『イヴの魂』は殺しますから
――同日、夜。アタシはリリに言われた通り新宿駅前にいた。久しぶりにシャツとカーディガン以外の服を着たからか、不思議と心が落ち着かない。変な格好をしていないだろうか。交差点越しに見える真っ赤なネオンライトの『歌舞伎町一番街』というアーチを眺めながらリリたちを待つ。
「――あ、いた! エバちゃんお待たせ〜!」
声のした方を見ると、昼間と変わらない服装のリリが駆け足でこちらへ向かってきていた。数分前から二人を待ちつつ街ゆく人々を観察していたが、彼女と似た系統の服装をした若者たちが非常に多く見受けられて、さすがは夜の魔女。夜の街に自然と溶け込んでいる。……彼女のファッションセンスが丁度マッチしただけかもしれないが。
「バブちゃんはまだ来てないんだねー」
「そうね、まだそれらしい人物は見掛けてないわ」
悪魔であるから姿をある程度変えられるのは理解しているが、果たして彼がどんな姿で来るのか少し楽しみにしているアタシがいた。
「てかエバちゃんめっちゃ可愛いじゃん。可愛いっていうか……ド美人。まぁ素材が良いからそりゃそうだよねー。それどこのドレス?」
リリがアタシのスリットの入ったドレスを見て言う。お洒落着なんてこれくらいしか持っておらず消去法で選んで着てきたが、これなら普段の服装の方が動きやすかったのではないかなどと考える。
「どこのだったかしら……。だいぶ前に祓魔師たちで会食か何かをしたときに着て、それ以来押し入れの肥やしにしてたやつだから……よく憶えてないのよね」
「もしかしてエバちゃん、あんまり服とかに興味無い?」
「動きやすいか、祓魔に使う装備が隠せるか。そのどちらかが保証されてれば割と何でもいいわね」
もったいなーい! とリリが頬を膨らませて言う。そんなこと言われても、悪魔との戦闘に邪魔にならなければ良いしなぁ……としか。リリが続けた。
「せっかく美人さんなんだからお洒落しようよー!」
「えぇ……。そうは言われても、ファッションとかよく分からないのよね」
「なら今度一緒に――」
「ねぇお姉さんたち! めっちゃ可愛いね! ここらへん住んでる人?」
リリの言葉を遮ってカジュアルスーツを着た金髪の青年が声を掛けてくる。左耳にだけフープのピアスを着けた青年はアタシの顔を見て「あ……外国の人かよ」と小さく呟いて苦笑いした。
「……何の用ですか?」
「あぇっ!? お姉さん超日本語上手くないっすか? え、日本の人じゃないっすよね?」
「母国はイギリスよ。仕事の関係で日本語も使うことがあるから、覚えただけ」
青年は「へぇー、スゲーっすね! ……お隣りの女の子はお姉さんのお友達っすか?」と訊いてくる。そうね、と返しながらリリを見ると、あからさまに嫌そうな顔をして青年を見ていた。
「エバちゃん、何で返事しちゃうかなー」
「? 話しかけられたら返事をするのは、人として当たり前でしょ?」
「こーいうのは無視っとけばいいの。……ってワケで、リリたち友達待ってるからどっか行ってくれるー?」
邪険にするリリに青年は「えー、冷たいなぁ」と笑って「そうだ! じゃあさ、その待ってるお友達? も合流したらオレらんとこ飲みに来ない?」と言って続ける。
「ホストなんだけど、他の店みたいにしつこく「また来い」とか言わないんだよね! 全然初回だけでオッケーだし、一人二千円で三時間飲み放題! どうかな? 『Lost = Paradise』ってところなんだけど……」
「……待って。店の名前、もっかい言って?」
「え? ……『Lost = Paradise』だけど……」
青年が店の名前を言った途端にリリの目つきが変わった。リリがアタシの耳元で声を潜めて「アスモデウスのいるとこだよ」と耳打ちしてくる。アタシは驚いて「え、じゃあ――」と声を上げるが、すかさず彼女はアタシの言いたいことを察して「大丈夫、この人は人間」と付け加えた。
