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第一章 幸福論

この作品は、物語というより“思想の記録”に近い作品です。


幸福とは何か。


日常の中で感じた違和感を、ただ言葉にしています。


少しでも何かが刺されば幸いです。

人間は、

生まれた時点で幸福である。


少なくとも、

その瞬間はまだ、

何も失っていない。


空腹も知らない。


孤独も知らない。


愛されない痛みも、

比較される苦しさも、

まだ知らない。


ただ、

そこに存在しているだけだった。


多くの人間は、

幸福を勘違いしている。


夢を叶えた時。


愛された時。


大金を手にした時。


人はそれを幸福と呼びたがる。


だが、

それらは幸福ではない。


熱に近い。


興奮。


快楽。


一瞬だけ脳を満たす、

麻酔みたいなものだ。


幸福とは、

本来もっと静かなものだった。


何かを得た状態ではなく、

何も欠けていない状態。


本当は、

それだけだった。


だが人間は、

失った瞬間にしか、

価値を理解できない。


呼吸をしている間、

誰も空気を見ない。


だが、

水の中では違う。


肺が悲鳴を上げた瞬間、

あれほど当たり前だった空気が、

命へ変わる。


健康も同じだ。


壊れて初めて、

人は身体の静けさを思い出す。


深夜まで起きて、

適当に飯を食い、

適当に眠れること。


痛みなく歩けること。


朝、

何事もなく目が覚めること。


本当は、

それだけで十分だったのかもしれない。


だが、

人間は慣れる。


あまりにも簡単に。


平穏にも。


幸福にも。


だから価値が消える。


例えば、

貧困の中で生まれた人間がいる。


周囲は不幸だと言うだろう。


だが本人にとっては、

それが世界になる。


ボロボロの壁。


湿った布団。


怒鳴り声の響く夜。


それでも人は、

普通に眠る。


普通に笑う。


普通に生きてしまう。


人間は、

壊れた環境にすら適応する。


それが生存だからだ。


普通とは恐ろしい。


普通は、

痛みを日常へ変えてしまう。


最初は苦しかったものも、

やがて感覚が薄れていく。


怒鳴り声にも。


孤独にも。


愛されないことにも。


そして、

慣れた頃には、

それなしで生きる方が怖くなる。


人間とは、

随分と不自由な生き物である。


幸福の中で、

不幸を探し始める。


退屈。


比較。


承認欲求。


誰かより劣っている理由を探し、

満たされない証拠を集め始める。


まるで、

欠けていなければ、

自分ではないみたいに。


私もそうだ。


私、夕暮 桜は、

幸福を理解できない人間である。


社宅の1LDK。


薄い壁。


隣人の足音で目が覚める朝。


昨日吸ったタバコの残り香が、

部屋の隅にまだ沈んでいる。


シフト制の仕事だから、

今日が平日なのか休日なのか、

時々わからなくなる。


コンビニで買った焼きそばを開けながら、

私はぼんやり時計を見る。


麺は少し固まっていた。


朝起きて、

仕事へ行く。


帰宅して、

コンビニの飯を食い、

風呂へ入り、

眠る。


ただ、

それだけの人生だ。


劇的な成功はない。


誰かに必要とされるわけでもない。


名前が残ることもない。


世界は今日も、

私を知らないまま回っている。


だが、

生活は続いている。


壊れてはいない。


本来、

それだけで十分幸福なはずだった。


雨風を防げる部屋がある。


飢えていない。


今日を越えられる程度の金もある。


それでも人間は、

足りないと言い始める。


もっと。


まだ。


さらに。


そうやって、

幸福を削っていく。


平穏に耐えられないのだ。


私は、

人と会うのが少し怖い。


世間話をするだけで、

心が少し削れる。


人と話す時、

私はずっと考えている。


今、

この人は楽しいのか。


怒っていないか。


退屈していないか。


私と話す意味はあるのか。


気づけば、

手のひらは汗で濡れていて、

背中だけが妙に冷たい。


たぶん、

普通の人間なら、

こんなことはいちいち考えない。


だが私は、

それをやめられない。


そして、

そんな痛みすら、

いつの間にか日常になっていた。


ただ、

ベランダで音楽を聴きながら吸うタバコは好きだった。


夜風に煙が溶けていく。


遠くで車の走る音がする。


誰かの笑い声。


名前も知らない生活音。


それらを聞きながら、

何も考えず煙を吐く瞬間だけ、

少しだけ世界から切り離される。


幸福とは、

本来もっと静かなものだった。


外へ出て、

目的もなく歩く感覚に近い。


車の音。


誰かの吐息。


遠くの会話。


そんな雑音の中を、

人は何も気にせず歩いていく。


本当は、

それだけで良かったのかもしれない。


だが人間は、

慣れた瞬間に価値を失う。


満たされているのに、

満たされない。


足りているのに、

足りない。


そして、

失った瞬間にだけ泣く。


あの時、

幸福だったのだと。


まるで、

最初から知っていたみたいな顔で。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


幸福という言葉は、とても曖昧だと思っています。


だからこそ、人によって形が違い、人によって価値も違う。


この作品では、“幸福とは何か”を私なりの視点で言葉にしました。


次章では「社会」について書いていきます。

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