まもりたい(9)
堀の工事も無事に終了したので、サイゲートは樵の仕事に戻っていた。近頃は日中に太陽が出ていても風が冷たく、気温が上がらない。そして今日は森で斧を握る手が、一段と冷たかった。
(……?)
ふと、何かが視界をよぎったような気がしてサイゲートは顔を上げた。薄日に照らされた白い曇り空からは、ひらひらと小粒が舞い降りてきている。
(どうりで、寒いと思った)
斧を振るう手を休めたサイゲートは凍えそうな両手に息を吐きかけた。呼気もまた白く、曇天に上っていく。
空から舞い落ちて来る頼りなげな白い粒が量を増すと、森に入れないくらいに降り積もる。それが赤月帝国の冬なのだ。
この日、赤月帝国に冬の訪れを告げる初雪が降った。
初雪の到来と共に赤月帝国は白く染まった。進路を雪に阻まれた大聖堂軍はもう、春の雪解けまで進軍して来ないだろう。念のための監視は怠らずにいるが、雪が森を染めたことで海雲もようやく一息ついていた。
「痩せたな」
久し振りにアゼルの元を訪れると、顔を合わせるなりそんなことを言われた。海雲は苦笑いを零しながら王城にあるアゼルの私室へ進入する。
「戦が終われば元に戻るさ」
「雪に閉ざされたのだ、もう少し気を休めても良いのではないか?」
「そうも言っていられない。自然とは、気まぐれなものだからな」
雪の多い赤月帝国では毎年、何かしらの雪害が発生する。戦とは別に、これからは自然災害にも備えなければならないのだ。海雲がそのことを伝えるとアゼルも真顔に戻って頷いた。しかしすぐ、アゼルは表情を崩す。
「今日は、時間があるのか?」
「至急の連絡が届かなければな」
「だったら街へ行かないか? 紹介したい人物がいる」
アゼルは以前にもそんなことを言っていたが、海雲が特に用事もなく訪れる機会を待っていたようだった。アゼルには海雲の知らない友人も多いが、彼が誰かを紹介したいと言い出すことは稀である。アゼルにそれほど気に入られた人物とはどんな奴なのか、興味を抱いた海雲は頷いて見せた。
「いいだろう。ちょうど街の様子も見たいと思っていた」
「では、さっそく行こう」
思い立ったら即行動に移すのがアゼルであり、彼はさっそく外套を着込んでいる。外からやって来たばかりの海雲はアゼルの支度の早さに呆れた。彼は扉の所に佇んでいた海雲の脇を通り過ぎ、もう廊下に出ているのである。海雲も後を追い、先を行くアゼルの背中に声を投げた。
「街へ出る前に、姫にも挨拶しておかないとまずいだろ」
「やめろやめろ。街へ出るどころではなくなる」
振り向きもせずに言うアゼルはどんどん歩を進めて行く。海雲は進行方向とは逆を振り向いたが、アゼルが歩みを止める気配もなかったので仕方なく後を追った。
「これからは今までのように外出できなくなるな」
堀に掛けられた橋を渡っている時にアゼルの日頃を思い出した海雲は何気なく声をかけてみた。戦が始まる前までは、アゼルは供回りも連れずに街へ出かけていたのである。だが堀のせいで交通路が限られてしまい、橋を渡らなければ街へ行くことが出来なくなった。今までのように城を抜け出すのは困難なはずだが、アゼルは何とも思っていない様子で平然と応える。
「なに、抜け道を使えばいいだけだ」
「……そんなもの造ってたのか。俺は聞いてないぞ」
「後で設計図を渡そう。城の者には内緒にしておいてくれよ」
軽快に笑うアゼルは、今後も城を抜け出す気が満々のようである。抜け道の本意は万が一の時の脱出路だろうが、海雲は呆れて閉口した。
西日の差さない夕暮れの街は家路を行く人々を急き立てていた。街には早くから明りが灯されており、雪の中で淡い暖色が揺れている。街道には人が少ないので寂れた印象を与えるが、海雲には家々の窓から零れる明かりが平素よりも存在感を持っているよう感じられた。
「毎年、雪の時期は静かだな」
自身の呼気が上空へ昇っていくのを眺めながら、海雲は独白を零した。外にいても寒いばかりなので、人々はそれぞれの家にこもり家族と食卓を囲むのである。体を芯から温めようとする男達で酒場も繁盛しているはずだ。
