第44回~昭和45年6月8日「ミスター・マンデイ」(後)
一
初台の駅から十五分程北に行った、まだ新しいアパートの二階の四畳半が吾妻多英の下宿だった。
すすめられるがままに座布団に腰を落ち着けたはいいが、ここは四方を見渡してもかつて何度となく訪れた大貫恵子の部屋とは趣が異なった空間だった。小ぶりな本棚兼用の食器棚に、これまた小さなポータブルレコードとトランジスタ。置いているものが少ないせいか、部屋の主の性別が殆ど分からないのだ。わずかに机の上に鎮座しているファンデーションだけがこの部屋で寝起きしている人間が女性であることを伺わせた。
「ご苦労様、そこの座布団に座ってタバコでも吸っててよ。今、コーヒー淹れるわ」
家主の言葉に従って僕は座布団に腰をすえるとタバコを咥えた。それが新宿以来の二人に交わされたまともな会話だった。意を決して荷物運びを引き受けても、ここまでの道中のお喋りまではあの道化のように器用にはこなせなかったのだ。
手際よくインスタントコーヒーの準備をする彼女の傍らで、僕は畳の上に投げ出されたマンガ本を手に取った。日本の作家のものでないことは吹き出しの脇に英字が記載されていることで分かる。どこかで見たことのある可愛らしい絵柄ではあったが、題名までは知らない代物だ。
「それ、面白いわよ」
コーヒーカップを机に置きながら、吾妻多英はこちらの動作に注目した。
「アメリカのマンガ。英文毎日に載ってるわ」
「ふうん」
ページをめくりながら、ああ、妙に覚えていると思った。大学図書館の英文毎日で見たことがあったのかもしれない。
「その丸頭の男の子と飼い犬が主人公みたいなものね」
「へぇ。そうだったの」
「去年のアポロ10号の司令船と着陸船の名前、その男の子と犬から付けられたって何かで読んだわ」
彼女はしばらく僕に寄り添ってマンガの登場人物の短評を続けていたが、やがてコーヒーカップをこちらの方へと差し出した。クリープも砂糖壺も用意はされてはなかった。
「……で、波多野クン。わざわざマンガを読みにノコノコ荷物を担いできたわけじゃないでしょ?」
気楽な時間は唐突に奪われた。僕の手元からマンガ本が奪い取られたのだ。
「確かに……そうだったね」
「そうよ。あの中田はともかく、あなた何故、ホームに来てくれたの?」
髪をほんの少しだけ掻く。こういう時、どういう事を言えばいいのだろうか。吾妻多英と二人きりで車中にあっても、荷物を背負いながら彼女の後を歩いても、「今の考え」の伝え方など見つかるものではなかった。思索をでっちあげるには初台は余りに近すぎる。タバコも吸い口まで火がおしてきていた。何か、粋で洒落た科白の一つでも言わなければならない。恋とは、そういうもののはずだ。
が、何かがそうさせなかった。そうだ、少女を出迎えた際の中田の一言だ。
”恋の痩せ我慢、つまらん意地はるな波多野”
脳裏を長髪野郎が駆け足で迫ってくる。僕は煙で彼の幻影を追い払おうとするが、どうにも無駄だった。いくらその科白から逃げようとしても中田の髭面が浮かんでは消える。そしてタバコの火種はつきた。しかし返事はかたまらない。
「痩せ我慢、か」
僕はそう呟くと、白い灰皿に吸殻を押しつけた。両手でコーヒーカップを口につける吾妻多英が、僕の顔を不思議そうに眺めた。彼女は返事を強いて求めようとはしない。多分、こちらの性格を判った上で長考を許しているのだろう。僕もコーヒーに口をつける。砂糖はなくとも、今はその甘やかしだけあれば苦い代物でも飲めそうだ。