「で、えーと……お姉さんたちどうする?」
「行こうかな! でも、友達来てからでいい? もうすぐ来るはずなんだー」
先程と違い柔らかい笑顔でリリが答えると、青年は気を良くしたのか「お! やったぁ! 友達ねー、全然いいよ!」と笑顔になる。
「さっきは態度悪くてごめんねー? 丁度リリたちLost = Paradise行こうとしてて、もう行きたい店決まってたから他の所の人だったら嫌だなーって思ってたんだー」
「え、てことはもしかして何回か来てくれてる感じ?」
「ううん、初めてだよー。気になってたから行こうかなって!」
「あーね! オッケー! ……良かったぁ。もう来てくれてる子の顔覚えてなかったらさすがにヤバかったわ。ちなみにもう一人の友達って――」
「――オイ」
リリと談笑している青年の背後に、いつの間にか長身の女性が立っていた。女性が低い声で言う。
「コイツらに何か用かァ?」
青年よりも頭一つ分も上背のある女性が睨みつけるように青年を見下していた。青年は振り返ると引き攣った笑顔で「あ……えっと……」とあまりの威圧感に吃ってしまう。青年が助けを求めるようにこちらへ振り向くと、リリが明るい声で「やっと来たぁー。そんなに睨まないであげて?」と微笑んだ。
「……リリ、エバ。悪ィ、待たせた。で? コイツは?」
聞き惚れてしまうようなハスキーボイスで彼女――いや、彼が言う。姿こそ長身で黒髪ロングの同性にもモテそうな格好の良い女性だが、その喋り方と気配からベルゼブブであることはすぐに分かった。
青年を睨むベルゼブブにリリが言う。
「リリたちが行きたい店の従業員だよー。連れてってくれるってー」
リリが言うとベルゼブブは青年に視線を戻し、数秒間黙ったまま彼の目を見詰めた後にため息を一つついた。ベルゼブブが青年に言う。
「……そうか。ガンつけて悪かったな、兄ちゃん」
「あ、いえ……え、お友達さんめっちゃカッコイイ感じの人っすね?」
引き攣った笑顔のまま青年がリリを見ると、リリは「さ、揃ったし行こー」と呑気に言った。
「そ、そっすね! 行きましょっか! はは……」
「まァそんな日和ンなって。睨みつけたのァ悪かったよ。な?」
「あ、はは、全っ然大丈夫っすよー……」
先程の陽気なチャラさが消え失せた青年に肩を組んで話し掛けるベルゼブブ。道中どんどん青年の顔が青ざめていくのがさすがに少し哀れに思えて、アタシはベルゼブブを「ちょっと、怖がってるじゃないのよ」と強引に引き剥がした。
「ア? そうか? そいつァ悪かった」
ベルゼブブが離れた彼にリリが「ごめんね? あの子ちょっと友達想いなだけなんだー」と話し掛ける。
二人が話している後ろで、アタシはベルゼブブに「ここでは何と呼べばいいの?」と小さく問うた。
「アァそうか。そのままってワケにもいかねェもんな……何か良いのあるか?」
「そうねぇ……」とアタシは少し考え、「ベルゼブブだからベルちゃんとか?」と提案する。アタシが言うとベルゼブブはやや不満そうに顔を歪めた。
「何でテメェらは俺のことちゃん付けで呼ぶんだ? まァ良いけどよォ……」
「じゃあその姿の時はベルちゃんね。よろしくね、ベルちゃん」
「お前ちょっと面白がってンだろ」
「ここっす! 階段ちょっと急なんで、足元に気を付けて下さいね!」
駅から少し歩いたホテル街を抜けた先で青年が言う。青年の声に顔を見上げると、高級感のあるガラス扉の上に『Lost = Paradise』と店名が掲げられていた。
「じゃあ、権能についてはその時が来たら教えるわ。……っしゃあ! 行こうぜー」
「お姉さんマジでカッコイイすね。姐さんって呼んでも良いですか?」
「おー、俺が「姐さん」か。……悪く無ェな。好きにしろ」
