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月に喘ぐ  作者: sadaka
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まもりたい(8)

 突然の撤退以来、大聖堂(ルシード)軍が再び攻めて来る気配はなかった。そのおかげで街は平穏を保っており、治水工事も順調に捗っている。

『サイゲートのおかげだよ』

 堀を造る工事を始めてから、アゼルはよくそんなことを口にした。かげろうの森が焼かれて街が混乱に陥った時のサイゲートの働きが若者達の支持を集めており、自衛団が機能し始めたことが工事を捗らせている要因だからだ。サイゲートにその気はなかったのだが、いつの間にか自衛団のリーダーのように扱われている。集団の力が生きるなら今はそれでいいと、サイゲートも拒否しないでいた。

 夕暮れが迫っているにもかかわらず、水の入っていない堀の中では多くの国民が作業をしている。短い秋が過ぎ去ろうとしている時分、国民総出で掘り進んだ道は間もなく完成を迎えようとしていた。

「彼らはよくやってくれたよ」

 造成の様子を眼下に見るために特設された高台の上で、泥だらけの顔を夕陽に染めているアゼルが笑みを浮かべながら言った。サイゲートも口元に笑みを浮かべ、隣に佇むアゼルを振り返る。

「お前がいたからだよ、アゼル」

 アゼルは工事の指揮者としてだけでなく、肉体労働者としての働きもしてきた。次期王位継承者のくせに、彼は朝から晩まで国民と共に汗を流してきたのである。先導する者がそうした姿勢を見せていたからこそ、国民も挫けることなく頑張ってこられたのだ。

「人間って正直だよな。気に入らなければやらないし、気に入ればいっしょうけんめいになる」

 多くの人間が集まれば反りが合わない者の一人や二人いるのが当然であり、トラブルも生じてくる。実際、工事を進めている途中では幾度も問題に直面した。そうした問題を解決してきたのはアゼルなのだが、彼は諍いが起きた場合、工事を中断させてでも当事者同士に話し合いをさせるのだ。双方の言い分を聞き、どちらが悪いとも決め付けず、柔軟な対応をする。そうしたアゼルの姿を間近で見てきたサイゲートは、いい勉強をさせてもらったと思っていた。

「人間は感情の生き物だ。扱い易いのか扱い難いのか、未だに判らないな」

 アゼルが理屈っぽい返事を寄越したのでサイゲートは呆れた顔をした。

「ほんとは、あんまりそーゆーこと考えてないだろ?」

「解るか?」

 アゼルがイタズラっぽい笑みを浮かべたのでサイゲートも声を上げて笑った。たまに王子らしいことを言ってみても、アゼルはアゼルでしかない。それは、いつか海雲が言っていたことでもあった。

 再び堀の方へ顔を戻したアゼルは夕陽に晒されて目を細め、和やかな調子で言葉を紡いだ。

「今年は収穫祭が流れてしまったからな、注水時には祭でもやるか。頑張ってくれた国民を労いたい」

「さんせい。一日くらい息抜きさせてもらいたいな」

「その際には是非、城の方へ来てくれ。サイゲートを父にも紹介したい」

「オレはいいよ。レイギとか苦手だし」

 アゼルが言葉を続けようとした時、下から声が掛かった。これ幸いと、サイゲートは話を切り上げる。

「ちょっと行ってくるな」

 短く言い置いた後はアゼルの返事を待たずに踵を返し、サイゲートは木製の階段を駆け下りた。









 当初の予定通り、二月で堀は完成した。すでに注水も終わっているので労働者であった国民も平素の生活に戻っている。街は平穏な静けさを保っていたが王城の二階にある謁見の間から見える景色は様変わりしており、大事業の成功を示していた。

 赤月帝国内のほぼ中央に位置している王城の周囲には二重になるように水路を巡らせた。そして堀の上に橋を渡し、侵入口を限定したのである。この吊橋を通って王城へやって来た海雲は、強行軍だった工事を予定通り終わらせたアゼルに密かな賞賛を送っていた。だが注水の際に国民を労う意味を込めて祭をしたいという案は却下した。休息を与えることは必要だが浮かれられても困るからだ。そもそも、何のために堀を造らなければならなかったのか。完成したことに有頂天となっている今、その本来の意味は忘れ去られている。敵の姿が見えない長い膠着状態に、アゼルでさえ緊張の糸が緩んでいるようだった。

(敵はもっと恐ろしいものなんだ)

 常に気を張りながら言葉に出来ない恐怖に耐えてきた海雲は苛立ちを隠せなかった。おそらくアゼルも少なからず恐怖心は抱いているのだろうが、度合いが違いすぎる。

大聖堂(ルシード)も準備が整った様子だな」

 王が口火を切ったので窓辺を離れた海雲は改めて玉座の下に跪いた。自国の軍隊とは別に個人的な間諜を放つほど警戒している王は、楽観視できる事態ではないことを理解しているようである。そうした王の態度に救われたような気がしながら、海雲は報告を始めた。

「大聖堂は全勢力を一つ所に集めております。まもなく冬になりますので、おそらく演習ではないかと思われますが」

「全軍を使った攻撃の演習、か……」

「一見しただけで、まだ倍以上の兵力差があります。一度に攻め込まれると思うと、恐ろしい限りです」

「やはり、かげろうの森から来るか?」

「西の崖は相当に訓練を積んだ軍であっても困難な道です。侵入口はかげろうの森しかありません。ですが森ならば、こちらも手の打ちようがあります」

「もし、崖を越えて来たのなら?」

「西の崖は足場が悪く、小隊ごとでないと進行することが出来ません。その場合、森と同時進行でないと意味がないと思われます。どちらか一方からですと刻をかけずに追い払えます。ですがもし、崖を越えた軍に街を占拠され森からも進撃されるとなると……」

「いや、結果は聞くまでもないな」

 海雲が言いかけた内容を汲んで、王は首を振った。

 挟撃された場合、街は混乱の渦に呑み込まれるだろう。城にまで白影の里の者を配備する余裕はないので、街中の防衛は王族の私兵や自衛団に頼らざるを得ない。しかし職業軍人である白影の里の者とは違い、王族の私兵や自衛団は戦を知らない民である。あまり当てにはならないので、街に侵入された場合は森を引き払うより他ないだろう。そうなれば森からの侵入を許し、街中で大聖堂軍は合流する。あとは籠城するしかないが、倍以上の兵力にいつまで耐えられるのか。

(一度侵入されれば、負けだ)

 海雲の考えを理解して同意しているからこそ、王も口を閉ざしている。海雲も口を噤んだので謁見の間には重苦しい沈黙が漂った。

「……恐ろしいな」

 巨大な、抵抗出来ないほどの波が押し寄せて来ようとしている。王が発した呟きに似た言葉に、海雲は真顔で頷いた。

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