第43回~昭和45年6月8日「ミスター・マンデイ」(中)
一
車止めから程近い三号車の前でしばし休んでいた吾妻多英は、僕と中田の姿に気づくと当然のように不思議そうな表情を浮かべた。
「アンタ達、一体全体何をしてんのよこんなとこで」
「そりゃ、ター。アンタから汽車の時間を聞いてたから迎えに来たまでのことじゃないのよ」
女の子が意図を値踏みするような表情を崩そうとしない中で、中田は嬉々とした声でこともなげに相手の疑問を退ける。吾妻多英はしばらく髭面の原人もどきを見つめていたが、やがてこちらに視線を移した途端、ほんの少しだけ肩をすくめた。
「ま、いいわ」
そう言うと彼女は黄色いブラウスの胸ポケットから『クール』を取り出した。ご贔屓のハッカタバコだ。すかさずに中田は、少女の背丈まで身を屈めるとマッチを擦って彼女の口元へと火を運ぶ。僕はその一部始終に苦笑するしかなかった。これじゃ二人の間柄は、まるで王女と従者みたいな塩梅にしか見えないのだ。
「ね、ター。アタシにもちょうだいな」
が、どうやら彼らは主従関係ではないらしい。王女が最初の一吸いを終えると同時に、従者は臆面もなく右手を突き出すと、すかさずタバコをねだりはじめたのだ。この前といい、貰いタバコは中田のクセというところか。
「しかし、波多野クンもよく私を見つけられる自信があったものね」
無言のうちに中田のあつかましい右手首を拳で殴った吾妻多英は、ようやくにこちらに言葉を投げかける。
「さあ……そんな自信なんかねえよ。ただ、なんとなくってだけ」
悲鳴を上げながら右手を押さえて七番線を行ったり来たりする中田の姿を少しだけ見やると、僕はそれだけを答えた。もっと他に言うべきことはあるだろうに、どうも駄目だ。とりあえず、「顔が見たかった」などとは言えない。同じ東北のよしみか、汽車の時間を吾妻多英から聞き出したであろう貰いタバコの男とは違い、僕がここにいる必然などあったものではない。
彼女は煙の中で落胆めいた表情をつくったが、やがてこちらの言葉にただよう素っ気なさをかわすようにして口を開いた。
「そうよね…………。私が十輌以上連なってる列車のどこから降りるかまでは分からないわよね」
「ああ、グリーン車と食堂車ではないことしか分からんよ。後は何百人の中から宝くじにあたる要領で君を探すさね」
言ってから後悔する。なんてくだらない冗談! いつだって僕はこの程度なのだ。ヘラヘラとした会話で本音を隠すうちに物事は遠ざかってしまう。そしてそれっきりだ。そう分かっているくせに、相手の腹に割って入るような言動が出来ない。手紙を待っているからだろうか。それとも、中田が敷き詰めようとしているレールの上を通るのが何となく嫌なのか。
手首の痛みがとれたらしい男が、洗面所で手を洗ったかのように手首をブルブルと振りながらに戻ってきた。
「アタシ、ぶたれる度に強くなるのよ。愛って、ぶたれることで強くなるのかしら?」
切なそうな顔をした彼は、突如として甘えた声を出す。
ホッとした気持ちになった。この夕暮れ時の駅構内で、僕は吾妻多英とまともに話す自信がないのだ。ナンセンスな会話を繰り出してくれるかもしれない男がいなければ、この女の子の傍にいる度胸などあったものではない。
惚れた人間の近くにいて、さり気無く振る舞うとはどうしてこう難しいのだろう。
「気持ち悪い! ね、中田。冗談は顔だけにしといてよ」
多分、二人が出会ってから何回も繰り返されたであろう求愛もどきを吾妻多英は一蹴した。「ハハ」と、僕は愛想笑いをこの東北コンビにおくる。
