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後編

 いったいどこをどう走ったのか、自分でも分からないままアヤメ姫は、大きな木の下にたどり着いていました。

 あたりは真っ暗ですが、美しい半月と星空が出ているのがせめてもの救いです。

 彼女はうつろな表情で夜空を見上げながら、天には見放されていないのかもしれないとぼんやりと思いました。

 これで雨でも降りだしたりすれば、彼女の心は壊れてしまったかもしれません。

 このような時間帯に若い娘が一人でいると、どのような不埒者がやってくるのか想像もつきませんが、今のアヤメ姫にはどうでもよいことでした。

 いっそのこと、ここではないどこかにさらわれてしまいたい。

 自暴自棄じみた考えさえ浮かんできます。

 彼女が家に戻らずとも、もはや誰も心配する人はいないのでしょう。

 そう思うだけで冷たい粒が目からこぼれ落ちます。

 いったいどうしてこうなってしまったのか。

 何がいけなかったというのでしょう。

 アヤメ姫は何か悪いことをしたのでしょうか。

 悔しくて悲しくて、心臓がぎゅっと見えない手で握りつぶされそうです。

 誰もいない、虫がちらほらいるだけの世界で、彼女は一人泣いておりました。

 星と月は優しく美しい光を彼女に届けてくれますが、大してなぐさめにはなりません。

 ひとしきり泣いたアヤメ姫は疲れたのか、眠気が襲ってきます。

 本来の彼女であればこのような場所で眠ろうとは思わなかったでしょう。

 だけれど今の彼女はわが身がどうなってもかまわないと自暴自棄になっていたので、無謀にもそのまま草の上でぐっすりと寝てしまいました。

 やがて彼女は何者かに体を揺さぶられて、目を覚まします。


「もし、こんな時間にこんなところでどうなさったのですか?」


 アヤメ姫の瞳に映ったのは一人の美しい若者でした。

 服は質素な麻の直衣でしたが、本人の気品は損なわれていません。

 思わず見とれそうになったアヤメ姫はとっさに我に返り、そっと顔をそむけます。

 

「失礼は重々承知ですが」


 若者が困った声を出したのも無理はありません。

 身分のある女性の顔をまじまじと見つめるのは、家族か夫でなければ許されないことなのです。

 ただ、このような時間にこのような場所で、若い乙女が一人でいたのですから、彼をとがめるわけにもいきません。


「じつは……」


 アヤメ姫はしばらく迷ったのち、己の身にふりかかったことを打ち明けます。

 言わずに現状を説明するのはとても難しいですし、誰かに聞いてもらいたいという気持ちもありました。

 見ず知らずの誰かのほうが気楽だというのももちろんあります。


「それはひどいですね」


 黙って最後まで話を聞いた若者は憤りを見せます。


「今さら詮無きことですわ」


 自分に同情し怒ってもらえたことに感謝しながらも、アヤメ姫は力なく微笑みました。


「あなたはこれからどうするつもりですか」


「さあ? 天の神さまのみぞ知るとしか申し上げられません」

 

 諦観して笑う彼女を見た若者が言います。


「ならば私と来ませんか」


「それは哀れみですか? 同情ですか?」


 若者の心配に感謝しつつも素直になれないアヤメ姫は、冷淡に返します。


「全てですよ。いけませんか?」


 若者はまっすぐに彼女の瞳を見つめました。

 飾り気のない言葉と率直な態度に、彼女はドキリとします。

 裏切られ捨てられて傷ついた彼女は、それでもすぐには応じられません。


「わたくしのことは放っておいてください。どこでどうなろうと、誰も困りませんわ。もちろんわたくしも」


 アヤメ姫が投げやりな言葉を吐くと、若者は彼女が背にしている樹をドンと叩きます。


「どこでどうなろうとあなたも困らないなら、私と来てもいいはずでしょう?」


 低い真剣な声、強い意志が宿ったまなざしと合わさって、彼女の心臓が大きく跳ねました。


「さあ、私といらっしゃい。ここにいると病になりますよ」


「は、はい」


 先ほどとは打って変わって優しくささやかれ、アヤメ姫はついつい首を縦に振ってしまいます。

 ところでこの若者はどこの誰で、どうしてこんな夜更けにいるのでしょう。

 ようやく彼女がそのことに思い当たった時、若者は名乗ります。


「私はキサラギと申します。衛士の一人で、夜の見回りをしていた者です。だから怪しい者ではないですよ」


 彼は笑って彼女の手を取り、建物まで連れて行ってくれました。

 その建物は大きな門のところに煌々とかがり火を炊いています。

 うす暗いためよく分からないですが、さほど広くはなさそうです。

 

(こんなところにこのような衛士の詰所なんてあったかしら?)


