死ぬつもりなんて、無いっての
――『Lot = Paradise』VIPルーム、結界内。
夜闇を照らすネオンライトをそのままに、窓から見える世界から街ゆく人々が消え失せる。この部屋の外から微かに聞こえていた他の客たちの声も聞こえず、リリの張った結界が正常に展開されていることを示していた。
「なァリリ! もういいよなァ!」
「うん、いいよバブちゃん!」
リリの返事を受け取ると、ベルゼブブを黒い無数の蝿たちが竜巻の如く飛び交い包む。それが晴れると、女性の姿であったベルゼブブの容姿は前に見たガラの悪い長髪の男に戻っていた。
その姿を見てベリアルが声を上げて笑う。
「――は! はっはっはっはっ! なんだよ、ベルゼブブか! 久しぶりだなぁ?」
「よォベリアル。ここじゃやりにくいだろ? 表出ろ」
「言われなくてもそのつもりだ」
ベリアルが窓に向けて指を弾くと、窓ガラスが音を立てて砕け散る。ベリアルはアスモデウスに一言「じゃあオレはベルゼブブと遊んでくるから、お前も楽しめよー」と言ってアタシたちに背を向けヒラヒラと手を振りながら夜風が舞い込む割れた窓へと歩いていった。
「よし、いくかァ――!?」
「いこう――ぜっ!」
ベリアルはベルゼブブの胸ぐらを引き掴み、強引に窓の方へと投げつける。壁は砕け、そのままベルゼブブは外へと投げ出されてしまう。ベリアルも「油断してんじゃねーぞー。ははっ!」と笑いながら外に飛び降りて行った。
「勝手だなぁ。……まぁいい。『イヴの魂』なぞ、ボク一人で十分。大人しく殺されてくれるなら、ボクが優しく――」
「黙りなさい」
アタシはアスモデウスの額に照準を合わせて引き金を引く。が、弾は躱されてしまう。
「……あ、そう。ボクが慈悲をかけてあげてるのになぁ……あー、ムカつくなぁ!」
アスモデウスがテーブルを踏み砕き、割れて半円状になったテーブルで視界が塞がれる。窓の方に大きく避けたリリの「エバちゃん! ドアの方!」という言葉を聞いて、アタシはリリとは反対にドア側に回避した。
テーブルの破片ごと殴りつけるアスモデウスが、勢いのまま壁を打ち破った。
「避けるなよイヴぅ! ボクの拳を避けるなぁ! あとリリス様! 邪魔をしないでください!」
崩れた壁の瓦礫から突き刺さった拳を抜き、アスモデウスは踏み込んで一気に距離を詰めてはリリを殴り飛ばす。リリの短い呻き声が聞こえてアタシは思わず「リリ!」と叫んだ。
リリは殴られた勢いで外へと弾き出されてしまう。不味い、ここは二階だ。アタシは瓦礫を踏みつけて駆け、後の事など考えずに頭から落下していくリリ目掛けて飛び込んだ。
「リリ!」
「エバちゃ――ちょ、何考えてんの!?」
アタシは宙でリリの腕を掴んで自分の方に引き込む。抱き抱えるようにして強引に身体を捻り、アタシが下側になるように回転した。アタシが下敷きになればリリを守れる。あ、でもコレ、アタシが不味いんじゃ――
「もう! こんの……!」
リリを抱えて落ちるアタシの背が道路のコンクリートに叩きつけられる寸前、アタシたちは空中に静止する。そのままゆっくりと降下してアタシは背中からふんわりと着地した。
街灯に照らされて大きな影が見え、リリの背に目を向けると彼女の背から一対の大きな黒い蝙蝠の羽が生えていた。アタシがリリを抱く腕を緩めるとその羽はギシギシと軋みながらリリの背に収まっていく。
「ん……もうホントに! バカなのエバちゃん!」
リリがアタシに跨ったまま起き上がって言った。アタシは「そういえばアナタ、大丈夫だったわね……」と呆けてしまい、取り敢えず二人とも無事だったことに安堵した。
「リリは落ちても飛べるから良いけど、エバちゃんは飛べないでしょ! ……もう」
「ごめんなさい、リリ」
リリの手を借りて起き上がりながら、アタシはリリに謝った。呆れた顔でため息をつくと上を指さして「来るよ」と言う。
「落ちてそのまま死んどけよなぁぁ!」
アスモデウスが飛び降りてくる。アタシは回避しようと足を引く。その時――
「――契約者。手を奴に向けて『喰らえ』」
声がした。一瞬困惑したが、惑うよりも先に身体が動く。アタシは声の通りに落ちてくるアスモデウスへ手を向け、噛み切るイメージで指を握った。
「!? ――おいマジかよ!」