「あざっす! てか姐さん、一人称「俺」なのもカッコイイすね。姐さん、名前って何て――」
青年とベルゼブブが先に行ってしまう。数歩遅れてアタシとリリも中に入った。
「バブちゃん、ここでの名前何になったの?」
「ベルちゃんにしたわ」
「おっけー。……もしかして、エバちゃんが決めた?」
「ええ。ベルゼブブだからベルちゃん」
「あはっ、ネーミングセンス最高。リリのバブちゃん呼びと大して変わらないのウケる」
話しながら階段を上ると、賑やかな人々の声が聞こえてくる。店内の雰囲気は派手というよりかはお洒落めで、天井から吊るされたシャンデリアが煌びやかに空間を照らしていた。
「明日斗さん! 初回三人連れてきました!」
「……ん? あぁ、おかえりスザク。姫三人連れて来るとかやるじゃん。やっぱり期待の新人はひと味違うね」
アタシたちを連れてきてくれた青年――スザクがフロントにいた白いスーツの男に声を掛ける。整った顔立ちと優しそうな声色。だが、その首元には不協和音を奏でる十字を連ねた傷痕があった。―――コイツがアスモデウスか。アタシは唾を飲み込んで鞄に手を伸ばし――
「まだだよ、エバちゃん」
その手を静かに抑えられ、リリに制止される。リリはベルゼブブと互いにアイコンタクトを取ると、一歩前へ出てアスモデウスに言った。
「やっほ。久しぶりだねー、アっすん」
その言葉にアスモデウスの整えられた眉がピクリと動く。アスモデウスは視線をアタシたちへ向け、一人ずつ確認するようにして目を動かした。アスモデウスが先程とは変わって静かな声色でスザクに言う。
「あー……ごめんスザク。この姫たち、ボクの客だ」
「えっ……でも……」
「古い知り合いなんだ。ごめん、今度ご飯奢るからさ」
アスモデウスに言われると「まぁ……明日斗さんが言うなら……」と潔く身を引いた。ため息をつくスザクにアスモデウスが言う。
「ごめんねスザク。どっか代わりに着ける卓は……」
「明日斗さーん。サキちゃんが呼んでまーす」
アスモデウスが店内を見渡していると、奥から黒髪の別のホストがアスモデウスを呼びに来た。アスモデウスは困った様子で「ボクちょっとこの子たちの相手しないとなんだけど……もしかしてボクが行かないとダメな感じ?」と問うた。黒髪の男は少し疲弊した表情で「明日斗さんじゃないと嫌とか言ってます」と返す。
「はぁ……またかぁ。分かった、ボクが行こう」
「あざす。すみません明日斗さん」
「いやいや、あの子悪酔いするといつもアレだから。そうなると……じゃあ、スザク。せっかく連れてきたんだし、この子たちの卓頼んでもいいかな?」
アスモデウスに言われると、スザクは「え、いいんすか?」と喜んだように声を上げた。
「向こうが落ち着いたらボクも行くから、それまで頼むよ。今VIPルーム空いてるから、そこで。あとベリーが裏でサボってるから、アイツも連れてってくれる?」
「分かりました! じゃあえっと……取り敢えずこっち来てもらってもいいすか?」
アスモデウスは「じゃ、しばらく頼んだよ」とスザクに言い残して足早に行ってしまう。アタシはリリの方を見るが、リリは「大丈夫、エバちゃん。落ち着いて」と静かに言った。
「アイツ、逃げるつもりか?」
「バブ……ベルちゃんも落ち着いて。どうせ後で来るよ。だから待とう」
リリが言うととベルゼブブは「そうかよ」と素っ気無く返して店内を見渡す。従業員や客の顔をざっと見て「リリとアスモデウスの匂いが濃くて分かりにくいが、野郎以外にもう一匹いやがるなァ。誰だ?」と独り言のように小さく呟いた。
「他にも悪魔がいるってこと?」
「そうだな。そいつがこっちに気づいてる気配は今ンとこ無ェが、他にもいるとなると面倒だな」
「おーい、二人とも。こっちこっち」
見るとリリが既にスザクに連れられて、通路を進んだ奥の『VIP』とかかれた扉の前に行っていた。ベルゼブブと目を合わせて無言で頷き、アタシたちもリリの元へ歩いた。