 アヤメ姫は不思議に思いましたが、今の彼女は疲れと悲しみで正常な判断力が低下してしまっています。

 それにキツネかタヌキに化かされたのだとしても、かまわないという気持ちもありました。


「勤務が終われば迎えに来ますから、それまでお待ちくださいね」


 優しく話しかけてくるキサラギに逆らう気力が失せていたアヤメ姫は、素直にうなずきます。

 彼は手が叩くと一人の老婆が姿を見せました。


「一人の女性を保護した。湯あみと着替えの用意を。……あなたの世話はこの者に任せます」


「よろしく」


 アヤメ姫は事情を明かさず命令だけしたキサラギに少し好感を抱きます。

 言われても仕方ないと割り切っていたのですが、いたずらに広められないというのはやはり嬉しいものでした。

 老婆の方も特に何も聞かずに彼女の世話をしてくれます。

 温かいお湯につかり、柔らかい布団に包まるとたちまちアヤメ姫は夢の世界に旅立ちました。

 翌日、小鳥のさえずりとともにアヤメ姫は目を覚まします。

 寝台の右側の窓からは太陽の光が差し込み、室内に明かりをもたらしていました。

 昨晩は余裕がなかったので今気づいたのですが、部屋は広くて立派な樫の木の家具が置かれています。

 アシハラ家にも負けないほど見事なものでした。

 とても一介の衛士が暮らせるような家とは思えません。

 アヤメ姫が不思議に思っていると、紫檀色の扉が叩かれます。

 彼女が返事をすれば昨日の老婆が入ってきました。


「失礼いたします。お召替えをいたします」


「そんな……平気です」


 アヤメ姫が遠慮したのは彼女の心理からは無理もないことですが、老母は不思議そうな顔をします。


「お嬢様はいいところのお方でしょう? 人に着替えさせてもらうのは当然ではないのですか?」


 たしかに老婆の言うことはもっともでした。

 アヤメ姫がいくら親から愛されなくなったと言っても、服を着たりお風呂に入ったりする時は、いつも誰かにやってもらっていたのです。

 娘に世話をする人間がいないのはアシハラ家の恥になる、という理由でしたが。

 

「手伝わせていただけないと、わたしがキサラギ様に叱られてしまいます」


 困った顔をする老婆のしわだらけの顔を見ていると、アヤメ姫は何だか申し訳ない気持ちになってきます。

 自分のわがままが原因で罪のない人が叱られるのは、婚約破棄をされ覚えのない罪を被せられた己の境遇を思い出してしまいます。


「分かりました、お願いしますね」


 彼女がそっと微笑むと、老婆はとても安心したようでした。

 肌小袖も全て脱がされてしまい、新しいものを着せられます。


「さすがお美しいですわ」


 老婆がほっと息を吐きだして感心しますが、アヤメ姫にしてみれば妹に対する劣等感を刺激する一言でした。

 それでも老婆の言葉はいつわりのないものだと、ぐっとこらえます。

 

「朝餉はこちらに運びましょうか?」


 老婆の問いかけには小さくうなずきました。

 この部屋であればおいそれと他の人と会わないでしょう。

 まだ見知らぬ誰かに会うのにはためらいがあります。

 山菜が入りの湯漬けを食べ終えると、部屋の外からキサラギの声が聞こえてきました。


「アヤメ殿、入ってもよろしいですか?」


 女性の部屋に男性が入るには、女性の許可が必要なのは当然です。

 もっとも今のアヤメ姫は客に過ぎず、この家の持ち主が会いたいと言えば会うしかありません。

 それでもきちんと礼に則った彼に、彼女は少しだけ好感を持ちました。


「どうぞ、キサラギ様」


 彼女の許可を得たキサラギは、いそいそと入ってきます。

 昨日とは違う狩衣をまとって立派な装飾の剣を腰に差す彼は、やはり立派な若者でした。

 ですが、だからこそアヤメ姫は自分とはつり合いがとれないと言い聞かせます。


「改めて見ましたが、とてもお美しいですな」


 キサラギはたいそう褒めてくれましたが、彼女はそれを必死に聞き流しました。

 幼い頃からのつき合いだったコマクサですら、ユリ姫の美しさを前に心変わりしてしまったのです。

 きっとこの若者もただ助けてくれただけで、妹のような美姫の方がお好きに違いないと思い込んでいました。

 