宙でアスモデウスは身体を捻り、やや横に逸れる。だがアタシの手の直線上には片足が残っており、逃げそびれたその足はまるで何かに齧り取られたように膝から下が消失した。その衝撃か、アスモデウスは呻き声を上げながらバランスを崩してコンクリートに叩きつけられるように落ちる。
消失した足の先は血が流れ、乱暴に食い千切られたような形をしていた。
「これって……」
「――初めてにしては上出来だ、契約者」
また声がする。右肩を見ると、ベルゼブブが投げてきた紫色の蝿がアタシの肩に乗っていた。
「あ、アナタは?」
「私はベルゼブブの眷属である。此度、契約者である貴様に権能の使い方を指南する役を仰せつかった。音声案内によって権能の使用方法を教える小型デバイスだと思えばいい」
「な、なるほど。分かったわ」
「痛え……痛えなぁもう……クソッタレがよぉ……」
アスモデウスがフラつきながら立ち上がる。アタシがベルゼブブの『暴食』で喰らい千切った脚をそのままに片脚で立つアスモデウスが言った。
「ベルゼブブの野郎と契約してやがったか……人間風情が小癪なぁ……」
「エバちゃん、ここからだよ」
「分かってるわ」
アスモデウスが左手の親指を自身の首の傷痕に当て、そのままゆっくりと切り裂くように傷痕をなぞり横に滑らせる。すると、傷痕と同じく連なった十字がアスモデウスの前に赤い大きな紋様として浮かび上がった。
「マジで殺す。……この姿は中々キメぇから出来ればやりたくねぇが……権能が使える相手なら仕方ない。本気で殺してやる」
アスモデウスが指を弾く。赤い十字の紋様は逆さ十字になり、突き刺さるようにしてアスモデウスの首に戻った。そのまま回転し、アスモデウスの首から血が撒き散らされる。
「はは、ははははは! いくぞ祓魔師! 大悪魔たるアスモデウス様にひれ伏すが良い―――!」
逆さ十字の回転に呼応して噴き出す血液が火柱に変わる。アスモデウスは天高く昇る大きな火柱に包まれながら笑っていた。
「アレは……何をしているの?」
「……エバちゃん。コレから出てくるのがアスモデウス本来の姿。ビビらずに祓うんだよ」
アスモデウスが呵々大笑する火柱から悍ましい地獄の亡者たちの呻き声が響き渡った。啜り泣く声、苦悶に叫ぶ声、罵る声、怒る声――それら全てが不整合に混ざり合った阿鼻叫喚の出囃子が夜の街を劈いた。
火柱が晴れる。アタシはあまりの大きさに顔を見上げずにはいられなかった。
「何よ……アレ」
アタシは絶句する。火柱が晴れて現れたのは、山羊と獅子の首を両肩に持つ四本腕の巨人。三階建てのビルを優に越すその頭には錆びた王冠を頂き、腰から下は黒ずんだ赤い鱗が連なる四足歩行の竜であった。
「『色欲』と『破壊』の竜王、アスモデウス様の完全顕現である! ひれ伏せ。ひれ伏せひれ伏せひれ伏せボクにぃぃぃ!」
アスモデウスが叫ぶ。近くにある建物のガラスはその音圧に砕け、空気は肌身に分かるほどビリビリと揺れていた。
「エバちゃん。リリが言っておいてアレだけど、さすがに完全顕現したアスモデウスを一人でっていうのは難しいよね。バブちゃん呼んでくる」
「……やるしか無いんでしょ。やってやるわよ」
正直、今すぐ逃げ出したい。いくらベルゼブブの権能があるとはいえ、こんな規格外の怪物にアタシが勝てるわけがない。それでも、やるしかないんだ。アタシはリリを殺す。そう約束した。なら、上位悪魔くらい祓えずにどうするんだ。
気張れ、エバ・ヘヴンラック! ――そう自分を鼓舞して、アタシはリリに言った。
「行って、リリ。出来るだけやってみるわ」
リリが心配そうな顔で何かを言おうとするが、すぐにその言葉を呑んで一言「死なないでね、エバちゃん」と拳を突き出してくる。
アタシも拳を突き出してリリの拳と合わせ、「死ぬつもりなんて、無いっての」と笑ってみせた。
「うん。うん! なる早でバブちゃん呼んでくるから、頑張って!」
「任せときなさい!」
リリがベルゼブブたちがいるであろう方向に駆けていく。その背を見送り、アタシは眼前の巨竜に向き合った。
「……話は終わったか? 祓魔師イヴ」
「またイヴ、ね……。アタシはエバ・ヘヴンラック。憶えておきなさい」
「それでも、『イヴの魂』であることは変わらないだろう? なぁ、イヴ」