「ま、中田。出迎えありがと。ご褒美あげるわ」
吾妻多英は少し微笑むと『クール』を一本、中田の手に握らせた。
「ワオッ!」
「んでもってご褒美のあとは義務ね。そら、キビキビ働くのよ! 赤帽さん!」
次の瞬間、中田は真新しいタバコを咥えたまま、少女の旅装の一切を抱えさせられていた。彼が汽車の時間を教えられていた真相とは、どうやらそのあたりらしい。急造の赤帽を満足そうに眺めた吾妻多英は、やがて中央改札に向かうのではなく山手線に乗り換えるつもりなのか跨線橋を昇りはじめた。神田で中央線に乗り換えるつもりなのだろうか。学校帰りの鞄一つの僕、そして赤帽と化した中田もその後に続く。
「ガチョーン!」
通学鞄だけでなはない大荷物を抱えながらの中田は、跨線橋を昇りきった途端にクレージーキャッツの古いジョークを叫んだ。どうやら、結構重いらしい。
「アンタ、古いわねえ」
帰宅客がだんだんと増えていく通路の中ほどで立ち止まった吾妻多英は後ろを振り向くと、呆れたような声色で彼にギャグの評価を伝えた。
「ムヒョーッ!」
大した評判をとれなかった中田は、それでも懲りずにジョークを連発する。とはいうものの、「ガチョーン」も「ムヒョー」も、手の動きがあってナンボの芸のはずが、重装備の彼はふうふうと汗をかきながらに口のみで再現するしかないのだ。すると次の審査も推して知るべし、である。
「だから古いってんのよ! きょうびクレージーなんかやってんじゃないのよ」
冷たい判定がまた、繰り返される。しかし、ひょうひょうとしている割には笑いには頑固らしい中田は、意地をはっているのかまたしても谷啓の物真似を口のみで繰り出す。
「ビローン!」
コメディアンという職業に要求される才能は頭脳だけでなく容姿もだな、と感じるしかなかった。小柄で太った谷啓がやればおかしくなるかもしれないが、両手両脇に旅の荷物を抱えさせられた大学生がその真似をしたらどうもいけない。万に一つでも同じギャグを中田にテレビ局でやらせたら、新聞のテレビ欄が視聴者からの怒りの投書でいっぱいになるだろう。
「好きにしなさい!」
吾妻多英は天を仰ぐと投げやりな風に叫んだ。
二
山手線のホームまで降りると、中田は一仕事終わらせたといった様子で女の子から与えられたタバコを吸いだした。煙が夕陽で真赤に染まった上野の森の方向へと流れていく。
吾妻多英は煙の行方を電車を待ちながらしばらく追っていたが、赤く染まった空が気に食わないのか中田に聞こえないような小声で僕に話しかけた。
「秋田の流行は五年遅れなのかしら」
「さあねえ。ま、クレージーはいささか古いかもねえ」
下宿にないこともあって上京以来あまりテレビを観ない僕は当たり障りなく答えた。吾妻多英は上目づかいにそれを聞いていたが、どことなく、また失望したとでも言いたげに顔をそむけると、荷物持ちの青年へと身体をむけなおした。
「ね、ね、ター。荷物重いのよ。波多野にも持たせてもいい?」
顔を向けられた中田はまるで、「主人」の歓心を得ようとばかりに荷物を左右に振り回しながら負担の軽減を訴え始める。
「それは駄目」
吾妻多英は当然と言わんばかりに即答した。
「なんでさ」
「だって…………アンタはよく懐く奇人。でも、波多野君は大事なクラスメート。扱いにも差が出るわ。ハイ、タバコ分キリキリ働く!」
相変わらずにそのまま持つよう指示された中田は目を白黒させたが、すぐにまた笑顔になりながら「わーった!」と明るく叫んだ。が、吾妻多英はその不平を言わない従順な姿を確認すると興味を失ったようにため息を一つ漏らし、電車の到着を知らせるスピーカーへと顔を向ける。中田は相変わらずに笑うばかりだ。