「これからどうなさるおつもりですか? 何か心当たりでも?」


 キサラギはそのようなことをたずねてきます。

 心当たりがあるならば、昨晩のようなことになっていないとアヤメ姫は言いかけましたが、口を閉ざしました。

 一晩経って気持ちが落ち着けば、違う意見が出てくるかもしれない、と彼が思ったのは責められません。


「ありません。わたくしがすがれるお方はこの世のどこにも」


 ユリ姫やコマクサに泣きつけば、あるいは憐れみをもって迎えられるかもしれませんが、試してみようとさえ思いませんでした。

 いくら何でも自分が惨めすぎるからです。

 

「では、我が家にいらっしゃいませんか。あなたお一人を保護するくらいはできますよ」


 キサラギがそう言いだすのは何となく予想できていました。

 そのため、水が高きから低きに流れるように、断り文句がアヤメ姫の口から出てきます。


「せっかくですけれど、とてもお受けできません」


「なぜ?」


 キサラギの問いは非常に短く、それだけに真情がこもっているようでした。


「なぜと言われても……」


 アヤメ姫は困ってしまいます。

 彼女のように汚名を着せられ婚約破棄されて、どこにも居場所がないような若い女を保護しても、一体どのような得があるというのでしょうか。

 もちろん、男性いかんによっては妻が欲しいという下心があるのかもしれない、と勘繰ったかもしれません。

 しかし、目の前のキサラギはコマクサにも引けを取らぬ男ぶり、おまけにこの家の立派な造りから察するに、とても女性に不自由しているようには見えませんでした。

 むしろ評判の美姫たちをいくらでも自由に選べる立場ではないのか、とすら思えます。

 そのような男性が自分に好意を抱いているなど、今のアヤメ姫には決して信じられないことでした。


「妙な誤解が生まれるかもしれませんよ。そうなってはキサラギ様がお困りでしょう」


 想いを寄せる女性、あるいは伴侶に浮気しているのではないかと思われるかもしれない、という警告をアヤメ姫なりに表現しましす。

 するとキサラギはもう一度首をかしげました。


「どうしてですか?」


 本当に不思議そうな若者を見て、アヤメ姫は少し腹が立ってきます。

 

「あなたほどのお方でしたら、美しい姫君がほうっておかないでしょう?」


 今度は直接的な表現をしましたが、キサラギは黙って首を横に振りました。


「いいえ。つれなくされているところです」


 そしてじっと彼女ことを意味ありげに見つめてきます。

 キサラギのような魅力的な若者に思わせぶりなことを言われ、情熱的な視線を浴びせられているアヤメ姫は、何だかとても恥ずかしい気持ちになってきました。


「か、からかっているのでしょう」


「どうして私があなたをからかわなければいけないのですか?」


 とっさの一言もすぐに切り返されてしまいます。

 アヤメ姫は何だか逃げ場のない場所へ追い詰められていっているような気持ちになりました。


「昨日、婚約破棄されたばかりの女にそのような発言をするのは、不謹慎だとは思われないのですか?」


 苦しまぎれに出てきたのはとげのある言葉で、彼女自身も言ってから反射的に「しまった」と思ってしまいます。

 ところが、キサラギは真剣な顔ですぐに返してきました。


「不謹慎なのでしょうが、私にしてみれば千載一遇の機会ですからね。ようやく見つけた蜘蛛の糸は、放したくないのです」


「なっ……」


 アヤメ姫は恥ずかしさのあまり、顔から火が出るような気分です。

 目の前の若者はあろうことか、「やっと理想の女性に出会えたのだから、絶対逃がしたくない」と告白してきたのですから、彼女でなくとも女性であればやむを得ないことでした。


