第三十六話 雲類鷲彦乃の冒険 燐光編
「……うぅ……ここ…は…」
数歩先ですら見えないような暗闇の中で、彦乃は眼を覚ました。
自分が目を開いているのかどうかすら怪しくなるが、意識が覚醒したのは確かだ。
失明でもしたのかとも思ったが、目を凝らすとなんとか自分の手くらいなら見える。
「よいしょっと…」
「おぉ……目ぇ覚めたか?」
「ヘレンさ…んんっ?!」
ヘレンの声が聞こえた彦乃は、その場で立ち上がろうとして足元の感触に素っ頓狂な声を上げてしまう。
今まで気付けなかったが、どうやら足元はぬかるんでいるらしい。
濡れた布を敷き詰めて、その上に泥でも敷かれているかのような場所だ。
「足元、あんま見ない方がいいぞ…」
「……分かりました…」
その一言で、察せる事があった。
足元に広がるぐにぐにとぬかるんだ足場。
だが、それは決して布や泥なんかではない。
「…食べられたんですかね…?」
「そうだろうな……それと、悪い知らせがもう一つあるんだが…聞くか?」
「…悪い知らせ?」
目が慣れてきた彦乃は、少し先に居るヘレンも見えるようになっていた。
一緒に、彼女が凭れ掛かっている壁や床の正体もハッキリ見る事ができてしまったが。
それはともあれ、ヘレンは上を指さした。
彦乃が上を向くとそこにはヘレンが出したであろう光の壁が、屋根のようになっている。
「三重構造で傘にしてたんだがなぁ……もうダメだ。あと数秒で消える」
「消えると…どうなるんです…?」
「分かんねえか?……こうなるんだよ」
諦めたように目を閉じたヘレンの頭上で、傘になっていた光の壁が消滅した。
次の瞬間、彦乃の背後から嫌な音が聞こえ始める。
何かを油で揚げているような、ジュッとした音が聞こえてきたのだ。
「っ?! これって…」
「当たるなよー…当たったら死ぬぞ、多分だけどな…」
ヘレンの忠告に、慌てて手を引っ込めるとさっきまで手があった場所の真下で何かが溶けるような蒸発するような音が聞こえてくる。
酸の雨、なんて簡単な物ではない。
謂わば「胃酸の雨」とでも言えるだろうか。
生物が食べた物を胃で溶かすのと同じように、このクジラも彦乃たちを消化してしまおうという訳だ。
「くっ…牛頭っ!」
「あー、やめといた方がいいぞー?」
「~~~……どうしてさっきからそんなに余裕そうなんですかっ?!」
焦燥がそうさせたのか、彦乃の心はイライラしていた。
脱出しようとする気のなさそうなヘレンは、その場に座り込んでいるのは分かる。
照明代わりになってくれていた光の壁が消滅した今でも、きっとその場所から動いては居ないだろう。
「余裕なんじゃねーよ…諦めてんだよ…」
「なん…っ?!」
ちょっと近づけば、ヘレンがどうしてそんな判断をしているのかもだいたい理解する事が出来た。
元々猛烈な悪臭の漂う空間だったが、その匂いに混じって微かに鉄のような匂いがする。
だが、普通の鉄だとかそんな匂いではない。
「ヘレンさんっ?! 何があったんですかっ?!」
「やっと気づいたか、馬鹿な奴だぜホント……っつつ…」
どうしてヘレンが動かないのか、今なら分かる。
動かないのではなく動けないのだ。
ヘレンが使う剣の刀身が途中から折れて、彼女の膝を貫いていた。
丁度、昆虫を標本にして固定するピンのような形で、ヘレンはその場に固定されていたのだ。
「この壁だがな…衝撃を吸収してすぐ跳ね返してきやがる……軽く殴ってみたら分かるか…」
「こうです…っかぁぁ…」
腕を前に突き出すような、軽い動きで壁を殴る。
別に勢いを付けたり力んだりは一切していない。
にも関わらず、彦乃は腕が圧し折れてしまうんじゃないかと思う程の痛みに襲われる。
この分だと、歩くだけならまだしも走ったりしようものなら膝や足にどんな衝撃が来るか分かった物ではない。
「で、でもっ…本気で突いたらこれくらい…」
「やめとけっつって…っぐぅ…」
彦乃を止めようとするヘレンだったが、身動ぎするだけでも身体中を激痛が走ってロクに動けやしない。
ヘレンを無視して、彦乃は牛頭の切先を壁へと向けた。
