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月に喘ぐ  作者: sadaka
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血色の和平(14)

 初めて攻めに転じた赤月帝国が国内から敵を追い払った後も、大聖堂(ルシード)軍は相変わらずかげろうの森の外に展開していた。だが前回の衝突がよほど堪えたのか、彼らはそこから先へは足を踏み入れようとしない。会戦当初と何も変わらない現状は長期戦の様相を呈していたが、それでも赤月帝国の城下街には活気が戻っていた。

 勝ち戦の後、多くの国民と同じようにサイゲートも元の暮らしに戻っていた。だがしばらくは敵に蹂躙された街を復興させることが最優先であり、本業はおあずけである。そういうわけで、サイゲートは一日中街を駆けずり回るようにして復興に助力していた。そんな彼が忙しい合間を縫って白影の里を訪れたのは、海雲が回復したという話を耳にしたからである。サイゲートが訪れたとき白影の里はまだ臨戦体勢のたまだったが、警戒が厳しいわりに里は静まり返っていた。復興に奔走する人々が忙しなく行き交う街とは違い、白影の里では屋外で人の姿を見かけることはあまりない。しかしそれは初めてこの場所へ足を踏み入れた時からのことであり、サイゲートは静けさを厭うことなく海雲の屋敷へと歩を進めた。

 護衛も監視も伴わずに海雲の屋敷を訪れたサイゲートは、そのまま彼の私室を目指した。屋敷の中も、奥まった場所にある海雲の私室も、里と同じく静まり返っている。サイゲートが控えめに声をかけながら襖を開けると、海雲はまだ床に就いたままでいた。しかし眠っているわけではなく、彼はサイゲートを見上げている。

「懐かしい顔だな」

 サイゲートの姿を見るなり、海雲はそんな言葉を零した。まだ血の気が戻っていない彼の顔は、相変わらず白い。サイゲートは枕元に腰を下ろしながら頷いて見せた。

「オレもそう思う」

 実際、別人かと思うほど海雲の顔は変わってしまっていた。やつれて、一気に歳をとってしまったようだ。だが痛々しいという顔はしたくなかったので、サイゲートは平素と同じ調子で言葉を紡ぐ。

「元気になったって聞いたんだけど、まだそんなに良くないのか?」

「痛みはしないんだ。ただ、血が足りない」

「分けてやろうか?」

「遠慮しとく。スグスネル病を伝染(うつ)されたらたまらん」

「スグスネル病?」

「すぐ、拗ねるだろ?」

「……それだけ元気なら大丈夫だな」

 床上にありながらも海雲の悪態が健在だったのでサイゲートは呆れた顔をした。サイゲートにそういう表情をさせることが目的だったのか、海雲は低い笑い声を漏らしている。海雲の反応を見たサイゲートも苦笑を零したが、それ以上は会話が続かなかった。お互いに黙り込んでしまったので室内には沈黙が流れる。

「言わないんだな」

 しばらくの後、サイゲートが触れられなかった話題に海雲が口火を切った。サイゲートは嘆息し、小さく肩を竦める。それは、束の間でも平穏を手に入れてしまうと考えないわけにはいかないものである。忙しなく動き回っているサイゲートよりも海雲の方が顕著なのだろうが、どうしようもないことだった。

「言っても、仕方ない」

 大聖堂の本拠地で何があったのかサイゲートには知る由もないが、海雲はアゼルが生還出来なかったことに責任を感じている。しかし誰も、海雲を責められないのだ。サイゲートがそうであるように、おそらくは王も彼を責めなかったのだろう。責められた方が楽だろうとサイゲートが考える以上に、海雲は苦しんでいるに違いない。

「元気になったら、またケンカしよう」

 サイゲートには稚拙な冗談を言うことくらいしか出来なかったが、海雲は少しだけ笑ってくれた。横たわっているせいかその微笑みは弱々しいものだったが、彼はいずれ蘇るだろう。先立ったアゼルの分まで王の佑けにならなければと、考えているはずだからだ。

「もう、帰るのか?」

 サイゲートが立ち上がったのを見て海雲は上体を起こしながら尋ねてきた。無理をしないよう釘を刺してからサイゲートは頷く。

「壊された家を直さないと。それに見回りや、子守なんてのも押し付けられてる。いそがしいんだよ」

「……それは難儀だな」

「早く元気になって手伝ってくれよな」

 サイゲートがわざとらしく作った満面の笑みで言うと海雲は嫌そうな顔をした。子守はちょっとなどとぼやいているので、サイゲートは声を立てて笑う。苦笑いをするしかないといった風の海雲にもう一度だけ釘を刺してから、サイゲートは別れを告げた。

 短い滞在時間で海雲の家を後にしたサイゲートはそのまま、街へ戻るために彼岸の森へと向かった。白影の里の周囲に広がる彼岸の森はかげろうの森の一部だが、人為的に侵入者を遠ざけているので通常の森とは一線を画すために別称が用いられている。だが足しげく白影の里へ通ううち、サイゲートは何となく罠を回避する術を身につけてしまっていた。だから労せずに、彼は彼岸の森を抜けられるのである。

 サイゲートがその異変に気が付いたのは、白影の里からの帰り道だった。どこかから、強烈な異臭が漂ってきている。あまりの臭いに鼻をつままずにはいられず、サイゲートは足を止めて顔をしかめた。

(なんだ?)