「わたくしの身の上は昨日話したとおりなのですよ?」


 このような惨めな女のどこがいいのかと問う。


「酷い仕打ちをしてきたご両親や妹君を恨みきれない。絶望してもこの世は呪えない。優しく芯が強いあなたこそ、私は素敵だと思うからですよ」


 キサラギは明瞭に答えます。

 アヤメ姫はそのような物の見方があったのかと、目を丸くしました。


「私にしてみれば、天に感謝の祈りをささげたい気持ちでいっぱいです。コマクサとやらにも礼を言いたいと言えば、あなたに叱られるでしょうが」


 彼はまたしても大胆な発言をします。

 こうなってくるとアヤメ姫はとても不利でした。

 何しろ生まれてこの方、ただの一度も魅力的な殿方に口説かれた経験がないからです。

 口説かれ慣れているユリ姫であれば、上手にあしらい、逃げる術も心得ているのでしょうけど。

 何ということでしょう、今のアヤメ姫は、ユリ姫への恨みも忘れそうになっていたのです。


「一体どうして私のことを嫌うのですか?」


 彼のこの問いには、


「捨てられたばかりの女が、すぐに殿方を信じる気にならないのは道理ではありませんか?」


 と答えるので精いっぱいでした。

 普通の男性ならば「もっともだ」と引き下がってくれるでしょうが、執拗に情熱的な言葉を吐いてくるこのキサラギに通用するかどうか、不安でなりません。

 

「であれば、私が信じるに値する男かどうか、試してくれませんか」


「えっ?」


 とまどうアヤメ姫にキサラギは畳みかけます。


「会ったこともない男のせいで、機会が与えられないのは気の毒だとは思いませんか?」


「そ、それはそうかもしれませんが……」


 彼女がついついそう言ってしまうと、彼は好機とばかりに言葉を重ねました。


「ではこれから一緒に暮らしましょう。あなたが断わるのは自由ですし、そうなっても一生あなたの面倒は見ます。ご自分の気持ちに正直でいてください」


「すごい自信ですね」


 アヤメ姫は彼女らしくもなく嫌味を言ってしまいましたが、キサラギは笑って応えます。


「自信があるのは、己の気持ちの強さです。あなたを妻にしたいという想いがこの世で一番だと確信しているだけです」


「そ、そうですか」


 この世で一番想っているとはっきり言われると、どうしても彼女は照れてしまいます。

 

「では、よろしくお願いします」


「は、はい」


 二人はそう言って会釈をしあいました。

 アヤメ姫が陥落するのか否かという勝負がこうして始まったのです。

 多くの方が察せられたかと思いますが、彼女は負けてしまいました。

 果たしてこれはアヤメ姫を責められるでしょうか。

 男性が毎日甘い情熱的な言葉を囁いてくるのに、彼女には逃げ道がなかったのです。

 世の女性ならばみなうっとりとため息つきそうな男性が、十日、二十日、三十日と顔合わせるたびに延々と直接的な愛情をぶつけてきたのです。


「あなたは私の天女です。私は天を仰いで太陽の光を浴びるように、あなたを浴びたいのです」


「野に咲き風雨に耐える一輪の花の素晴らしさに心が動いたことはありませんか? 私がそうなのです」


 といった言葉ともに。

 アヤメ姫はよくもまあ考えるものだと思いましたし、中にはちょっと怖い文句もありました。

 むしろ三十日以上もこの攻勢を耐えしのいだ、アヤメ姫があっぱれだという見方も成り立つのではないでしょうか。

 

「わ、分かりました。わたくしの負けですね」


 四十三日め、とうとう姫君が頬を染めて降参すると、キサラギは小躍りして喜びました。

 

「で、ですが、あなたがどこのどなたなのか、存じません。わたくしのことを本気で想っていらっしゃるなら、いい加減打ち明けて下さいませ」


 アヤメ姫は不安に揺れるまなざしを彼に向けます。

 それも仕方ないことと言えましょう。

 この家は衛士が持てる程度の広さに違いないのですが、内装は驚くほど立派なのです。

 幾度か質問したものの、全てはぐらかされてしまいました。


(場合によってはあきらめた方がいいのかもしれない)


 キサラギの情熱的な攻勢に屈したと言っても、まだ頭は冷静な部分が残っています。

 彼の正体や対応次第では、再び逃げ出した方がよいかもしれないとひそかに考えていました。


「そうですね。あなたが私の妻になってくださるとおっしゃるなら、隠す必要はもうないでしょう。これから私の実家に連れて行ってもかまいませんか? みなにあなたを紹介したいのですが」


「は、はい、それはもちろん」


 家族や友人に紹介してもらえるならば、少しは安心できる。

 アヤメ姫はそう思ってうなずきました。


「ではさっそく出発しましょう」


「はい」


 性急と言えば性急でしたが、これまではぐらかされ続けた反動もあり、彼女は賛成します。

 用意された馬車は彼女からすればありふれたものでしたが、やはりただの衛士には持てないはずです。


(お金持ちの親戚でもいるのかしら?)