スザクが「どうぞー! とりま好きなとこ座っといてください!」と扉を開けてくれる。扉の先は円卓を中心に数人掛けの大きなソファが置かれた別室であり、天井の中心には店内にあるモノより遥かに装飾が派手なシャンデリアが吊るされていた。
アタシたちは入るとリリを中心にして三人並んでソファに掛ける。それを確認するとスザクが丁寧に扉を締め、アタシたちの前に『鏡月&割材各種が飲み放題!』と書かれたメニューを置いた。
「初回の飲み放題なんで選べるもの限られちゃいますけど、最初何いきます?」
「俺ァ割材無しで酒だけでいいわ。……リリたちはどうすんだ?」
ベルゼブブがこちらに問うてくる。リリの実年齢が未成年で無いことは知っているしそもそも悪魔に成人とかそういう概念があるのかも分からないが、一応アタシとリリは教師と生徒という関係でもある。そのことを考えてどうするべきか悩んでいると「エバちゃん、リリもちょっとだけお酒飲んでもいい?」と訊いてきた。
「でも……」
教師として止めるべきか。いやでも相手は別に未成年じゃないしなぁ。なんて思って吃っていると、リリがアタシの耳元で小さく呟いた。
「今日は先生と生徒じゃないよエバちゃん。祓魔師と悪魔。でしょ?」
「……そうね。悪酔いしないんだったら、好きにしたらいいわ」
「やったぁ、ありがとうエバちゃん。リリ、このミルクティーで割ったやつがいいー」
リリがメニューを指さして言うと、スザクが「オッケー。……金髪のお姉さんは? どする?」とアタシを見てくる。が、アタシが何か答える前にベルゼブブが「悪ィけど、エバのだけはソフトドリンクにしてやってくれねェか? 酒苦手らしいンだよ」と答えた。
「あ、そうなんすね。分かりました! えっと、じゃあエバさん? はソフドリ何飲みます? メニューに書いてある割材のとこ全部ソフドリっすけど」
アタシはメニューを見て、「そうね……なら、紅茶でお願いするわ」とスザクに伝える。それを聞くとスザクは「じゃあ姐さんが鏡月ストレート、そっちのリリちゃん? がミルクティー割りで、エバさんがアイスティー。それで大丈夫っすか?」と確認をした。ベルゼブブが「それで頼む」と言うと「オッケーっす! んじゃあ、お酒とか持ってくるついでにもう一人呼んでくるんで、ちょっと待っててください!」と店内に戻っていった。扉が閉められて室内にアタシたち三人になって少しすると、ベルゼブブがアタシに言う。
「……俺ら悪魔は多少酒が入ろうが影響は無いが、人間のエバはそうもいかねぇと思ってな。変に酔いが回っていざアスモデウスと殺り合うときに銃の照準が合いませんなんてコトになったらいけねェ。だからお前の分は勝手に酒じゃなくしちまったが……余計なお世話だったか?」
アタシは「いいえ、どちらにせよお酒を飲むつもりは無かったから良かったわ」と返して言った。
「ありがとうベルゼ……ベルちゃん」
「……おう」
「ほんと、バブちゃん……じゃなかった。ベルちゃんって、こういう気遣いできるよねー」
「別に俺らしかいないなら、いつも通りの呼び方でいいだろ。わざわざ言い直さなくても――リリ」
呆れたように言っていたベルゼブブの声色が変わる。リリも察したように扉の方を一瞥してから「エバちゃん、銃と弾、いつでも出せるようにしといて」と静かに言った。
「わかったわ」
アタシは鞄から拳銃と弾丸が入ったベルト状に連なったポーチを取り出して、ドレスのスリットから太ももに装着した。
「コイツぁ……中々面倒な奴だな」
「だね、バブちゃん。コレはちょっと予想外かも」
リリの甘い香りが強くなる。恐らくコレがリリたちが言っていた悪魔としての匂いなのだろう。悪魔は匂いで同族か人間なのかを判別することが出来る。更には悪魔の系統ごとに匂いの種類も異なるようで、リリが発しているのは淫魔の匂いだ。甘ったるい香水の奥にどこか果物のようなさっぱりした印象を受ける匂い。
