クロと読書
クロに甘え、甘えられるように一緒にいるのが日常になってからは、読書が贅沢な時間になった。こんな素敵な読書時間を過ごせている人は私一人だろうと思うと特殊な優越感が脳に溢れる。
実はクロの毛の感触が心地良すぎて、読書としての質は低いのではないかと思う時があるのだけど。
しかし、きっちり着込んでクロにくっついていると、コタツに入ってる時のようなぬくぬく感を自然に味わえる。それでいてストーブのような空気を濁らせる悪影響も、肌がカサつくといった事もない。
霊的な犬暖房こそが、今の私の知る最も素敵な暖房だ。
それでもじっとしていると指先が冷えてくるので、たまにクロに抱きつく。人間の集中力は四十五分ほどが限界とも言われるので、合間合間の休憩を自然なタイミングで取れると言えなくもない。
そういう意味では読書の質を上げてくれている気もする。
少なくとも、生活の質は右肩上がりだ。
そこでふと、『ブラックドッグ』その他、霊的な黒犬の特徴についての記述を思い出した。
赤い、目。燃える石炭のような。炎のような。赤々と燃えるような。色々な表現があるが、全てに共通するのは赤く輝く目だ。
そして、舌も同様に燃えるようだと語られる事がある。
「……ねえ、クロ。舌見せて」
きょとんとした様子のクロ。
「こう、べーって」
舌を出してみせる。同じようにクロも舌を出した。
別に燃えるようには赤くない。
今まで食事やおやつを食べる時に自然と見てきたのだから、分かっている事ではあったのだけど。
目が燃えるように赤いとか、石炭のようだとか、そういう事もない。焦げ茶の、綺麗な瞳だ。
犬の瞳。――人間に近しい、けれど、人ではないものの目。
誰も深さを確かめた事のない古い井戸のような、遠い宇宙を透かして見える星をちりばめた夜空のような、そんなものを思わせる瞳だ。
違う生き物の事を理解できるのだろうか。人と人が分かり合う事すら難しいのに。
そしてクロは――おそらく、生き物ですらない。
この子は幻想。私の隣にいるこの子がいつか消えても、私には何もできない。
その時私は、どうなるだろう?
この子を撫でる事ができない。
毛を指ですく事も、耳を優しく折り曲げるように撫でる事も、腹毛を撫でさする事も、ほおずりする事も、枕にする事も、傍らに寝るクロに触れている内にいつのまにか寝落ちする事も、何もかもできない。一緒にお風呂に入ったり、何かを一緒に食べたり、舌で舐められて起こされたりする事もない。
この子が、私の、そばにいない。
私の心の中にはクロがいる。……クロしかいない、というわけではないけれど、その存在は本当に大きくなっていて、失った時、きっと私は今の私ではいられないだろう。
それは、クロがいなくなる事と同じぐらい怖かった。
心に忍び込んだ不安と寂しさが私の口を開かせる。
「ねえ、クロ……」
口が止まった。『いなくならないでね』と言おうとした。
けれど、その言葉がどうしようもなく薄っぺらく思えて、私は口を一度閉ざした。
迷うように揺れる私の視線を、クロは覗き込むように見つめ、そらさない。
微笑んだ。
「……大好きだよ」
いつか、この子はいなくなるかもしれない。いつかの未来に、この子は私の隣にいないかもしれない。
けれど、そのいつかは、今じゃない。
だからせめて、今は気持ちを伝えたいのだ。
クロが私の頬を舐めた。
それだけの事が、私には嬉しかった。