 とアヤメ姫は考えました。

 たとえばですが母方の親族が貴族、あるいは素封家で両親を失ったキサラギに色々と援助しているのかもしれません。

 そうなれば説明がつくことが多いからです。


「何日もかかるから途中、宿で休みますよ?」


「ええ」


 キサラギの言葉は何もおかしくはありません。

 貴族の家ともなれば旅の途中で宿泊できる別荘をいくつも持っていたり、道中の宿を借り上げたりするものです。

 キサラギが何らかの事情で同じことをやれるだけのお金を持っているならば、当然やるでしょう。

 彼一人であればまた違うのかもしれませんが、アヤメ姫のような若い婦人と一緒なのですから他に方法はないと言えます。

 ただ、隙を見ては手を握ってきたり、肩に腕を回してきたりするキサラギが、果たしてどのような行動に出るのかという不安はありました。

 手を払うと諦めてくれるのはいいのですが、必ず諦めさせなければならないのです。

 それだけ求愛されるのはうれしい反面、辟易としてもいるのですから彼女の心は複雑でした。

 ところが、ふたを開けてみれば彼女の取り越し苦労に終わります。

 道中の部屋はいつも別々で、キサラギは必要以上に馴れ馴れしくしてきませんでした。

 それでいて「今日もあなたは美しい」「毎日あなたの姿を見れてうれしい」という声はかけてくれるのです。

 いつもこうだったらいいのにな、と少し思ってしまったアヤメ姫でした。

 期待と不安を抱いた彼女を乗せた馬車は、ゆっくりと南の方に下っていきます。


(こちらの方角は……)


 彼女は貴族のたしなみとしての教養があり、また方向感覚も優れていました。

 ゆえに馬車がどちらの方面に向かっているのか、何となく分かってしまいます。

 馬車が向かっているのはムラサメ家という貴族が支配する、ナグモ州に入ったのでした。

 ムラサメ家と言えばとても戦争が強く、いくつもの土地を攻め落として「常勝のムラサメ」と謳われているほどです。

 しかし、野蛮で乱暴で好戦的だと嫌う家も多いのでした。

 アシハラ家もキハチ家も嫌っている方で、そのせいかアヤメ姫も何となく好きにはなれません。

 ですが、それ以上に風評だけで誰かを判断するようなまねはしたくないという気持ちがありました。

 彼女自身も苦しめられる立場だからです。

 それにまだそうだと決まったわけではないため、できるだけ顔に出さないようにしていました。

 

「おや、不安そうですね?」


 キサラギはそのような彼女の心境をいとも簡単に見抜いてしまったらしく、声をかけてきます。

 どきりとした彼女は、ただ黙って微笑むばかりでした。

  

「このあたりは書物でしか知りませんから」


 貴族の姫らしい言葉を選んで言えば、彼はあっさりと納得します。


「なるほど、そうでしたね。しかし、この馬車を襲う者はきっといませんよ」


 何やら自信ありげにキサラギハは笑いました。

 きっと自分の不安を取り除こうとしているのだと彼女は解釈します。

 彼の思いを汲もうと彼女は気丈にふるまいました。

 やがて馬車は藁ぶき屋根の豪邸の前に着きます。


「えっ」


 アシハラ家のお屋敷が三つは入りそうなほど広大な庭、堅牢そうな石造りの壁はアヤメ姫を圧倒しました。


「さあ、姫様、手を」


 彼女は困惑しながらもキサラギに手を取られ、導かれます。

 庭には何十人もの男女が頭を下げて彼らを出迎えました。


「おかえりなさいませ、キサラギ様っ!」


 一糸乱れぬその様は実に壮観です。

 