「ナイスだ、リリ。アイツぁ察しが良いから、いくら薄めてるとはいえ匂いで俺の存在が、それどころか下手すればエバの持つ銀の弾丸の匂いもバレかねない。だがスザクって奴ァ人間だ。あまり淫魔の側面を持つ匂いを強めすぎるとおかしくなるぞ」
「分かってるよー。そこら辺の加減はしてる。……エバちゃんは大丈夫? 調子おかしかったりしてない? 具体的にはリリのこと好きになっちゃうとか、リリのこといつも以上に魅力的に見えちゃうとか」
「特に無いわね」
「だよねー。でもそこはちょっとあって欲しかったなぁ」
強めに淫魔の匂いを発しているリリの隣に座っているが、本当に何も無い。強いて言えば、どこかこの匂いに懐かしさをアタシは感じていた。淫魔の側面を持つ悪魔と対峙した記憶など無いはずなのに、ずっと昔からこの匂いを知っている気がする。すごく愛おしい存在のような、或いはもう二度と手を離してはならない存在のような。そんな感覚。
……もしかして、コレこそが淫魔の匂いに当てられている状態なのだろうか。だけれど、特に体調に変化も無ければ理性が揺らぐ気配も無い。この懐かしさは何なのだろう。
「――来るよ。エバちゃんは祓魔師ってことを絶対に気取られないでね」
リリの静かな声がアタシの思考を切り裂いた。扉の向こうからスザクの声がして、やがて扉が開かれる。
「ごめーん! お待たせ姐さんたち! ほらベリーさん、明日斗さんから任されてるんすからちゃんとやってくださいよ!」
「えー、だる。もうオレ今日結構飲んでるんだけど。……あれ?」
ベリーと呼ばれたウルフカットの黒髪に暗い赤のインナーカラーが入っている男がリリを見た。リリも彼と目を合わせており、ベルゼブブは敢えて視線を外していた。
「……リリさんじゃん。おひさー。何してんのこんなとこで」
「ベリりんもね。リリびっくりしゃった」
「オレ? オレは暇潰し。えーと、源氏名なんだっけアイツ。……あ、そうだ。明日斗。明日斗がこっちで店やるって言うから、何か面白そうだなーって。……座っていい?」
「いいよー」
スザクが「何すか? ベリーさんもリリちゃんの知り合いっすか? 連れてきたのオレなのに、オレめっちゃ肩身狭いんすけどー」と文句を言いながら酒や割材のソフトドリンク、グラスや氷の満たされたアイスペールなどを慣れた手つきで置いていく。その横で手伝う素振りを見せること無くベリーは、円卓越しにリリの正面へと大股を開いて座った。アイスペールなどの配置を終えたスザクがベリーと少し距離を取ってベルゼブブの正面に座りグラスにドリンクを注ぐ。その横でソファにもたれ掛かったままベリーが話し始めた。
「なるほどねー。リリさんがいるなら、オレが呼ばれた理由も納得だわ。あとの二人は……あー、わかんねぇ。ってことは初めましてかな。ベリーでーす。よろー」
ベリーがヘラヘラと笑いながら軽く手を振る。スザクは全員分のグラスを中身を入れてそれぞれの前に置き終えると、「改めて、オレはスザクっていいます! 明日斗さんに用があるっぽかったっすけど、明日斗さん来るまでオレら二人で盛り上げちゃうんでよろしくっす!」と笑顔で言った。
「あー、明日斗に用だったん? なに? リリさん仇討ちでもしにきたの?」
ベリーに訊かれると、リリは「それもあるー」といつもの調子で返す。それを受けるとベリーは「ふーん。ま、何でもいいや」と大して興味も無いかのように言って続けた。
「隣の二人はリリさんの友達? 名前教えてくんね?」
「こっちのカッコいいのがベルちゃんで、こっちのキレイなのがエバちゃん。仲良くしてあげて」