また『イヴの魂』という言葉が出る。アタシは今まで会った悪魔たちにずっと問いたかったことをアスモデウスに問うた。
「その『イヴの魂』って何なの? アタシの前世は、何だったのかしら」
アタシが問うとアスモデウスは「は? 聞かされてないのか?」と呆ける。が、すぐに「どうせ今世のお前も、一つ前と同じくここで終わりだ。ボクに殺されて終わりなんだから、知る必要なんて無いだろ」と身体をバイクのウィリーが如く傾け、下半身の竜の前脚を大きく上げた。
「来るぞ契約者。まずは距離を取れ」
肩上で喋るベルゼブブの眷属に従い、アタシは振り返ってアスモデウスに背を向け、全力で走り出す。
「どのくらい離れればいいわけ?」
「可能な限りだ。――契約者、跳べ」
アタシは考えるより先にアスファルトを蹴ってその場でジャンプした。アタシの脚が地面から離れてすぐに、後方から地鳴りのような轟音が響く。大地が揺れていた。揺らぐアスファルトに着地して振り向くと、アスモデウスが前脚で踏みつけた地点からアタシのすぐ後までアスファルトに亀裂が入っていた。
「逃げるな、イヴ!」
「ちょっと規格外どころじゃないわね。……ねぇブブ」
肩の眷属に勝手に名前を付けて呼ぶ。ブブはすぐに「ブブ。それは私の名か?」と問うてきた。
「ええ。ベルゼブブの眷属だからブブ。駄目かしら?」
「構わない。私はブブ。名前を記録した。私も契約者のことをエバと呼ぼう」
「それでいいわ。……ねぇブブ。さっきやった『暴食』の権能、コレを弾丸に付与することは可能かしら?」
アタシが訊くとブブは思考して「可能だ」と答えてくれる。それを聞いてアタシは、大地を揺らしながらこちらへ歩んでくるアスモデウスに銃口を向けた。
「エバ、まずは脚を落とすことをおすすめする。撃ち抜き、消し飛ばすイメージだ」
「分かったわ――!」
拳銃の射程距離内にアスモデウスの前脚が入った瞬間、アタシは引き金に掛けた指に力を込める。放たれた弾丸が左の前脚を貫き、すぐに前脚が先刻と同じように消失した。
「ぐぁぁぁぁぁぁぁ! またボクにベルゼブブの権能を使ったなぁぁ! クソがクソがクソがクソがクソがぁぁぁ!」
喚くアスモデウスの姿勢が崩れた。アタシはコレを機と見て駆けて詰め寄り、もう片方の前脚に銃弾を撃ち込んだ。ベルゼブブの『暴食』を付与した弾丸はすぐに脚を喰らい、またも呻きと共にアスモデウスの姿勢が崩れる。
「許さない、許さないぞ人間ンンン!」
前脚を失くしたことにより前傾姿勢になったアスモデウスが、その姿勢のまま乱雑にアタシを殴りつけてくる。アタシはそれを何とか回避するが、拳の雨を避けきった後でアスモデウスは後ろ脚を踏ん張って竜の下半身で体当たりしてきた。
アタシはそれを躱せずに吹き飛ばされてしまう。
「あぁっ……!」
骨が砕ける音がした。痛みに浸る間もなく十メートル近く吹き飛ばされ、交差点の標識に背中から打ち付けられて止まる。身体を起こそうとしたとき、背中に厭な冷たさと胸元に激しい熱を感じた。脈拍が強く鼓膜を叩いて頭が痛い。それでも無理矢理立ち上がると、アタシは血を吐いて膝から崩れ落ちた。
あぁコレ、肋骨とどっか内臓いかれてんな……。身体に上手く力が入らない。戦わなきゃならないのに。
「意識を強く持てエバ。貴様は一撃で死なない限り、死ぬことは無い」
ブブの声がしたかと思うと倒れるアタシを中心として魔法陣が展開される。麦のような紋様を拡げた魔法陣に包まれると、アタシの身体中を苛んでいた痛みが一瞬で消えた。
ベルゼブブの『豊穣』の権能だ。『豊穣』が発動し、アタシの受けた傷は全て癒やされる。まだ戦える。まだ生きてる。なら――
アタシは立ち上がって銃を拾い、弾倉を開けて空いたところに新しく弾を込めた。
「何故、何故何故何故生きている! 骨を砕いた感触はあった! あの勢いで吹き飛べば人間は死ぬだろう!」
前身を這いずって進んでくるアスモデウス。アタシは口の中に残る血痰を路肩に吐き捨てて、アスモデウスへ銃口を向けて叫ぶ。
「こんなところで、死んでられないのよ!」
「ならボクが死ぬまで何度でも殺してやるよ聖女がぁ!」
アスモデウスが拳を振り上げた時、アタシは振り上げられた腕を目掛けて引き金を引いた。