「この人は我が妻になる方だ。お前たちはそのつもりでな」


「はっ!」


「ところで叔父上はどちらにいらっしゃる?」


「私ならここだよ」


 屋敷の中から一人の中年男性が出てきました。


「放蕩なご当主殿がようやくお帰りか」


 皮肉な字面とは裏腹に、彼はキサラギの帰還をとても喜んでいるようです。

 

「はは。私の留守を預かっていただき、ありがとうございます。ですが、ほら、御覧の通り」


 彼はそこでアヤメ姫に目を向け、男性の視線も彼女に移りました。


「こちらの女性は?」


「アシハラ家のアヤメ姫ですよ」


「何と?」


 キサラギの叔父は明らかに驚いていましたが、彼女への礼儀は守りました。


「反対ですか?」


「いや、色々な姫君を袖にしてきたお前が決めた相手だ。私に異論はない」


 この言葉にはキサラギはもちろん、アヤメ姫も安心しました。

 「アシハラ家のアヤメ姫」の風評を知っていてもなお、賛成してもらえるとは夢のようです。


「叔父上の賛同が得られるなら、千人力ですね」


 キサラギは軽口を叩いた後、ちらりと彼女を見ました。

 何も心配はいらないと言っているようです。

 彼女は彼のそのまなざしに勇気をもらい、思い切って尋ねてみました。


「あのう、キサラギ様。そろそろ教えていただけませんか? あなたさまがご当主なのですか?」


「ええ。私がムラサメ家の今の当主ですよ」


 あっさりと肯定されましたが、アヤメ姫にしても「やはり」という気持ちが勝ちました。

 そこへ叔父が口を挟みます。


「このキサラギはとても戦が強いのですが、当主の仕事を放り出して嫁さがしに出る困った男なのです。あなたという女性が無事見つかって何よりですよ」


「どれくらいお強いのでしょう?」


 とてもそうは見えなかった彼女が聞くと、当の本人は不思議そうに首をかしげました。


「さあ? 何しろ今まで一度も負けたことがないので、よくわかりませんね」


 負けたことがない……どれくらいすごいことなのか、残念ながらアヤメ姫にもよく分かりません。

 ただ、ここにいる人たち全てから信頼されていることはたしかでした。


「しかし、キサラギ。アシハラ家の許可は取ってきたのか?」


「それがそのう……」


 ここにきて初めてキサラギが気まずそうな顔になります。

 アヤメ姫が彼に変わって自分の事情を話しました。

 戻る場所がないことも、どこで何をしていようとも実家は気にしないだろうということも。


「そうでしたか……」  


「御迷惑でしょうか」


 アシハラ家の後ろ盾を期待されても、今のアヤメ姫では応えられません。

 早いうちに説明しておいた方がよいと判断したのです。

 後になってから反対され破談になってしまうのは、もうこりごりでした。


「いいえ、最も大切なのは、このキサラギに当主としての自覚を持たせてくれる女性ですから。アヤメ姫がそれをになって下さるなら、我々は大歓迎ですよ」


 一体どれだけこのキサラギは仕事を怠けていたのだろう、とアヤメ姫の頭に疑問が浮かびます。

 しかし、それは口にしませんでした。


「もちろん。このアヤメ姫と結婚できるなら、心を入れ替えて一生懸命に働きますとも」


 キサラギが熱を込めて言うと、叔父は口元をゆるめます。


「ならば、かまわぬ。アヤメ姫の内助の功、天下無双と言われるように働くがいい」


「はい、叔父上」


 こうしてアヤメ姫はキサラギと結婚しました。

 結婚式が開かれた際、近隣の家の当主とその後継ぎが来たのはもちろん、何と外国からもお祝いが届きました。


「みな、ムラサメ家の機嫌を取りたいのさ。攻め込まれたくないからね」


 とムラサメ家の使用人たちの会話を偶然聞いてしまったアヤメ姫は、ムラサメ家の強大な力に戦慄せざるを得ません。 


(本当にわたくしがいいのかしら?)