熱いコーヒーを舌に這わせるうちについに言葉が見つかった。ただ、言うのは簡単だが、言えなかった。それを口にした瞬間、僕の脳裏をもの凄い後悔が襲うだろう。今、言えることをなぜ、去年まで出来なかったのかという寂しさに包まれるのだろう。それに、ついに指一本触れることのなかった相手の手紙に心を寄せている面がある以上、吾妻多英への言葉は嘘混じりになってしまうのだ。
同時に二人の女の子に思いがいく最中に片方に何かを告げるなんて、大した難問だ。
「そろそろ言えそうだったりしてねえ」
髪をさすり、アゴをなでては脂汗につつまれた僕を吾妻多英はチラリと見た。もう、甘えさせてはくれないらしい。だから彼女は捨て置いたマンガ本を拾い上げて紙面をめくりはじめた。こちらの向かいで斜めに身体をよじった姿の向こうから、丸顔の男の子と飼い犬がじゃれあっているページが目に飛び込む。沈黙は限界に来ていた。少なくとも、マンガの登場人物から女の子の関心を取り戻さねばならぬ。
「吾妻さん!」
焦った感情は、大声にしかならなかった。
「何よ、急にそんな声出して」
吾妻多英はマンガを手放すと、座卓の向こう側に座り直した。
「『理由』、見つかったの?」
「ああ」
僕はひざを崩した。真面目にやるつもりだったのに、ポーズだけがどんどんとくだけていく。おかしな話だ。でも、この不思議なくつろぎの中で伝えることは伝えなければいけない。
「多分だが……上手く言えないけど何となく君に会いたかった。中田みたいにバイトを休んでまでね」
タバコを右手に挟もうとしていた相手の動きが止まった。でも、顔の動きはとまらないようだ。さっきまで失望が見え隠れしていた目元が、言葉をどう解釈していいのだろうかといった風に泳ぎはじめる。
「波多野君のアルバイトって確か……」
「月・水・金の三日さね」
僕はやや冷めたコーヒーをすすった。
「じゃあ、今日は……」
「ああ、勤めてからはじめてフケちまった」
カップの底の澱までを僕は胃の中へと流し込んでしまった。これでこの場に来た訳の半分は伝えたことになる。が、問題はここからだ。とりあえずは軽口をたたくことにしようか。真面目な話題をする前には、多分、そのくらいがいい。
「吾妻さんが中田の場合みたいに勤め先を知らなくて助かったよ」
僕は笑った。が、相手は思ったようには渾身の笑顔に反応してくれない。その代わりに彼女はただ、後ろを振り向くと勉強机の引き出しから何かを取り出した。そしてこちらに向き直った時、その右手が挟んでいるものはタバコではなく一枚の紙片だった。
「あら、知ってるわよ私。波多野クンのアルバイト日も、酒屋さんの番号も」
彼女は少しうつむくと、静かに微笑んだ。その姿に僕はうろたえるしかなかった。不意を衝かれたのだ。いかに「残り半分」をそつなく伝えるかの算段に腐心していたのに、たった一枚紙切れをチラつかせられただけで、全て狂ってしまう。この部屋の会話の主導権は彼女に奪われてしまったのだ。そして、家主はこちらがうろたえを口で表現する猶予すら与えてはくれなかった。
「一誠と波多野クンは違うもの……アイツは友達。でもあなたは……」
そこで彼女は話すのを打ち切ると、残ったコーヒーを飲み干した。その合間を使って僕は目尻を拭う。汗が垂れ下がってきていた。僕は伝えるべき頃合いをさっきのマンガ本のように彼女にとられてしまった以上、どうしようもない。
吾妻多英のカップがソーサーに落ち着く小さな音が響く。そしてそれが合図だった。
「なんとなく好きなのよ。……本当にね。あなたが『なんとなく』で上野駅まで来てくれたように」
腹の奥底で苦笑するしかない状況だった。やっぱり僕が言わなければいけなかったことは、逆に相手に言われてしまったのだ。こういう時、場数を踏んでいる連中はどうするのだろう?
