第45回~昭和43年12月6日「はなれぼっち」(前)
一
高校の正門すぐにある掲示板に人だかりが出来ているのをみとめると、僕は校舎へと歩く速度を緩め、足の向きを人だかりへと変えた。行き交う生徒が話す内容、それから昨晩に当人から電話で告げられた事実で掲示の内容は分かっていても、自分の目で見ないと納得の出来ない話だってあるのだ。
掲げられた紙片へは進めそうもなかった。下級生、女子生徒のグループ、とにかくごった返しているのだ。が、その中の一人がこちらに気づいた瞬間、一筋の道が作られる。皆、僕が名前を張り出された人物と近しい人間であることを知っているのだ。礼も言わずに木製の板に近づくと、貼り付けられた紙にはやはり、毛筆で簡潔な文が記されていた。
”右の者を本日より停学二週間に処す 三年一組 三番 石堂一哉”
驚きはなかった。遅かれ早かれこうなることは分かっていたから。冬が間近に迫る頃、自ら進んで上ヶ原の私立大学の全共闘の集会に出入りしていた彼は、一学部が丸ごと集まるような大きな集会ともなれば上背と腕っ節の強さを買われた用心棒と化していた。百八十五センチの身長と八十キロの目方という体躯を誇る人間は大学生にもそうそういない。石堂は、全共闘にとって集会に乱入しようとする体育会学生の威圧や妨害を押し返すのに有用すぎる人材だった。
「波多野、アイツえらいことになったなあ」
貼り紙を見つめる僕の肩をたたき、同級の男子生徒が話しかけてくる。大方、野次馬根性だろう。彼とよく話していたこちらの反応をうかがいたいだけということは、戸惑いの目つきを持たない上気した表情で分かる。
「さあね。彼は彼やからなあ。否定する権利は僕にはない」
僕はクラスメイトを一瞥すると、貼り紙を後にしようとする。
「なんや波多野……存外お前、冷たいなあ。友達の心配、全然しとらんみたいな口ぶりやないか」
彼はしつこく僕の感想を問うてくる。無理もない。末端とはいえ、学生運動に関わって処分された生徒が自分の高校から出た興奮で頭がいっぱいなのだ。校舎に吊るされた時計で始業時間までの余裕を確認すると、僕はややうんざりした態で返事をすることにした。
「していないわけやないでぇ。ただ、アイツもやることやったわけやしな。処分がまあ、軽かったからええやないの。終業式には学業復帰や」
「ふうん」
背後から、こちらが会話に大してのってこないことへの不服そうな声がしたが、もう歩みはとめなかった。とめる必要もなかった。玉砂利の響きの中、石堂も不運だったなとしか思うことはなかった。停学の直接の理由が、運動に関わっていたことでないことを僕は知っているのだ。
二
上ヶ原では今週の月曜日に全学執行委員会によって、委員長の学内選挙が行われた。改革要求を送りつけ、「学内改革」の為の大衆団交を大学にかけあうための前段階といったところなのだろうか。高校をフケた石堂は集計会場となった体育館の警備を任され、そこで集計の妨害を行おうとする体育会の大学生たちと悶着をおこした。
「例の処分が決まったでぇ。喫煙と無断欠席で停学二週間や。活動については問えないから周りから落とし込んできよった」
彼が電話を寄越してきたのは昨晩のことだった。不思議と悲愴感は余り見受けられない声色だと感じた。
「柔道部か何かの角刈りアタマがな、俺の目の前で女子大生突き飛ばしてん。女の子膝うって泣いとってナ。それで俺、頭にカーッて血が上ってそのアホの面を思いっきし張ったんや」
受話器の向こうでレコーダーのように改めて事の顛末を語る幼馴染の声は明るかった。
「まあ、女の子小突くヤツにロクなのはおらんやろな」
夜の八時だった。大学の過去問の英文法と睨む時間を奪われた僕は、極力不平を隠しながらで相槌をうつ。
「せやろ。ほいで、他の男子学生がその子連れ出した後が俺の真骨頂やがな。並み居る大学運動部の猛者ども相手に俺ナ、こう、パンチにフックの嵐を浴びせてやってなあ」
