クロとたまねぎ
クロが、エプロンをしている私の足に、じゃれつくように鼻面を当てた。
そのまま、すりすりとふとももにほおずりしてくる。
「待っててねー。今日は鶏胸肉茹でたから、てきとーに野菜と合わせてサラダにして……」
つん、と鼻面でクロが私の膝に触れた。かくん、と膝が曲がる。
「おっと」
手元の、茶色い皮を剥いたばかりのたまねぎがコロコロと床に転がる。
クロが口を開ける。
ぞくりとした。
「――食べちゃダメッ!」
私の鋭い制止の声は、間に合わなかった。ガリリ、グシャ、とたまねぎをたった一口で噛み砕いて飲み込む。
犬に食べさせてはいけない野菜の代表。ねぎ、ニラ……たまねぎ。
石が胃に入ってるみたいだった。いや、胃が石のように固まっているのか。
「ク、クロ」
震える声で、とりあえずクロに声をかけた。床に膝をついて、完全に目線を合わせる。両手を鼻面の横に添えた。
「調子、どう?」
まっすぐに焦げ茶の瞳を見つめる。
言われている意味が分かっていないように見える。
「……クロ。吐いて。分かる? 吐いて!」
段々と怖くなっていく。どうなるんだった? どれぐらいで症状が出る?
「ぺっしなさい、ぺっ!」
慌てる私をよそに、頭を引いて手を外すと、台所から離れる。そのまま、いつものラグの敷かれた定位置で悠然と寝転がるクロ。
どうすればいい? どうすればいい?
震える手でスマホを取り、思いつくままに検索ワードを入れていく。
犬。たまねぎ。食べた場合。対処法――
みんな同じような事を書いている。
『獣医に連絡して相談してから、指示に従って、必要なら動物病院に行って下さい。』
どうやって? ――どうやって!?
血の気が引く、という言葉を体で理解した。青ざめる、でもいい。
中毒も怖いが、それと同時に、気が付いてしまったのだ。
霊的な超大型犬を診てくれる獣医など、どこにもいない、という単純な事実に。
相談すらできない。うちの犬、体重二百キロぐらいあるんです――悪戯だと思われて電話を切られるか、私が精神科のある人間用の病院をすすめられるのがオチだ。
霊的な存在だから手がかからない、と思っていた自分がひどく愚かしく思えた。
――手をかけられない、という事なのだ。もしクロに何かあっても、私には何もできない。クロは得体の知れない霊的な存在で、私は見る事と触れる事ができるだけなのだ。
調べ続けるが、クロにできるとは思えない治療法ばかり。
貧血、嘔吐、痙攣、血尿など、文字で見るだけで怖くなる症状のどれが出ても、投薬も、点滴も、輸血も、何もかもできない。吐かせるという選択肢もあるらしいが、素人が安易にすると危険とか言われては、それもできない。
唯一の救いは、危険な量の目安は体重によって変わるという事。小型犬ならたまねぎの三分の一ぐらいでも危険。中型犬なら丸一個。大型犬なら二個と半分ぐらいが目安。超大型犬は――書いていない。
さらにそれが霊的な存在だった場合なんて、どこにも書いてない。
しかも、個体差もあるし、柴犬や秋田犬は特に危険など犬種によっても差が出るらしい。さらに微量でも危険な時は危険だなんて言われてしまうと、あくまでそれらは目安でしかない。
クロは、耳が立っているし、顔もシュッとしていて、現実の犬種で言うならシェパード系に見える。でもそれがなんだと言うのだ。
クロが私を見る。私もクロを見た。
泣きそうになりながら、今もしクロが体調を崩したら、頼れるのは自分だけなのだと、口元をぎゅっと引き締めて涙を止めた。
後は、見守るしかできない。
ただ、祈るしかできない。
私はこの子に、何もできない。