「……そうか……」
「『そうか』って何よ。あなたの話がなかなか要領を得ないから、私から言わざるを得なくなったじゃない」
吾妻多英はこちらとの距離を少しずつつめてくる。でも、それを制止することは僕には出来ない。ある種、「そうなればいい」と考えていた状況なのに、予想以上に展開が早いせいで相手の行為をためらいなく受けとめられないのだ。
「いや、その…………」
「じれったいなあ」
吾妻多英の詰問はそこで打ちきられた。もう、彼女の口は言葉以外の道具となって長い黒髪ととも一体となると、しどろもどろな僕の返事をいつかのように物理的に不可能にしてしまった。僕らは狭い部屋の片隅に一つの塊となってもつれ、転ぶ。が、不思議と今湧かねばならないような感情はどこからも吹き出てはくれない。
この先に何をすべきかをを僕は知っていて、実行したことがあるのに、だ。でも今は、小柄で痩せっぽちでも、女の子の重みって案外にあるものだったなあとおぼろげに思い出すのが精一杯てなもんだ。
「で、波多野君はどうなのよ」
少女の唇がようやくにこちらを解放する。進退ここに極まれりだな、と思った僕は、細い腕にがんじがらめにされてしまった肉体に溜まった疲労と緊張を癒す暇もなく答えた。
「……君が好きだよ」
天井に吊るされた電球が見えないくらい、こちらに覆い被さってくる吾妻多英に向かって僕は答えた。
「本当に?」
「ああ」
確認をとろうとするかのように重ねて訊ねる彼女に、再度の同意を送る。ただ、残り半分の伝えなければいけないことのうち、まだ言っていないことがあるのだ。多分だけど、肉体をさらけ出すよりも、精神をむき出しにする方がナンボか難しい。吾妻多英にのしかかられる状況になっている今、前者は簡単だが後者は簡単ではない。原始的な欲求にしたがえば最後、チャンスは無くなってしまう。
口にした瞬間、この場の雰囲気は二度と帰らなくなるかもしれない。が、喋らなければいけなかった。かつて痩せ我慢から喋らなかった事を繰り返したために追い込まれてしまった過去と同じ轍を踏みたくないのだ。痛みには慣れているはずなら、今から話すことを受け入れてもらえられなかったら、水でもぶっかけられた後に泣きながら家路を辿ればいいだけだ。
重たくも僕は口を開いた。抱きつかれてからもう、何日も時が経ったような気がする。
「でも吾妻さん。こういうのはもう少し待ってくれ」
「待つ? どういうことよ?」
身体にかかる圧が少し和らいだ。その隙を利用して、僕は彼女の身体の下から上半身だけをねじるように這い出させて起き上がった。
「『手紙』がまだ来とらんやないか。昔の感情を自分が考える正しい形で終わらせないと、僕は嘘をついたままに君と寝てしまう……それは無理やわ」
圧は完全に消え失せた。彼女がその小さな身体を人の上に這わせることを放棄したのだから。起き上った吾妻多英はまだ、寄り添うようにしてこちらの傍を離れない。が、タバコを咥えた顔は、薄笑いの中でこちらを見つめていた。
二
「この状況になってなお、私の前でそんなことを呟くんだ」
ハッカタバコ特有の冷たい香りがこちらの鼻先をかすめた。薫りがくすぐったい僕は、混乱した鼻腔をかかえながらに伝えなければいけない最後の一言を告げる。
「ごめん。自分に嘘がつけんし、君にも嘘がつけない」
僕は宙をあおいだ。伝えることを伝えて終わるのならば悔いはない。でも確実に吾妻多英は失望と失笑の念を持っただろう。かつて正直になれなかったからといって、本当にこの場で馬鹿正直に振る舞う必要はあったのだろうか? しかし、言いきってしまった。全ての判断はもう、吾妻多英の手中にある。
彼女は半分ほど吸ったタバコを灰皿に捨てると、今度はこちらの両肩を掴んだ。判決の時間だ。
「やっぱり波多野クンは面倒くさいし、生真面目さをはき違えた暗い男だわ」
ため息が漏れ聞こえた。声の主はぼさぼさにほつれた髪の隙間から黒い瞳でこちらを見据える。
「申し訳ない」
「謝る必要ないわよ。それに、あれだけ先週には大見得きって手紙を待つとこっちに怒鳴ったアンタが、嬉々として美人とのこんな状況に酔ったままだったら」
吾妻多英は僕の両肩を離さないままに、髪を整えたいのか頭を一振りした。
