誠実と几帳面
ぐっすりとまではいかないけれど、緋彩は目の充血と隈が治まるくらいまでには睡眠を摂ることが出来た。
こんな気持ちのままゆっくり眠れるもんかとも思ったが、だったら身体的に眠れる状況を作れとノアに腹筋、背筋、スクワットを五十回ずつ強いられた。お陰で気絶するように寝付くことが出来た。感謝はしていない。
二回目のチェックアウトを済ました時には、緋彩はなんとかエーダの顔を見ることが出来るまでにはなっていた。笑えていたとは思うけれど、ぎこちない笑顔はもしかしてバレていたのかもしれない。
気持ちのいい別れとは言えなかったけれど、エーダは最後まで親切にしてくれて、またおいでと言ってくれた。また来る時は、ちゃんと笑えていればいいと思う。
宿を出た後は、物資補給の為に街をぶらついた。荷物持ちは変わらず緋彩である。
「それで、これからどうするんですか?またあの地下に行ってあいつらを追いかけます?」
「いや、割と使える情報は手に入ったし、これ以上無闇に追いかける理由はない。他にも有益な情報を握っている可能性も否定しきれないが、追いかけるにしても場所がバレた以上、もうあそこに奴らはいないだろう」
「でも、あの人たち不老不死を解くのに必要なアクア族の血、持ってたじゃないですか。あれがあればあとは法玉っていうのを見つけるだけなんでしょう?」
あの時ノアはアラムが手にしたものなどいらんわ、と言っていたけれど、背に腹は代えられぬと思うのだ。貴重なアクア族の血、今後手に入るとも分からない。緋彩としては、意地など張らずにもらってしまった方が目標達成への近道ではないのかと思っている。
「あいつが命を永らえるために、胸が悪くなる薬を作るために保存していた人間の血だぞ。持ち主の意思がそこにあるかどうかも分からないのに使えるか」
「…そう…、ですよね」
ノアは意地悪だけれど、やはり人の心は誰よりも持っている気がすると緋彩は思う。たまに、こうして有無を言わせない発言をする時がある。威圧感というものではなく、自分がなんて浅はかな考えを持っていたのかと考えさせられる時があるのだ。
何も言えなくなった緋彩が小さい呟きを漏らすと、その頭に無感情の視線が降る。
「…目の前のものに衝動的に飛びつくと後悔する。気持ちは急くだろうが、もっと全体を見通せ。永遠の命は、そういう分では有効に働くだろう」
限りのない命というものを、必ずしもネガティブに捉える必要はない。確かに緋彩とノアは不老不死の苦痛を共有しあえるけれど、それは決して悪い状況に向かうだけではなのだ。課せられた運命を受け入れるだけの気力が、この呪いのかかった身体には必要だとノアは緋彩より知っている。
「そう…ですね。早く呪いを解きたいのは山々ですけど、どうせならこの不死の身体を利用してやればいいんですよね!」
「こっちから言っといてなんだが、余計なことはするなよ…?」
「大丈夫です!余計じゃない目標が出来ましたので安心してください!」
「早速不安なんだが?」
拳を作って意気込む緋彩に、ノアは余計なことを言ったかもしれないと頭を抱えた。
そして、顔を覆った手の隙間から目を爛々と輝かせる緋彩をちらりと見、彼女の額に指を伸ばしてバチンと弾く。
「いった!なにす…っ」
「まあ、元に戻ったんならいーよ」
「!」
にこりともしない口元、冷めた目線、愛想のない口調、容赦のないデコピン。何も優しさなど感じないけれど、そこに込められた彼の温かみに、緋彩は目を瞬かせたのだった。
***
緋彩がこの世界に来てから、もう服を買うのはもう三回目だ。着替え用ではない。そんな贅沢が出来たらどんなにいいかと思うが、仮に出来たとしても緋彩自身の荷物が増えるだけなのは分かっている。買い物は必要最小限にしているはずなのに、こんなにも服を買い直さないといけないのは、文字通り着られなくなってしまうからだ。鮮血に染まっているだけならまだしも(そういう柄だと思い込む)、破れて夏服にしようにも風通しが良すぎる。これだから女は隠すところが多くて困るという考えが僅かに生まれたが、そういうことでもないとすぐに思い直した。
「ちょっとノアさん!もうちょっと私を隠してくださいよ!」
「人を目隠しに使っておいて文句言うな。早くしろ」
「ちょちょちょちょっと待ってくださ…わ、パンツ見える!」
アラムにやられた際に破れた緋彩の服は、新しい服を買うまで何とかノアの上着を羽織ることで隠していた。いい加減上着を返せとノアに言われて、剥ぎ取られる前に緋彩は慌てて服を買ったのだが、なんせ着替えるタイミングがない。どこか店のトイレでも使って、とも思ったが、生憎昼時でどこも混んでいて、街中は人通りが多くて人目を凌ぐところなど殆どない。困った末に行きついたのは、建物の間の狭い隙間で、ノアに無理矢理目隠しになってもらって着替えるという荒業だ。ノアには壮絶に嫌な顔をされたが、通りの真ん中でノアの名前を呼びながら着替えるぞと脅したら渋々目隠しとなってくれた。やるわけないのに、緋彩ならやると思われているのだろうか。
「っと…、終わりました。ありがとうございます」
「………」
「…?…何ですか?」
襟のボタンは第二ボタンまで外している。学校の制服もそうしているから、最後まで締めると何だか勝手が悪いのだ。
すると、ノアの訝し気とも言える視線が、逆光となった視界から落ちてきていた。建物の壁とノアの陰となった閉鎖的な空間で、彼の瞳の光だけが明るい。
睨まれているとも思える目に、緋彩は意味もなく謝りそうになったが、それよりも早くノアの手がぬっと伸びてきた。別に悪いことなどしてもいないのに、ノアの圧が強すぎて反射的に殴られると思い、思わず目を強く瞑った。
「なに目閉じてんだ」
「────…、…?」
呆れを含む声色に目を少しずつ開けると、ノアの手は緋彩の襟元にあった。殴るでも叩くでも抓るでも弾くでもなく、緋彩がわざと開けていたボタンをきっちり首元まで締めていた。
「…ノアさん?何ですか…?」
「開いてたから」
「……いや、開けてたんですけど」
「何で」
「何でって、苦しいから」
「じゃあもう少し大きいサイズを買え。もしくは違うデザインの服を買えばいいだろう」
「………はい?」
服のサイズはぴったりだし、服のデザインはノアの意見も訊いて選んだものだし、わざと開けているボタンを何故無言で締めだしたのか、全く何が何だか訳が分からなくて、緋彩は盛大に眉を顰める。開いていると締めたくなる病気だろうか。それにしてはノアのシャツのボタンだって第二ボタンまで開いているし、他人のを締める前に自分のを締めてほしいと思う。
「あ、あの、ノアさん、苦し…」
「じゃあせめてここまでは締めてろ」
ノアは一度は締めた一番上のボタンを外し、適当に緋彩の襟元を整える。時々肌を掠める彼の手の体温がくすぐったい。
違和感はあるけれど、苦しくはなくなったのでいいか、と緋彩はこの辺で妥協した。
「わ、分かりました、けど…、何で?」
「パンツ隠すんならこっちも隠せよ」
「………は?」
緋彩は今度こそノアの言っていることが分からなくなった。表情の変化も乏しいので、どんな感情で彼がそれを言っているのかも分からない。
目を瞬かせているうちに、ノアは身を翻して人の流れに混じってしまった。慌てて後を追いかけるが、ノアからそれ以上の言葉はなく、彼が何を考えていたのかは結局分からずじまいだった。