アタシたちが言う前にリリが答える。ベリーはアタシとベルゼブブの顔を見て一瞬眉を顰めたが、すぐに「ベルちゃんとエバちゃんね。よろー」と軽薄な調子に戻った。
「とりま乾杯しません? ねぇ姐さん」
「ん、そうだな。早く酒飲みてェわ」
「何スザクお前、ベルちゃんのこと姐さんって呼んでんの? ウケるんだけど。てか仲良くなるの早くね?」
「駅前で会ったときに、運命的な出会いをしちゃったんすよ。ね、姐さん!」
「ビビり散らしてたのァ誰だよ」とベルゼブブが笑いながらグラスを持つ。それを見てスザクたちもグラスを持ち、アタシも少し遅れて右手でグラスを手に取った。
「じゃ、飲みますか」
「飲も飲もー」
「乾杯!」
酒を待ちきれなかったのかベルゼブブが言うと、「あ、ベルちゃんが言うのね」と笑いながらベリーがグラスをベルゼブブの持つグラスに軽く当てる。それに続いてアタシたちも「乾杯」と言って飲み始めた。
「リリさんと二人は、どういう関係?」
グラスをテーブルに置いてベリーが言う。リリの匂いに掻き消されてはいるが、ベリーを中心として肌を刺すような悪魔の気配を感じられた。恐らくだが、アタシとベルゼブブはこのベリーという悪魔に警戒されている。アタシたちが悪魔や祓魔師であれば、この感覚に気が付き何かしら反応を見せるだろうと想定してのことだろう。
アタシもベルゼブブもそれを察して、敢えて何も反応を見せない。不思議そうに眉を顰めるベリーに、リリが笑いかけた。
「ただの友達だよー。だからそんなピリピリしないでよ」
「……あ〜れ? オレの勘が外れるなんて珍しいんだけどなー。まぁいいや。オレはリリさんが明日斗に何しても別に構わないし」
肩透かしを食らったように笑うベリー。ここでバレるわけにはいかない。だがここからどうアスモデウスがくるまでやり過ごすべきか。アタシはベルゼブブの方を見るが、ベルゼブブはスザクと談笑しながら既に三杯ほど飲んでいた。
「姐さん、めっちゃ飲みますね? お酒強いんすか?」
「お前らよりかは強ェかな」
「じゃあ飲み比べでもします〜?」
調子良く笑うスザクに、リリが「やめた方がいいよー?」と言う。飲み比べの提案を受ける気だったのか、ベルゼブブは「止めんなよリリ」と不満そうな顔をした。
「だってベルちゃん、飲み比べとかやったらこの店のお酒全部一人で飲んじゃうでしょ?」
「まァ呑んでいいなら全部いくぜ?」
「そういうとこー」
「へぇ、ベルちゃんってそんなに酒イケんの? すげぇじゃん。エバちゃんは?」
「……えっ、アタシ?」
急にベリーがこちらへ話を振ってくる。アタシは何をどう答えていいのか分からず、「お酒は、苦手です」とだけ答えた。
「あ、そうなん? つーかテンション低くね?」
「エバちゃん、こういうところ初めてでちょっと緊張してるみたいなんだー」
見兼ねたリリが助け船を出してくれる。アタシはそれに乗じて「そ、そうなのよ。何を話せばいいのか分からなくて」とぎこちない笑顔を作ってみせた。それを受けるとベリーがまた変わらない調子で話してくる。
「そっかー。こういうところって初めはビビるよねー。まぁでも、全然普段通りで大丈夫だよ? ……てか普段とかはどこ行ったりするの? この三人でよく遊びに行ってたりする?」
「この前は……一緒にご飯に行ったわね」
間違ったことは言っていない。隣のリリが「あそこ美味しかったよねー」と同調してくれる。
「へぇー。何食べたん?」
「中華だったわ」
「中華かぁ。オレも久しぶりに食べてぇなぁ。ねぇ、エバちゃんは中華だと何が――」
「――ごめーん。やぁっとこっち来れた」
ベリーの言葉の途中で扉が開かれ、白いスーツの男が入ってくる。アスモデウスだ。アタシがアスモデウスの方を見るとベリーは「なんだよ。せっかくエバちゃんと話してたのに、明日斗タイミング考えろよなー」と不貞腐れたように言った。
「ごめんごめん。仲良くなれた?」