その一部始終を見届ける僕は、なんともいえない気分にさせられた。夕方の駅で繰り広げられる吾妻多英と中田の不思議な関係、そこに割って入ることなど無理なのではないか? という不安が湧き上がってきたのだ。ふったふられたを延々と繰り返しながら、その事実を肴にしてかけあい漫才のように軽口をかわしあい、暴言や暴力すら冗談にしあう二人の関係は冷静に考えると異様なものじゃないか。一方の僕は彼らの陰気なクラスメートでしかない。
今日の吾妻多英とは、中身のない言葉を一言二言やりとりしただけだ。数日会わないだけで何となく物足りなかったのに、その程度にしかならない。彼女に惚れる未来とは、利発な少女とナンセンスな話芸の持ち主の中間点に居場所を見つけなければ近づいては来ないだろうに、そこらが今の限界だ。
「ター、後でもう一本『クール』ちょうだい」
「厚かましいわよ、バカ!」
また、軽いかけあいが始まった。でも、僕はそれを黙って聞いているしかない。髭面の男は今日何回目かの暴言を喰らったにもかかわらず、ニコニコとした表情を崩さないまま僕と吾妻多英を交互に見ると「うんうん」と頷いた。
この男が不安の原因なのだろうか。中田は気味が悪い程に明るく、そして優しい。言葉遣いも見てくれよりは誠実である。だが、だからこそ彼の全てが恐ろしい。ロック喫茶で話をして以降、その優しさにほだされている自分がいることは分かってなお、善意の固まりのようなその佇まいを額面通りに受け取ることが出来ないのだ。「二人の道化になりたい」と前に彼は言っていた。しかしその言葉を裏返しにすると、彼はひょっとしたら安易に触れてはいけないほどの屈折した感情を隠しながら愛嬌をふりまいているのではないだろうか? 私生活も明るい道化がいるとは思わない。どこかで、要は僕が心の底からためらいなく吾妻多英に近づこうとした途端、この男は豹変するのではないだろうか。
僕はそっと、能天気な微笑みのままバッグと紙袋に囲まれた男に目を運んだ。何でもいい。中田に会話を試みる必要があった。彼が僕を裏切らないかを、その表情と言葉から盗み取れないかと思ったのだ。が、無駄なことだった。そう決めた瞬間に、乗客を八分まで乗せた東京駅方面へ向かう緑色の電車が入線してきたのだ。僕らは先に進まねばならない。
三
神田で電車を中央線に乗り換えると、更に御茶ノ水で快速線へと電車を替えて西へと向かう。オレンジ色の電車は後楽園球場の鼻先をかすめて飯田橋、そしてお堀端の夕映えが美しい市ヶ谷を通過していく。しかし、風景に比べれば車中の会話は乏しいものだった。相変わらずに中田と吾妻多英はとりとめのない事を喋ってはいる。が、二人ともある一点については微塵も触れようとはしない。つまり少女が先週の金曜日に突然、東北へと旅立った真相には彼らは慎重に足を踏み入れない。行き先が仙台だったというだけが、電車が四谷に着いた時、吾妻多英が思い出したように「笹かまぼこ」の入った袋を土産として僕と中田に渡した瞬間に分かっただけだ。
金曜日の中田は、「お嬢様も、先に進むための儀式にちょいと出かけられているのであります」と言った。その言葉を思い出した僕は、再び動き出した電車の中で手持ちの情報で少女の「儀式」に思いを馳せようとはする。でも、それは吾妻多英にとってもこちらにとってもあまり愉快な話にはなりそうもなかった。信濃町、千駄ヶ谷、代々木と電車が走る中、ただ苛立ちだけが募っていく。
何でためらい、何で疑うのだろう?
