真実を受け入れる用意
「……昨日、エーダさんと話していたんですけど」
「知ってる」
「知ってるんですか?ノアさん爆睡だったじゃないですか」
「人が動いた気配で起きる。寝間着で出て行くところなんて宿内しかないだろ。この間も話していたみたいだし」
「おお、名探偵」
ということはちょっと待ってほしい。もしかしてノアは緋彩が髪を拭いてやったことも、シャツのボタンを締めたことも、いろいろ呟いたことも知っていたというのか。あれ全部起きていたというのか。狸寝入りにもほどがあるし、そのことに一切触れてこないのが怖い。
とりあえずは触らぬ神に祟りなしだ。今は敢えて自分から墓穴を掘ることもないと、緋彩は話を戻す。
「それで、ですね…、エーダさん、何年も前に息子さんを亡くしてるみたいんです」
「…ああ、そう」
他人のプライバシーに関わるようなことを、本人の知らないところで勝手に話すというのは気が引ける。心なしか緋彩の声は小さくなるが、ノアの方は至極淡白に頷くだけだった。きっと緋彩が実は男なんですという衝撃的暴露をしたとしても同じ返事なのだろうと思う。
「息子さんは、すごく可愛くて、エーダさんの自慢の子だったみたいなんです。写真も見せてもらったけど、本当に天使みたいに可愛い子でした」
愛らしい容貌とキラキラとした笑顔。写真だけでも伝わってくる朗らかな雰囲気は、きっと周りから愛されていたのだろうと思った。そんな彼を愛していたエーダの姿もまた、容易に想像できた。喜んだり怒ったり哀しんだり楽しんだり、穏やかな日々を過ごしていたのだろう。
だけど、写真だけでは伝わらなかったのだ。
彼のその時の闇までは。
「…昨日、名前を聞いたんです」
「それが?」
それがどうしたとなるのはノアだけではなかっただろう。
名前は一人に一個、親から与えられた大事なものだけれど、知らない限りは誰にでもあるものだから、あまり特別だと認識はされづらい。
だけど、名前とはそれを特定するのに重要なもの。
周りの喧騒にかき消されそうな緋彩の声は、震えてそれを特定するための言葉を紡ぐ。
知っている者だけに伝わる名前は、きっと特別なものだ。
「息子さんの名前、アラムと言うらしいんです」
「────…!」
温まっていた緋彩の手は再び冷たくなり、唇は僅かに震えて赤みを失う。
ノアはピクリと眉を動かしただけではあったが、リアクションの薄い彼からすれば、それでも充分な反応だった。
周りは変わらず、楽しそうな声と食器とシルバーがぶつかる音。足音と椅子が軋む音も混ざりあって、騒がしいながらも賑やかな雰囲気がエーダが営む宿の象徴とも言えた。
その中で緋彩とノアだけが、全くついていけていない。同じように食事をし、同じように会話をしているのに、まるで世界が違うかのようだった。
「…エーダのファミリーネームは?」
「………ロギノヴァ、です」
念の為なのか、信じたくなかったのかは分からないが、ノアは確認した情報により眉を顰めた。
同姓同名、この世界でも有り得ない話ではないのだけれど、よくある話とは言えない。エーダが緋彩に見せた写真は、二人が知っているガンドラ教のアラムとは全く違って見えるけれど、言われてみれば面影はあるのだ。
髪に残る癖毛や、左半分だけになってしまったが、中性的な顔つきは美貌とも言えた。写真の子どもが年齢を重ねたら想像できない姿ではない。
別人にするには、条件が整いすぎていた。
「…私、信じたくなくて。エーダさんがあんなに愛していた息子が、あいつだなんて」
「まだ決まったわけじゃないだろ」
「でも…!これはさすがに否定する方が難しいです!信じたくないけど…っ、…希望と真実は別物でしょう?」
「…………」
いつもは殆どノアに言い負かされる緋彩だが、青白い彼女の顔と正論に何も言えなくなったのか、今回はノアの方が黙った。
ただ、偶々泊まった宿の女将の息子が自分たちの敵だった。家族に裏切られたわけでもあるまいし、エーダがショックを受けるなら分かるが、緋彩がそんなに必死になることなんて何もない。夜も眠れないほど動揺し、それを隠せないくらい考え込み、まるでエーダの代わりに胸を痛めているなんて、馬鹿らしい。
だが、これが緋彩だった。
「……とにかく、お前は一旦寝ろ。寝て落ち着け。どんなに信じられないことがあっても、真実は変えられない。変えられないのなら真実を受け入れるしかないんだ」
真実を受け入れるための気力を取り戻せとノアは冷たく言い放った。
いや、
冷たく感じたのは多分、緋彩自身の問題だ。
どんな言葉も厳しく感じてしまうのは、きっと寝不足な所為だと、大人しくノアの指示に従った。