「ほお」
「気がついたら三人なぎ倒していたわ。俺に負けるような調子であそこの運動部大丈夫かいな?」
拳自慢を繰り広げた石堂の笑い声が廊下に響いた。僕は受話器を耳元から遠ざけると、彼が笑い終わるのを待った。
「……まあええわ。で……イシ、お前の行為は警察か大学当局経由で伝わったんかいな?」
「いや、それがな……」
彼の声が少し低くなる。
「その場に警察はいなかったんや。私服はおったかもしらんがね。ただな……」
息を吸い込む音がしばらく続いた。そして、石堂は軽い溜息とともに処分の真相を話しはじめた。
「教師の話では、誰かが高校にタレコミよったらしいんや。『お宅の生徒が学校休んでまでウチの大学で政治活動やっとりますよ。それもタバコふかしながら』ってな」
「運動部が電話したのかねえ」
警察が絡んでいないということを知った僕は、いささかではあるがホッとした。そこまで激しい渦に入っていってもらったら、流石にどう取り繕って会話をしてやったらいいのか見当もつかない。
「分からん」
憮然とした声が響いた。
「そう考えるべきかとも思うたよ。でもな、あいつら上下関係や面子を気にする連中やろ。年下のガキに負けたなんて恥をわざわざ陰ながらでも明かしたりするかね?」
「さあな。まあ正面から顔まで出して処分を求めるならそら、恥や。でも、電話でコッソリ言う分にはええと思うたんとちゃうか?」
「そんなもんかねえ」
石堂の声に納得した様子はなかった。まだ、なぜ自分の行為が知れ渡ったかという点について腑に落ちないのだろう。が、僕は受話器とは逆の手に持った英語の構文集に意識をもっていく。もう、彼につきあう時間はないのだ。
「そんなもんよ……。まあ、もう今更高校の授業なんて大して重要でもなし、受験への自習期間になったとでも思うて家と予備校で気張ればえやないの」
形式的な慰めを告げると、後はこれまた類型的な多少の挨拶のやり取りをもって僕は受話器を置いた。自分の時間を取り戻さなければならなかった。
それでも電話の余韻は身体に染み渡る。廊下から自室への階段を登り始めた頃、ふつふつとおかしさが湧いてきたのだ。アイツは大した馬鹿じゃないか、自分を陥れた人間すら見えていない。
「ク……ク……クヒャ、クヒャヒャヒャヒャ!」
僕は笑いながら自室の灯りを点けた。盲目さとは哀れなくらいにおかしいのものなのだから仕方がない。
大体、間違っても体育会の連中はそんなことをしないだろう。彼に電話で伝えたとおり、三人がかりで高校生一人に追い払われたなんて告げ口するのは恥の上塗りだ。目撃者の口から伝播するだけでもいい迷惑なのに、処分を求めるなんて「そういう事実があった」ことを自分達で既成事実にしてしまうことにしかならない。それに、バリ封の学園内の小競り合いなど日常茶飯事にすぎないだろうし。
では彼らでなかったら誰が密告したか? そんな問いへの答えは決まっていた。石堂に秘かな悪意を持ち、その転落を心待ちにしながらその場に居合わせた人間だ。そして、そんな男を僕は一人知っている。
「でも、イシはアレを信頼しきっているからなあ」
石堂が用心棒とは聞こえがいいが、要は下男働きに嬉々として出向くようになってどのくらい経つだろうか。ある種のエネルギーを解放させたいがその資格を未だ持ち合わせていない人間を、運動の本質には絡んでこない下働きとして使うことによって周縁にいるという満足感を味わわせる。
「福村さんは大した策士じゃないか」
告発者であろう人物の名前を呟きながら、僕はいつか漢文で習った故事成語を思い出した。「狡兎死して走狗烹らる」、今の石堂と福村さんの関係はどこかこの言葉に似ている。違うところは、あの大学生はハナから兎を捕まえる気などなく、狗を煮殺す未来だけを夢見ているというところか。