「なれそうだったのにお前がオレらの会話ぶった切って入ってきたんだろー」
アスモデウスがアタシの正面へと座る。それを確認するとスザクが「明日斗さん、何飲みます? 今ミルク割りと紅茶割りならありますけど」と問うた。
「んー、じゃあ紅茶割り」
「了解っす」
返事をするとスザクは素早くグラスに紅茶と酒を注いで混ぜ、アスモデウスの前に置く。アスモデウスはそれを受け取ると「ありがとうスザク。もういいよ」と言った。
「え? もういいって……」
「一回席外してほしいんだよね。……そのほうがいいでしょ? リリちゃんは」
リリはスザクに「ごめんね。アっすんの言う通り、一旦外してくれるかな」と優しい笑顔で言う。いきなりのことに状況を理解できず、スザクは「なんで……」と落胆したような表情を見せる。それを哀れに思ったのか、ベルゼブブが「悪いなスザク。面倒事に巻き込まれたくは無ェだろ」と静かに説いた。
「……まぁ、姐さんが言うなら」
「ごめんねスザク。代わりに四番卓付いてよ。ボク指名の子だけど、この前スザクに場内入れてくれた子だからさ」
「あー、あの子っすか? わかりました」
やや項垂れた様子のスザクが扉を開けて出ていったのを確認し、アスモデウスはアタシたちの方に向き直った。
「ごめんね、お待たせ。ボクに用があるみたいだけど、何かな」
「リリさん、お前に仇討ちしにきたってよ」
アスモデウスの横でベリーが酒を飲みながら茶化して言う。その言葉にアスモデウスは苦笑いした。
「仇討ち? ……具体的にはどういう用件かな? そっちのお二人はお友達かい?」
「………」
沈黙。アスモデウスがリリの機嫌を伺うような面持ちで彼女の顔を見ていると、少ししてからリリが自らが作り出したその沈黙を破った。
「アっすんさー、憶えてるかな。前に『イヴの魂』をアっすんが殺したの」
「……えっと、そっちの二人に聞かせていい話なのかな?」
「あとさー、お前」
リリが爪をパチっと弾いた、その刹那。魂が凍てつくような寒気がする。心臓を鷲掴みにされてじんわりと握り潰されていくような、圧倒的な恐怖。それが隣で脚を組んで座るリリから発せられている威圧感だと瞬時に理解して、アタシはリリの顔を見ることが叶わなかった。それどころかまばたきすら出来ない。してはいけない。髪一本の揺れ、僅かな呼吸音。それすら起爆剤になりかねないような緊張感に襲われる。
アタシの細胞が、本能が、直感が言う。――今このときだけは、隣の大魔女の機嫌を損ねてはならない。――と。
「お前、いつからリリにタメ口利けるほど偉くなったんだよ。なぁ」
「……すみません、リリス様」
恐怖から微かに震えているアスモデウス。今の状況下では、アスモデウスに同情せざるを得なかった。再び室内を冷たい沈黙が包むが、此度の沈黙を破ったのはベルゼブブだった。
「リリ、エバがブルってンぞ。抑えたらどうだ」
「……あ。うわぁ、エバちゃんごめんね? エバちゃんには怒ってないから大丈夫だよー!」
その途端、先程まで彼女から放たれていた冷たい怒りの気配が消失していつものリリに戻る。リリはアタシに抱き着き「ごめんねエバちゃん……大丈夫?」と聞き慣れた甘い声色で言ってくる。
「え、ええ。大丈夫よ」
アタシの顔を見て微笑んだあと、リリはアスモデウスに向き直って「あのとき『イヴの魂』を殺したのは、ルシフェルの指示?」と問うた。その問いを聞いて、我関せずと酒を飲んでいたベリーが改めてアタシを見る。
「……リリさん。オレ最初っからなぁんか違和感あったんですよねー。もしかしてその子、『イヴの魂』ですか?」
ベリーが冷たい悪魔の気配を放つ。アタシが太ももから銃を取り出そうとしたとき、ベルゼブブが酒を呑み干してグラスを置き「血の気が多くて困るなァ、テメェらはよォ」とベリーを睨みつけた。
「……なんだよベルちゃん。キミ、オレらと同類かよ」
