第二十五話:日常の境界線と、三浦のおせっかい
五月二十六日、火曜日。
学園の朝は、いつもと変わらない騒がしさで幕を開けた。
私は校門をくぐり、自分の存在を空気の中に溶け込ませるようにして一年C組の教室へと向かう。肩をすぼめ、視線を数メートル先の床に固定し、誰の記憶にも残らない「背景」として席に着く。それが、私の唯一の平穏を守る術だった。
(……大丈夫。昨日、一ノ瀬くんにあんなに詰め寄られたけど、学校に来れば私はただの佐倉陽葵だ。誰にも見つからない、ただの石ころ……)
自分に言い聞かせながら教室の扉を開けると、そこには既に登校してきた生徒たちの熱気が充満していた。
私の席は、窓際から三列目。その隣の席には、既にクラスのムードメーカーの一人である三浦翔太くんが座っていた。
「あ、三浦くん! これ、昨日の放課後に図書室で借りるの忘れてたやつ。返却期限、今日までなんだよね」
一人の女子生徒が、困り果てた様子で三浦くんの机に分厚い参考書を置いた。
「いーよいーよ。俺も一時間目に雑誌返しに行くし、ついでにやっといてやるよ。貸しな」
三浦くんはチャラい口調で笑いながら、重そうな本を片手で軽々と引き受けた。
「えっ、いいの? 助かるー! ありがと、三浦くん!」
「気にすんなって。その代わり、今度美味い飴ちゃん一つな」
三浦くんはそう言って、別の女子生徒が落としたシャーペンの芯を、会話を途切れさせることなく足元で拾い上げ、ごく自然な動作で持ち主の手元に返した。
彼はクラスの誰に対してもこうだ。
おせっかいで、手助けを厭わず、それでいて特定の誰かに固執することもない。困っている子が目に入れば、それが誰であっても「ついで」という言葉で救い上げる。それは彼にとって、呼吸をするのと同じくらい当たり前の、博愛的な「日常の風景」なのだ。
女子生徒たちが満足げに去った後、三浦くんがこちらを向き、ひょいと片手を挙げた。
「よっ。佐倉さん、今日も隅っこが似合うね。……お、ノート、端っこ折れてんぞ」
「えっ……あ」
私が慌てるよりも早く、三浦くんの指先が私のノートの角に触れた。
彼は他の女子に本を貸した時と全く同じ、フラットな親切心で、丁寧に折れ目を伸ばしてくれた。
「几帳面なフリして、意外とドジなんだから。……ほら、綺麗になった」
「……あ、ありがとう。三浦くん」
三浦くんの指先は、昨日一ノ瀬くんがカウンター越しに見せたあの鋭い圧迫感とは無縁の、どこまでも軽やかで温かなものだった。
彼にとっては、私もあの図書室の女子生徒も、同じ「クラスの誰か」に過ぎない。その適度な距離感と、誰にでも向けられる「普通」の親切に、私は心から安堵した。
(三浦くんは、本当に誰にでも優しいんだな……。こういう人が、本当の『日常』を作ってるんだ)
けれど、そんな穏やかな時間は、一人の人物の登場によって一瞬で凍りついた。
一時間目の数学。教室に入ってきた一ノ瀬蓮くんが、教壇に向かう途中で、私の席の横でぴたりと足を止めた。
「…………」
一ノ瀬くんは、私に何かを話しかけようとして、唇を微かに動かした。昨日、店であんなに激しく「解析」や「支配」といった言葉を投げつけてきた彼が、今は眼鏡の奥で視線を泳がせ、不自然なほどに硬直している。
「……一ノ瀬くん? 何か……」
私が声をかけると、彼はハッとしたように表情を殺し、一言も発さずに自分の席へと去っていった。
その背中からは、昨日の余裕が嘘のように消え、私という存在を前にしてどう振る舞えばいいのか分からず、激しく空回りしている焦燥が伝わってきた。
如月奏くんも同じだった。
休み時間、廊下を歩く私と目が合った瞬間、彼はファンに囲まれたまま、サングラスの奥で痛いほどの視線を私に突き刺してきた。けれど、彼は近づくことさえできず、ただ苦々しげに拳を握りしめていた。
陽葵一人に執着し、特別な存在であろうとするあまり、一歩も動けずにいる王子様たち。
そして、誰にでも等しく接し、軽やかにおせっかいを焼いて見せる三浦くん。
その決定的な「日常の余裕」の差が、教室内で静かに際立ち始めていた。
「……ねえ、佐倉さん」
三浦くんが、他の女子と楽しげに談笑する輪の中から、ふと私を振り返った。
「あんたさ、あんまり根を詰めんなよ? ……困ったことがあったら、いつでも言いな。俺、おせっかいだからさ」
三浦くんのその言葉は、後ろの席で陽葵を冷ややかに見つめる女子生徒たちの視線を、一瞬だけ和らげるような響きを持っていた。
けれど、その輪の向こう側。
クラスの女子たちの視線は、日に日に険しさを増している。
「……佐倉陽葵、って言うんだって」
「王子様たちが、あんなに気にしてるの、不自然じゃない?」
囁き声が、毒のように教室の隅に溜まっていく。
私は三浦くんの「普通」に救われながらも、自分が立っている場所が、もはや「背景」ではいられないほど脆くなっていることに気づき始めていた。
初夏の風が吹き抜ける教室。琥珀色の静寂は、学園という名の戦場の足音によって、じりじりと侵食されようとしていた。