良心が痛まないといえばウソだろう。冷笑を好む福村さんの石堂への嫉妬は僕の比ではないのだ。僕は石堂に嫉妬しているし、彼も僕を見下してくる。だがそれは大貫恵子を射とめるのはどちらかという範疇においてであって、おケイに関しないところでいがみ合うことはそこまではないのだ。おそらくだが僕がそうであるように、彼も長いつき合いを二人で協力して破壊しあう事をためらっているのだろう。だからこの数ヶ月、僕らは平穏無事に最終盤の高校生活を送っていられるのだ。
が、福村さんは僕とは違う。髪を伸ばし、サイケ調のシャツを着こみ、ドラムを叩き、コロナを乗り回しても彼は満たされていないらしい。理由は分からない。それでも、八月の言葉が真実なら、彼は学生闘争に関わる人間を軽蔑し、その敗北を大きなうねりの内部から祈っている。彼が石堂に目をかけるのは、間もなく大学に進学するであろう正義漢の闘争への憧れ、参加、敗北という全行程を観察したいからにすぎない。
そこまで分かっているのに、だ。
「イシを目覚めさせるのは僕の義務ではない……」
自分に言い聞かせるように僕は一言呟くと、構文集を開けた。いくつかの例文を確認すると慶應の過去問への適用を試みなければいけない。このレベルの学校ともなれば、理数を気にしなくてもいい分、英語の読解も僕にとっては摩訶不思議な難問となってくる。しかし、本当に摩訶不思議なのはこの夏以降、石堂に福村さんの本性を告げることなど簡単なことなのに、こちらにその気が全く起きないことなのだ。僕も願っているのだろうか。恋を離れてまで、アイツが堕ちていくところを見たいのだろうか。流石に堕ちた時くらいは彼に手を差し伸べてはやれそうではあるが。
「あっ……」
思わず小さい叫び声が出る。ただ、それは嬉しい驚きからではなく、唖然とした感情からだった。僕の嫉妬はもう、恋などにとどまってはいないことに気づいたのだ。僕は福村さんと表裏一体の存在であって、おケイにとどまらない全ての部分において石堂の転落を願っているのではないだろうか。僕が望んでいる未来とは、石堂が精根尽き果てる姿なのだ。少女をモノにするという希望すら、競争相手が消え失せたことによる副次的なものなのかもしれない。
「摩訶不思議……摩訶不思議……」
呪文のように五文字の言葉を僕は唱えたが、後ろめたさは別に消えてはくれなかった。英文を読むことだって、もう出来ようがない。
「摩訶不思議……摩訶不思議……やなあ」
早稲田も慶應もあったものではない。後ろめたさが罪悪感に変貌するまでに、この感情をどうにかすることだけが僕の今夜の課題だった。
それでも、石堂に福村さんの本性を告げようという決心は浮かびはしなかった。そうだ。あいつは自惚れにまかせ、僕を小馬鹿にした男だ。救いを出さなくとも、少しくらいあがかせてもいいだろう。
三
「波多野……おい、波多野!」
終礼後、ぶらぶらと廊下を渡って下足箱で靴を上履きに履き替えようとすると担任が僕を呼びとめた。
「ああ……先生」
無意識のうちに軽い会釈をした。声の主はまだ三十にもなっていないクラス担任の国語教師だった。一年坊主のモップ掛けを軽くかわしながらに駆け寄ってきた彼は、いきなり僕の肩に手を置いた。
「ちょっとナ。お前の成績のことでこの前の模試の結果も踏まえての話があるんや」
「成績……ですか?」
「ああ」
国語教師は深々とアゴを下げてうなずくと、廊下の突き当たりの職員室を指差した。どうやら立ち話で済ませる気は彼にはないらしい。
ストーブ上に置かれた薬缶の湯気と湿気、一日の授業の取りまとめにかかりはじめる教師たちが一斉に吸い出すタバコの煙で混然とした空気が作られる大部屋の片隅の机で、新米教師は周りと同じようにタバコを取り出しながら語り出した。
「お前の模試の数字では……早稲田は厳しい。慶應もだ。英語がどうもいかん。この二校に受かる確率はまあ、よくて三割程度というところだ」
「三割……ですか。野球なら一流の打率ですなあ」
「波多野、冗談言うとる場合やないぞ」