ベルゼブブに睨まれたベリーが悪魔の気配を収める。アスモデウスはアタシを見て片眉を顰め、やがてハッとした顔で言った。
「……! 畜生が。リリス様の匂いが強すぎて気が付かなかった。リリス様、そこをどいてください。もう一度そいつを殺しますから」
「質問に答えて、アっすん。ルシフェルの指示だったの? それとも、自分の意志だったの?」
リリが再度問うと、アスモデウスは「は? ――はは、はははは!」と笑い出す。その整った顔立ちには不相応な気色の悪い引き笑いのような息遣いの余韻を引きずりながら、「あいつの指示? んなワケ無いじゃないですか!」と言って続けた。
「魔王だか何だか知りませんが、あいつはソロモンに敗れたボクの序列を八位から三二位に落としやがった! 誰がそんな奴の言うことを聞いてやるものか! 『イヴの魂』を殺した理由ですかぁ? 教えてあげますよリリス様。ボクはルシフェルを、サタンを必ず見下してやると決めているんです。序列を降格されたあの日からずっと、ずっとねぇ……。そこでボクは考えました。力で勝てないなら、他のもので勝ればいい。奴の地位が奪えないなら、大切なものを奪えばいい! そこであなた、リリス様ですよ。サタンの奴が心底惚れているリリス様を奪い見せつければ、あいつはどんな顔をするのか! 想像しただけでも……はははっ! 愉快極まりない! ……なのにそのリリス様は『イヴの魂』に夢中だと言う。ならさぁ、もうさぁ、殺すしかないじゃん? 『イヴの魂』を持つ人間を殺して、熱中するモノが何も無くなったリリス様をボクが奪う、手に入れる! そしてサタンの奴に見せつけるんだ! そうすればあいつ、一言くらい謝るんじゃないかなぁ! ボクに! ボクにボクにボクに! 頭を垂れて惨めったらしく「序列を落としてごめんなさい」ってさぁ! ……ボクはそれが見たいだけなんですよ。だからそれまでは、『イヴの魂』は殺しますからぁ!」
「……つまり、自分の意志ってことだね。分かったよ、アスモデウス」
気持ちが悪い。そう思った。自分の地位が落とされたことへの逆恨み。そのことにアタシの命とリリの存在を利用して、自己顕示欲を満たしたい? ふざけるなよ。アスモデウスが悍ましい笑顔で言う。
「あ〜あ! なぁんだお前。また祓魔師なのか。何度でも殺してやるから、もう全部諦めろよ!」
アスモデウスが悪魔の気配を放つ。冷たく悍ましいその気迫に、アタシは唾を呑んだ。
「はっはっ! やるのか明日斗――いや、アスモデウス! ならオレもやろっかなー。なぁベルちゃん、遊んでくれよ?」
「上等だ、ベリアル。相手してやンよ」
ベリアル―――ルシフェルと共に神に叛逆し、堕天した天使の一人に数えられる大悪魔だ。下劣で不埒な存在とされ、その名は『無価値』を表すとされる。
ベリアルに煽られてベルゼブブが立ち上がる。アタシは太ももから拳銃を取り出して弾倉を確認した。――弾は全弾装填済み。いける!
「……エバちゃん、いける?」
リリが言わんとしていることを察する。――開戦しても大丈夫か――アタシは深呼吸をひとつしてから「……いけるわ」と答えた。
リリがテーブルに指先を落とし、静かに魔法陣を描く。それを見てベルゼブブが「気張れよ、エバ!」と声を上げた。
「殺してやるよ祓魔師! 何度でも、何度でも何度でもボクが殺して奪って、ボクがボクがボクがボクがァァァ!」
「エバ! コイツを連れてけ!」
ベルゼブブが何か小さいモノを投げてくる。アタシはそれを受け取って見ると、紫色の蝿だった。アタシは驚いてそれを投げ返そうとする。
「ちょ、何なのよ!」
「俺ァこっち相手しねェとだからよ! ソイツがテメェに、権能の使い方を教えてくれる! 上手く使えよ!」
「いくよ、エバちゃん!」
リリの声と共に、アタシたちはこの世界から隔絶された。