新宿でドアが開いた。初台の下宿へと帰る吾妻多英だけがここで降り、僕と中田はそのまま阿佐ヶ谷と荻窪まで乗り続けたらよかった。にもかかわらず、ラッシュ時のホームに降り立ったのは三人全員だった。
「荷物、アンタの部屋まで持っていかなきゃねえ」
ボストンバッグや紙袋を抱えた中田は京王線へと通じる階段を降りると、明るい声で自らの労役の再確認をした。
「ここいらまででいいわよ。アンタに下宿の場所を知られるなんてちょっとした怪談だわ」
「そんな殺生な」
「大体が中田。アンタ今日は焼き鳥屋のアルバイトでしょうが」
吾妻多英は西口改札を出たあたりで立ち止まると、首から諸々をたすき掛けにして突っ立っている中田の顔から足元までをまじまじと見つめた。つられて僕も彼に目をやる。どうやらこの男は飯の種を放り出してまで上野駅に来たらしい。
「ああ、それなら心配ないわ。アタシ、今日は風邪っぴきと伝えているから平気よ」
中田は笑った。彼にとっては十一時まで働いての千五百円よりも、少女の荷物を運ぶ方が嬉しいらしい。
「ふうん」
だが、道化の忠誠なんて女王に届きはしない。吾妻多英は京王線の改札口に向かわず、ゆっくりと西口広場の片隅に設けられている青電話のコーナーへと移動したのだ。僕と中田は怪訝な表情で後を追うしかなかった。
「あたし、アンタの勤め先の番号知ってるのよ」
電話機の前に立つと、彼女はアゴをしゃくって機械を指し示した。
「と、おっしゃいますと?」
薄ら笑いを浮かべる吾妻多英に、中田はおそるおそる問いかける。
「鈍いわねえ。『お宅の髭と髪がモジャモジャのアルバイト、今日休んでいるのは仮病ですよ』って伝えようかと思ってさ」
「キャーッ!」
ギャグ漫画のやられ役が発するような情けない悲鳴が響きわたった。が、吾妻多英の「脅し」はとまるところをしらない。
「あとね、アンタが仕入れた鶏肉の一部を店の御主人に向かって『ハハァ、これは傷んでますな』なんてしたり顔で語ってはくすねて、裏でコッソリ卵まで使った焼き鳥丼作って食べてる話もオマケにつけとくわよ」
中田の悲鳴を心地よい音楽のように目を細めて聴いた吾妻多英は、受話器を持ち上げる。
「キャーッ!」
「だからアンタの仕事はここで終わり。後は波多野君が持ってくれるでしょ。お邪魔虫はとっとと勤労青年に戻りなさい」
「キャーッ!」
三度目の悲鳴を上げた中田は、すぐに身体の向きを百八十度変えると挨拶もなしに国電の方向へ駆け出していき、その姿はすぐに群集の中に溶け込んで行った。
「波多野クン、持ってくれる?」
吾妻多英は中田が逃げて行った方向をしばらく見つめていたが、やがて地下広場に置かれた自らの旅装を一瞥すると、こちらに荷物を抱えるように指示をだした。言われたとおりに僕は紙袋やらボストンバッグやらを肩にかつぐ。従者とはなったが、特に抗う理由もないのだ。
が、その従順さは彼女にとっては中田のそれとは違い、違和感があるものらしい。こちらに聞かせるのが目的なのかそうでないのかが判別できないような呟きが始まる。
「来てもロクに話をしないし、新宿では何故か降りる……」
「え?」
僕は聞き返した。もう広場の時計は夕方の六時半を表示している。小田急、京王、国電、地下鉄の四線を行き来するサラリーマンの家路への大移動の中で聞き入るにはいささか声量の足りない呟きだった。
ジーンズの少女はこちらの言葉に素早く反応した。僕の脇をするりと通り抜けると、前に立ち塞がったのだ。
「何か、用があるんじゃないの? ……いや、『ない』とは言わせないわ」
返事は出来なかった。ただただ、自分のためらいばかりの意思を表現することなど出来たものではない、と心で呟くしかなかった。
「中田も追い返したし、二人きりならいくら波多野クンといえど多少は話せるんじゃないの?」
吾妻多英の言葉は、断定するような口調だった。僕は、やはり何も言えなかった。どこかで待っていたのかもしれない。
小柄な身体が切符を買うために券売機へと向かって行く。もう逃げられなかった。中田の代打として抱え込まされた荷物が、鎖のように絡みつくのだ。いくら臆病なほうだといっても、荷物をうっちゃって逃げることは流石に出来ない。
「吾妻さん」
僕の呼びかけに彼女は券売機への足を止め、こちらを振り返った。
「何?」
「僕の分も頼むわ。金は後で払う。君の荷で手が塞がっていてね」
吾妻多英は笑った。上野駅からの数少ない僕との会話の中ではじめて見せた笑顔だった。




