらゆっくりと説明した。
「どうして王さまはそんなことをするの?」
「さあ…。ごめんね、ボクたちもここへは観光に来ただけだから、この国の王さまがなにを考えているのかまでは分からないんだ。だけど、もしかすると慎重になっているのかもしれないね。共存社会とは言っても、魔物がすべて信用出来る存在とは限らないから、いずれ人間を襲うかもしれないと心配しているのかもしれない」
と、目の前にいる少年が人間に変身したグリフォンだと知る由もなく男は言った。
「それよりキミ、どこから来たの? もしも迷子なら、お姉さんたちがパパとママを捜してあげるよ」
と、娘は相変わらずテオのことを気にかけていた。
テオはこの街の人間だと慌ててウソを吐くと、逃げるように広場から離れた。
カップルの口から発せられた言葉が矢のごとく頭に突き刺さり、テオは悶々とした。
彼らの話を受け止め切れなかったテオは、露天商を営む店主や通りすがりの国民たちに片っ端から声をかけ、魔物について聞いてみることにした。
彼らは、揃ってテオの心を抉る返答をした。
魔物とは人間に害をもたらす危険で凶暴な存在。
友好的な態度を装って油断させ、近付く者を襲う卑怯な性質を備えている。
人間の肉をなによりも好むおぞましいバケモノ。
人間を破滅へと追い込む悪魔の使い。
共存など言語道断、と彼らは異口同音に否定的な回答をした。
テオがたまらず異論を唱えると、ある者は彼を優しく諭し、ある者は一笑に付し、そしてある者は反宗教主義者かと啖呵を切って詰め寄った。
(この街の人は本当に魔物が嫌いなんだ…)
残酷な事実を突き付けられ落胆したテオは、トボトボと通りを歩いた。両親の話を頑なに信じなかった自分が間違っていたこともだが、なによりオスニエルの人間が魔物に対して想像以上の嫌悪感を示しているという事実に、彼は大きなショックを受けていた。
テオは深いため息を吐くと、街を出るため変身した場所まで戻ろうとした。
そのとき、あるニオイがテオの鼻孔を刺激した。
最初は気にも留めなかったが、以前嗅いだ記憶のあるニオイだと気付きしきりに鼻を動かした。
不鮮明だったニオイの正体に気付いた瞬間、テオはハッとした。
(ウラベと同じだ)
それは、浦辺から漂っていた異世界人特有の独特なニオイとまったく同じだった。