「活気が見える方がいい。人間が生きているという感じがする」
「お前は本当に人間が好きなんだな」
いつでも、許されさえすればアゼルは人の輪の中にいた。支配者が監視するというのではなく、彼は純粋に人間が好きなのだ。その証拠に、アゼルはいい笑顔を浮かべた。
「ああ。もっと多くの人と話がしてみたい」
その科白を聞いたとき海雲はふと、アゼルはいつかこの国を出て行くのかもしれないと思った。
「……それで、そいつはどんな奴なんだ?」
「破天荒な奴だよ。初対面から印象的だった」
話を逸らした海雲を訝るでもなく、アゼルは話に乗ってきた。海雲もあれこれと考えるのは止め、表情を明るくする。
「ほう。何かやらかしたのか?」
「俺が経緯を説明するより本人に会った方が早い。きっと、海雲も気に入ると思う」
喜々として語るアゼルは城を出てから東に向かって歩を進めている。海雲はこれから会う人物に思いを馳せていたがふと、あることに気がついて眉根を寄せた。
「このまま彼岸の森の方へ行くのか?」
「ああ。樵だからな、森の近くに住んでいる」
「樵……」
アゼルの科白を繰り返しながら海雲は思案に沈んだ。この辺りは彼岸の森が近いが、海雲が王城へ上るために使っている道ではない。だが近頃、海雲は彼岸の森からこの近辺に出向いたことがあった。
(まさか……)
ある友人の顔が浮かんできて、海雲は嫌な予感とも嬉しさともつかない奇妙な感覚に襲われた。アゼルがどんどん東へ進んで行くので推測は次第に確信へと変わっていく。そしてアゼルの足は、知った家の前で止まった。久しぶりに訪れる手狭な家を見渡していると海雲はどんな表情をしていいのか分からなくなってしまった。
「ここだ。家にいるといいのだが」
アゼルが扉を叩くと、しばらくしてから応答があった。姿を現したのは中年の女であり、彼女はアゼルの顔を見ると置物のように固まってしまった。アゼルが柔らかい口調で話しかけているのを横目に、海雲はこの家で聞いた破壊音と金切り声を思い返して人知れず苦笑する。
アゼルの意を受けた女は慌てて家の中に引き返して行った。程なくしてサイゲートが姿を現したのだが、その背後には先程の女と娘と思われる若い女の姿がある。後ろから好奇の視線が送られてきていることに気付いたサイゲートは家を出て、扉を閉ざしてから改めてアゼルに向かった。
「ビックリした。急にどうしたんだ?」
「食事時にすまない。今日は友人を紹介しようと思って訪ねたんだ」
友人と聞き、サイゲートの視線がアゼルから離れる。海雲と目が合うとサイゲートは驚きを収めて真顔になった。サイゲートから向けられているまなざしを正面から受け止めながらも海雲は無言でいる。誰も口を開かなかったので仲介人であるアゼルが口火を切った。
「紹介しよう。白影の里の棟梁で、俺の友人の海雲だ」
すでに面識のある者に改めて紹介されると、海雲はくすぐったい気分になった。それはサイゲートも同じなようで、彼も妙な表情をしている。だがお互いに言葉はなかったのでアゼルが一人、話を続けた。
「サイゲートだ。堀の工事の時は世話になった」
アゼルに引き合わされた形で、海雲とサイゲートはお互いに歩み寄る。黙っていることに耐えられなくなった海雲はサイゲートに先立って口を開いた。
「お前、樵だったのか」
「言ってなかったか?」
「知らなかった。それで、何で黙ってたんだ? 隠してたのか?」
「まさか」
「人が悪くなったな」
「誰かさんのおかげかもな」
サイゲートが平然と言ってのけるので堪えきれなくなった海雲は吹き出した。それを合図に、サイゲートも笑い出す。
「久し振りだな、サイゲート。そうか、お前がまともな国民か」
「久しぶり。雪が降ったから、またつかまりに行こうかと思ってた」
ようやく再会の挨拶を交わし、海雲とサイゲートは笑い合う。訳が分からないのはアゼル一人だけであり、彼は親しげな海雲とサイゲートを呆然と眺めていた。