得意気にライターの銘柄をこちらに見せつけながら煙を作った彼は、苦笑しながらこちらを見据えた。くつろいだ雰囲気を作りたいのかもしれないが、その割には傍らの椅子をすすめてはくれない。
「東京圏の私大の入試まで後二ヶ月ってところだ。直前の二ヶ月は現状維持こそできても、気負いもあってか劇的に伸びるのは難しい。そこでだ……」
国語教師はタバコを置くと僕を見上げた。
「お前、関西の私大にせえへんか? いや、そら知名度は違うかもしらんが偏差値は大して変わらん」
返す言葉は、見あわせた。もう一言彼が発言してからでも遅くはないと思った。進学実績を水増ししたい説得なのかもしれない。
若い教師はこちらの予想をはみ出たりはしなかった。彼は押し黙ったままの僕の様子を見ると、机に置いてあった冊子をこちらの目の前にひろげながら更にその理由を語った。
「お前、将来は演劇学んで映画会社に入りたい言うとったな。これ見てみぃ」
言われるがままに冊子を与えられ、そのページへと目を移すと、新たに封切られる洋画の宣伝を兼ねた配給会社社員のインタビューが載っていた。
「そこで喋っとるやつ、俺の高校の同級生でな。関西から日本一の配給会社に行ったのや」
「関西の……私大ですか?」
「せや。同やんから入りよった」
教師は僕から冊子を受け取ると、むき出しの紙面で微笑む映画会社社員の顔を指で弾いた。
「波多野、結局はどんな世界にも実力で入るしかない。校名だけ気にしても何もならん」
「しかし……学閥はどうでしょうか? やはり東京に行かんことには……」
志望校の変更かいな、と心で嘆息するしかなかった。意地になった僕は、教師の薦めに抗おうとした。行く学校など、僕が選ばねばならない代物だ。
「波多野。学閥や教授を介しての推薦状など面接に行き着くまでのものでしかない。面接官は出身大学など気にせんぞ。筆記試験乗り越えた時点である程度の優秀さは担保されとるさかいな……後はココとココや」
教師は二本目のタバコを咥えた手で、自らの頭と胸を指した。
「映画かてひと頃とは違って成長産業やあらへん。採用人数も減っとるやろ。入るために色々考えるのは大いに結構やが、目的の前に手段ばかり考えとってもしゃあないぞ」
「……考えときますわ」
「それに……大学は就職のためだけではないぞ。まずは勉強するための機関や。そこ忘れたらアカンぞ」
浅黒い顔が優し気に僕を見つめると「帰ってええ」と告げた。黙って一礼して煙たくも温かい空間から外に出てみると、途端に冬の夕暮れ間近い寒さに迎え入れられる。
陽が甲山へと傾こうとする中、短い家路をたどるために学園通りを西へと向かいながら、教師とはいい身分だな、と思う。彼が得意気に諭す様に自分の才覚のみで成り上がれるなら、別に東京に出なくてもいいだろう。でも、現実は違う。彼は指摘しないが、実際には強力な推薦状とコネがあってはじめて就職試験が受けられるのだ。斜陽の映画産業なら特に。現状を知らぬままに理想論と根性論を足して二で割ったような説教は嫌いだった。
「何が『勉強するための機関』や……アホくさい……」
私立大学の正門が見えてくる。学生はいても学業は中断されたままの広大な空間から目を逸らすと左に曲がり、住宅道路を歩き続ける。あの手のご高説はここでヘルメットを被っている連中にでもしてくれたらいい。あと、石堂にも、だ。彼らが騒げば騒ぐほど、こちらの大学受験は予測が不可能なものになることだけが確実な話だった。東大も早稲田も明治も、来年に入学試験が挙行されるかは分からない。連中がお題目を並べてカルチェラタンじゃなんじゃとはしゃげばはしゃぐほど、こちらの進学の機会が奪われるかもしれない。ふざけた話だ。
「六項目の要求に応じよ!」
自宅の門を開けようとした時、割れた音が振動をもたらした。アジテーターがマイクを手にしたのだろう。夕暮れの住宅地にシュプレヒコールが届けられ、僕は音の方向に苛立たしげに視線を持っていく。
石堂はあの中にまた、いるのだろうか。




