僕が僕の推しの尊さを語ることになった訳(前)
「……」
彼女は僕の書いた日記を食い入るように見ている。……というか、めっちゃ顔近い。ノートに飛び込むつもりじゃないだろうかってくらい近い。
彼女は一通り読み終わるとノートを両手で畳み、
「えっと、真岸優斗くん」
「ははは、はい!」
声が緊張で裏返る。屋上には僕と彼女しかいないから、彼女の言う真岸優斗とは僕のことで間違いない。脳味噌の中でじわりととろけてしまうような甘い声で名前を呼ばれたことには感動を覚えるほか無かったが、さて、僕はこれからどうなってしまうのだろうかと悲観する知能だけは残っていたようだ。
「えっとね、」
彼女は真顔だ。真剣な表情もいつもとは違った良さはあるが、さすがの僕も尊いとか言っている場面でないことは理解しているつもりだ。あの日記は自己満足で書いたもの。僕自身以外に見せる気はなかったし、見せたら当然というか引かれるに決まっていることは分かっていた。
しかしそれを見たのが、よりにもよって夢咲七海ちゃん本人だなんて!
「これなんだけど……」
彼女が示すのは、もちろん僕の書いた日記。表紙には油性ペンで「夢咲七海ちゃん尊い日記」と書かれている。あれを僕は廊下で転んで落とし、たまたま向かいから歩いてきていた彼女が僕を助け起こすと同時にノートの存在に気づき、今に至る。「屋上に来てもらえないかな」と言われた時、それでも少しだけときめいてしまった自分が恥ずかしい。何なら今だって二人きりで放課後の屋上にいてドキドキしているわけだが、あまりにも愚かな自分をそのままナイフで真っ二つに切り裂いてやりたかった。
「これさ、真岸くんが書いたの?」
「そ、そうです……」
彼女の言葉に、僕はただ頷くしかなかった。思わず敬語が出てしまった。
「これに書かれてるのって、ぼ……わたしのことでいいんだよね?」
彼女は首を傾けた。ぼ……って何のことだろうか。これでもしボクっ娘だったら僕の尊さゲージが一瞬にして最大になるところだが、とにかく今の僕は焦りばかりが前のめりになっており、
「そ、そうです……」
芸の乏しいオウムみたいに同じ回答を繰り返すことしかできず、俯くばかりだった。
「なるほど」
彼女はひとまず納得した様子で一度頷いた後、その顔を起こさずに顎に手を当て、何やら考え込んでいた。
「お願いがあるの」
その顔が上がった時、彼女の表情はより険しいものになっていた。
僕だって分かっている。色々褒めちぎったが、彼女だって女の子だ。怒るし、泣くし、落ち込みだってするし、気持ち悪いものには嫌悪感を覚えて当然だ。これから言われることだって、
「こんなこともう止めて」
と言われるならまだいい方で、
「視界に入らないで」
「二度と息をしないで」
「わたしと違う時代に生まれ直して」
なんて言われるかもしれない。それはそれで興奮する……わけない! そんなこと言われたら僕だってショックに決まってる! 首を吊るかもしれない! ……でも、彼女を勝手に持ち上げて不快にさせたのは僕だ。僕が主張を通す筋合いはない。一番嫌なのは、彼女自身なのだから。
どんな罰だって受ける。僕はそう心に決め、彼女の処断を待った。
ところが、彼女は――
「この日記、もっと書いてほしい」
僕が心の片隅にも思っていなかったことを、呟いたのだ。
「へ……?」
僕が豆鉄砲を食らった鳩みたいな顔をしていてもおかしくはないだろう。
「ど、どうして?」
思わず訊き返してしまった。彼女は先ほど僕がしていたであろう不安気な目で僕を見ながら、
「笑わないで聞いてくれる?」
「は、はい! もちろん!」
僕は威勢良く返事をしていた。その後はちょっとした間があった。彼女が躊躇っているのが分かったので、僕は一先ず彼女の発言を待つことにした。
ごくり、と自分の固唾を飲む音が聞こえた後に――
「わたしね、褒められないと死んじゃうんだ」
世界から音が消えたような、そんな錯覚を覚えた。
「え」
僕が豆鉄砲を食らった鳩みたいな顔をしていてもおかしくはないだろう。……今日は本当に驚いてばっかりだ。そんな僕の顔を見た彼女は、バツが悪そうに苦笑いを浮かべていた。
「引いたでしょ?」
「ぜ、全然! むしろ引かれるのは僕の方で……!」
僕が首を振ると、彼女はほっと胸を撫で下ろした。それから少し割り切った気分になったようで、僕が彼女のたわわな胸を見てよこしまな気分になるよりも早く、次の話題を切り出した。
「……わたしがアイドルやってたの、知ってる?」
「それは、まあ……」
中学時代、彼女は一世を風靡するアイドルだった。夢咲七海といえばテレビを見る者なら顔はまず見たことがあるというレベルで、僕も例外ではなかった。当時は僕も一ファンとして応援していたものだが、ある日パタリとテレビで見なくなり、疑問に思ったものだ。
「芸能界って結構怖いところでね。陰口もいっぱいあるんだよ。活躍すればするほど、頑張れば頑張るほど、バッシングも増える」
それはそうだろうと思った。人は他人の成功を妬む生き物だというのは、確かに的を射た評価である。
「文句が出ないようにってわたしは頑張った。でも、称賛してくれる声に比例するみたいに、悪口もどんどん増えていってね。いじめられることも増えた。で、倒れちゃったんだ、ステージの途中で。それがきっかけでわたしへのいじめが爆発しちゃって」
それで辞めた、と彼女は言った。僕は何も言えなかった。
「芸能界時代のことがトラウマになっちゃって。悪口のことを思いだすと、ノイローゼになっちゃうの。身体中に蕁麻疹ができちゃうんだ。すごく豆腐メンタルで……情けないでしょ」
「死ぬってのは、それで……?」
「うん。鬱病なんじゃないかって言われたこともあって。知ってた? 鬱病って寿命を一気に縮めちゃうこともあるんだよ」
「……自殺、とかを思い立ったことは……」
「あるよ」
彼女はさっくりと言ってのけた。
「でもね!」
しかし、まるで彼女はついさっきまでの暗い顔を忘れてしまったような晴れやかさで、
「真岸くんの日記は、わたしを褒めることしか書かれてなくて、全然怖いって感じなかった」
「僕の日記が?」
「そう!」
目がキラキラと輝いていた。やはりというか、彼女はどうにも子供っぽい純粋さが際立っている。もちろん、良い意味で。
「すっごく恥ずかしかったけど……わたしの良いところをこれでもか! ってくらい一生懸命書いてくれてて、とっても嬉しかったよ。 尊い? ってのはよくわかんないけど」
「えっと、尊いというのは……」
説明しようとして、思いとどまった。
そもそも、尊いという言葉の根源的な意味は、僕もそもそも分からないのだ。言葉にできない感情を表現する言葉だから、当然といえば当然ではあるのだが。
「えっと、僕にも分からないです……」
「難しい言葉なんだねー」
彼女はそう言って、尊い、尊い……と一人で繰り返していた。僕たち尊みの民も割とそんな感じで呟いているので、もしかしたら半分くらい理解しているのかもしれない、なんてことを思った。