「惚れた弱みでこの場は寝ても、いずれは軽蔑したかもしれないわ」
背筋に寒いものがさした。もしもこの子に軽蔑されたら、その後の僕はどう過ごしたらいいか見当もつかなかっただろう。薄皮一枚のところに、そんな未来があったという可能性に恐怖を感じた。もっとも、冷たさの心配は長くは続かなかった。怯えを打ち消すだけの言葉が耳に飛び込んできたのだ。
「安心してよ。波多野クンが納得するまで待ったげるわ。私、アンタみたいな暗い男をなんとかしてみたいしね」
「やっぱり僕、暗いかねえ?」
「当たり前よ!」
断言した吾妻多英は、高笑いをはじめた。笑い声はとめどなく続き、それにつられて僕の背筋は再び温かさを取り戻した。が、彼女につられて笑うことは出来なかった。それくらいに僕は緊張で疲れ果てていた。だから、笑い声の代わりに夕飯をとっていない腹の虫が鳴ってしまう。
そして吾妻多英はしょうもない肉体の悲鳴を逃さないようないい耳をしていた。
「やだ、波多野クン。お腹空いてるの?」
「みっともないけど、そうなんよ」
食欲ほど誤魔化せないものはない。僕は少し畳に目を落とすと頭を掻いた。
「今、何時くらいなの?」
彼女に促されて僕が腕時計を確認すると、針は八時半を示していた。気の遠くなるようなこの部屋での時間は、実は二時間程度の話でしかなかったらしい。
「八時半だよ」
「もうそんな時間かあ。なら波多野クン、荻窪の中田の店でも行かない?」
戸棚にラーメンが一袋しかないことを確認した吾妻多英は、新宿駅で追い払った男の名前を出す。
「荻窪? 遠くないか?」
「この部屋から、少し歩いたら地下鉄の中野坂上だから乗り換えなしで行けるわ。それに、追い返してから言うのもなんだけど、アイツ、私達を待ってる気がするのよね。『なんとなく』」
「『なんとなく』か。悪くないね」
僕は鞄を手に取った。確かに週のはじめから焼き鳥で浪費するのは辛いが、恐ろしく腹が減った今となれば肉をしたたかに口にしたかった。そしてそれ以上に、緊張しどおしの二時間を過ごした今こそ、中田の呑気な声が贅沢かも知れないが二人の合間に加わってほしい。
「ね、波多野クン。賭けをしない?」
靴紐を結んでいる僕の背中にむけて吾妻多英が声をかける。
「賭け?」
僕は紐を結ぶ手を緩めると後ろを振りむいた。水色のカーディガンを羽織った少女は、自らの唐突な言葉に反応があったのが嬉しいのか目を細める。
「うん。一誠のヤツ、月曜で暇だから絶対に適当にアルバイトしてるはずなのよ」
「ま、郊外の店で週のアタマから飲む客もそんなにおらんやろなあ」
「でしょ? だからアイツ、マンガ読みながら串を焼いてるか、酒をくすねながら串を焼いてるか、もしくはアトムズ戦のラジオ聴きながら串を焼いてるかだと思うの…………波多野クンはどれだと思う?」
アイツも野球観るのか、と思った。しかも、よりによってずば抜けて弱いアトムズのファンとは。よくよく変な男だ。
「さあねえ…………なら、マンガ読みながら肉を焼いてるのに賭けるよ」
「決まりね。じゃ、私は酒をくすねながら串を焼いてるのにするわ。賭けは一級酒を二合でいいわね」
アパートの廊下で家主の準備を待っている僕に、部屋の中から弾んだ声と打ち鳴らした指音が届く。
「吾妻さん、随分と高いなあ」
僕は、ドアの向こうの吾妻多英にほんの少しだけ不平を言った。一級酒以上の銘柄なんて、盆と正月に飲むくらいなのだ。
「でも……これは賭けよ? 高いものの方がスリルがあるでしょ?」
遅ればせながら出てきた吾妻多英は扉に鍵をかけながらあっけらかんと答えると、こちらの横にピタリと並んだ。
「あとさ、いい加減『ター』でいいわよ。いつまでも『吾妻さん』ではねぇ」
「ふむ……」
もっともなことかもしれないな、と僕は頷いた。
「分かったよ、『ター』」
「ほらあ、言えるじゃないの」
満足気な声が隣から聞こえる。でも、相手の納得とは裏腹に、無意識のうちにあだ名を呼ぶにはまだ時間がかかるだろうな、と僕は思った。伝えることは伝えたが、訊ねることはまだ残っていたことに気づいたのだ。そしてそれは、中田を交えた空間で問うべきなのかなど分かったものではなかった。