 彼女は不安な気持ちがまたしてももたげてきました。

 それが吹き飛んだのは、キサラギが集まった人に向かって言葉を放った時です。


「風に吹かれ、雨に打たれ、人に踏まれてもなお、太陽を目指して伸びる花は美しい。困難を知り、困難に耐える強さにこそ、私は美を感じる。アヤメ姫はそれでも己の家族を憎まなかった。己に困難を押しつける妹姫との仲も悪くなかったという。私には信じられぬことだ」


 キサラギの熱のこもった弁舌を、集まった人々は黙って聞いていました。


「彼女こそ我が伴侶に相応しい。彼女こそ、我がムラサメ家の後継ぎを産む女性だ。天におわす神々よ、地を耕す人々よ、照覧あれ。今日我は生涯の伴侶を得た。このキサラギは彼女とともにムラサメ家の未来を築かん。彼女に降りかかる災いは、このキサラギが打ち払わん」


「おおっ!」


 大きな声をもって応えたのは、叔父を筆頭とするムラサメ家の人々である。

 万雷の拍手がそれに続いた。

 アヤメ姫の目尻からは白い光の粒がこぼれる。


「どうしました?」


 心配そうにたずねる夫に、彼女はささやきます。


「ごめんなさい。幸せで胸いっぱいで……こんな気持ちになっていいのかと」


「いいのですよ。私がこれからたくさんあなたを幸せにしましょう。そして一緒に未来を創っていきましょう」


「は、はい」


 夫の優しい言葉にアヤメ姫は胸を打たれながらも、何とか笑顔で答えました。



 後日談。

 年に一度、貴族の当主は宮廷に集い、新しい年の到来と朝廷を祝います。

 もし、直系で結婚した者がいれば、その者たちを連れてきて顔つなぎも行います。

 

「これは私の息子とその妻です。よろしくお引き立て下さい」


 簡単に言えばそういうための場でもあるのでした。

 そこへやってきたのはアシハラ家のユリ姫とその夫となったキハチ家コマクサです。

 どちらの家も星二位の称号を代々受け継ぐ名門であるため、皆が快く祝いました。

 八割がた集まったところにある話題が出ます。


「そう言えばムラサメ家のキサラギ殿もとうとうご結婚なさったようですな」


「ほう? あのお方を射止めた女性とは、どこの姫君なのでしょう」


「何でも何の後ろ盾も持たないお気の毒な女性とか」


「何とも勿体ない話にございますな。キサラギ殿であれば、帝の婿にもなれたでしょうに」


 貴族と言えども所詮彼らも人の子、噂話がさかんでした。

 ムラサメ家のキサラギがついに婚姻したのはめでたいけれど、自分の家系から伴侶となる者が現れなかったのは残念でしかたない。

 貴族たちの顔にはそう書いてありました。

 ムラサメ家と言えば無類の戦上手で、帝の御為にたくさんの敵を打ち破り、領地を献上してきた武の名門です。

 その地位は帝の一族だけが持てる陽一位に次ぐ月一位と非常に高いのです。

 摂政たるアリスガオカ家ですら月一位のすぐ下、星一位なのですから、どれだけ帝の覚えがめでたいのか、貴族であれば分からないはずがありません。

 そのキサラギが妻となった女性を伴い、やってきました。


「申し訳ありません、新年のめでたい席に遅れてしまいました」


「何の何の。ムラサメ家は最も遠い南方にあるのですから、致し方ございませぬ」


 現摂政のアリスガオカトモノリが、愛想良く笑い自身のすぐ左に座るようにすすめます。

 国内全土の名門貴族たちが一堂に集まる場において、摂政と並ぶのがムラサメ家でした。


「皆様にご紹介いたしましょう。このたび、我が伴侶となったアヤメにございます」


「アヤメと申します。ふつつか者ではございますが、皆様よしなに」


 恥ずかしそうにあいさつをする女性の美しさに、ほっと息が漏れます。

 

「このような美しい女性がいらっしゃるとは、恥ずかしながら今まで存じませんでしたな」


 アリスガオカトモノリの言葉には世辞を超えた響きがありました。

 夫となったキサラギから目一杯の愛情を受けて、アヤメ姫は花も恥じらうほど美しくなっていたのですから、無理もありません。

 ただ一人の男性に愛されるだけでこうも変わるものなのか、アヤメ姫自身驚いたほどでした。

 場では皆祝福するか、アヤメ姫の美しさをほめる人たちが多かったのですが、例外もいます。

 アシハラ家とキハチ家の人々だけは、キサラギの隣に座る女性が「あのアヤメ姫」だと分かり、真っ青になっていました。

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