 気分が悪くなるほどの異臭は森で食い散らかされた動物の死体を目の当たりにした時のような感じだが、それよりも遥かに強い。そしてまだ雪融けすら始まっていない冬の森で、そのような腐臭に出くわすことは異常である。胸騒ぎを感じたサイゲートは腐臭の原因を突き止めようと思い、森の中を彷徨ってみた。そうして目にした光景に、サイゲートは鼻をつまむのも忘れてあ然とする。冬でも凍ることのない川沿いに、動物の死骸が群れを成していたのだ。

(何が……)

 もがき苦しんだ跡のある動物の死骸から視線を移し、サイゲートはハッとした。最悪なことに、ここは川べりなのである。もしも、水を飲んだ動物が死んだのだとすれば……。

(確かめないと)

 後先を考えるほどの余裕はなく、動物の死体を踏み台にして川へ寄ったサイゲートは水をすくってみた。手が痺れるほどに冷たい水は無色透明であり、それ自体には変化は見られない。憶測が事実であると確かめるには実際に水を含んでみるより他なく、サイゲートは躊躇しながらもすくった水を飲み下した。

 川の水が体内に入ってからしばらくは、何事もなかった。だが次第に吐き気がこみあげてきて口元を手で覆う。霞み始めた視界を定めようと頭を振り、腹の底からこみ上げる嘔吐の衝動と闘いながら、サイゲートは急いで元来た道を引き返したのだった。







「倒れた?」

 ついさっき帰ったはずのサイゲートが戻って来たという報せがもたらされ、海雲は眉をひそめた。しかもサイゲートは、里へ着くなり倒れこんだのだという。そんな話を耳にしてしまえば寝ているわけにもいかず、海雲は寝所を抜け出して表の方へと向かった。

 白影の里の外れで倒れたサイゲートはすぐさま、海雲の屋敷へと連れられて来ていた。屋敷の出入り口に近い客間では医療班に所属する者達の姿があり、サイゲートを介抱しているようである。海雲は膝立ちになっている医療班の上からサイゲートの様子を覗き込んだ。

「意識はあるのか?」

 医療班にそう声をかけたものの、海雲は返答を待たずに答えを得てしまった。仰向けに倒れているサイゲートは全身を痙攣させており、その症状が何を意味するのか彼は知っていたのである。

(毒、か)

 海雲は以前、サイゲートに即効性の毒が入った小瓶を手渡した。その小瓶を干さずに少し含んだくらいがサイゲートの症状に当てはまるのだが、彼が自ら毒を含んだとは思えない。そんなことをする理由がないからだ。ならば何故、サイゲートがこんな状態に陥っているのか。そう考えた時、海雲は嫌な予感が押し寄せてくるのを感じた。

「み……」

 体を痙攣させているサイゲートは必死で言葉を紡ごうとしていたが、舌が痺れてしまっているのか聞き取り辛かった。また声もあまり出ていなかったので、海雲はサイゲートの口元に耳を寄せる。そしてようやく、『水』という単語を拾った。

「……み……か、わ……」

 サイゲートが水を欲していると思った海雲は医療班の意見を聞こうとしたのだが、彼が再び紡ぎ出した言葉で本当に伝えたかったことを理解した。『みず』と『かわ』。この二つの単語とサイゲートの状態を合わせて考えると、最悪の事態が形になっていく。

「里の者を集めろ。水源が、やられた」

 体調不良とは別に精神的な衝撃からくる眩暈に悩まされながら、海雲は立ち上がった。サイゲートを医療班に託し、自身は配下への指示に走る。そうして、もたらされた情報に誤りがないことを確認してから、海雲は王城へと急いだのだった。

 赤月帝国唯一の水源が毒に侵された。サイゲートが身を挺して白影の里へ持ち込んだその情報は、夥しい数の動物の死骸と街に溢れる重病人によって証明された。どの地点で毒が混入されたのかは分からないが、こうなってくると街全体に堀を巡らせたことが裏目に出たと言う他ない。消火と防護のための堀が、結果的に被害を拡大させてしまったからだ。

(ここまで、するのか)

 今まで感じたことがない恐怖を覚え、海雲は青褪めずにはいられなかった。謁見の間にて対面した王も同じ気持ちのようで、顔色が悪い。水源に毒を混入するという卑劣な手段は、例え人間が住めなくなったとしても赤月帝国を手に入れるという大聖堂(ルシード)の意思表示だ。ここで何とか抵抗しても、次はもっとえげつないことをされるかもしれない。

「……海雲よ」

「何も、思い浮かびません」

 口火を切った王の言葉を遮り、海雲は力なく首を振った。このまま戦い続けることを選択すれば多くの人が死に、この地も死ぬ。どう考えてみても、もう無理だった。

「彼等の出す条件を全面的に呑む。それで、良いな?」

「……はい」

「……結局、護りきれなかったのだな」

 独白を零して王は天を仰ぐ。長期化すると思われていた赤月帝国と大聖堂の戦争は、その瞬間に幕を下ろしたのだった。

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