「……はあぁぁ…あぁぁぁああ!!」
「こっ…ばっ…彦乃っ!」
彦乃の勇気は虚しく散り、結果は何も変わらない。
後に残ったのは、槍を取り落としてその場に崩れ落ちる彦乃だけだった。
「っっ……くあぁぁぁぁっ!」
指先から肩に至るまで、骨と言う骨全てが悲鳴を上げているような感覚に彦乃は襲われる。
皮膚の全てが伸び切ったような感覚、筋肉という筋肉全てが縺れ合って引っ張り合っているかのような感覚、骨同士がまるで一本の棒になったかのよう
な感覚。
そして何よりも、今までに感じた事のないような激痛が彦乃に訪れた。
「っつ…言わんこっちゃない…これで分かったろ?」
「っっっ……わっかんない…ですよ…」
呆れ顔で痛みに耐えていたヘレンだったが、彦乃が挫ける事は無かった。
そこに自分の腕があるのかも曖昧な程の激痛に襲われていても、彦乃は諦めずにもう一度槍を拾い直して切先を壁へと向けた。
どうやら刃などは欠けていないようだが、それにしたって彦乃自身の被害が甚大だ。
何度も壁への攻撃を続けていては、それこそ彦乃が壊れてしまう。
だからと言ってヘレンのように動けないからと言って諦めてしまえる程、切り替えが上手くはない。
端的に言えば「諦めが悪い」のだ、彦乃は。
「これくら…いっ!……だ、大丈夫です…」
「声が震えてっぞ…やれやれ……なら、アレ試すか?」
「アレ…?」
ヘレンの提案に興味を持った彦乃は、その闘争心を胸の内に仕舞いこんでいく。
何が何でも破壊しようとかいう前に彦乃はヘレンの提案に単純に興味を抱いたのだ。
「最初から渡しときゃよかったな……社長のヤロー、なんで「ピンチになったら渡せ」なんて…」
「これは…?」
「サテライトって奴だ…あー、要はパワーアップの道具って感じかな…手出しな」
ヘレンに言われた通り、手を差し出そうとしてすぐに「アルタイルの方だっつの!」と言われて逆の手に切り替える。
差し出した手首には変身前と同様、アルタイルがブレスレットとして装着されている訳だが、ヘレンはその細身のブレスレットへ引っ掛けるようにして
ストラップのような物を引っ掛けた。
そのストラップに彦乃は見覚えがある。
以前、暴走しかけた時に付けていた物だ。
「え、あのコレ…」
「安心しろって…しっかり改良してあるらしいからよ…ほい出来た」
慣れた手つきでサテライトを引っ掛け、最後に「頑張れよ」とだけ言って手を離す。
離れようにも放れられない訳で、ヘレンは彦乃の変化を足元で見ている事しか出来ない。
「あ、綺麗かも……でも、なんだか熱いような…?」
ブレスレットに巻きつけるようにして取り付けられたサテライトは、とても輝いて綺麗だった。
それこそ、彦乃の周囲を明るく照らす程の輝きで、それは光っていた。
彦乃はそれ以外にも、確かに感じるものがある。
腕が熱を帯びたように熱いのだ。
「え……うあぁああぁっ!?」
アルタイルから真っ赤な炎が出てきたかと思えば、あっという間に彦乃を包み込んでしまった。
だが、次の瞬間には炎は消えて彦乃が姿を現す。
しかしその姿は、つい先ほどまでの物とは少し違っていた。
「あ…あれ…」
「ホンットに犬みてーな恰好になるのな…」
「い、犬っ?! えっ? えっ?!」
彦乃の姿を見て呆れているような顔になるヘレン。
彦乃からすれば、鏡も何も無いこの場所では自分の姿など確認しようもない。
ただ一つ分かることがあるとすれば、身体がものすごく軽いという事だろうか。
「まぁいいや…犬の神様みてーだし……ほれ、呼んでやれ」
「え、犬の神様…犬神?…うあっち!?」
彦乃がその名を呼ぶと、胸のあたりが熱した鉄でも押し当てられているかのように熱くなる。
衣装を見てみると、それが何故なのか分かった。
鎧のように着ていた甲冑や、腕を守る篭手が全体的に白くなっていたのだ。
最初は燃え尽きて灰にでもなったかと思ったが、どうにも違う。
左肩には腕を守るように装甲が追加されているにも関わらず、全く重さを感じない。
「あ、あれ…?」
そして、前まで禍斗の字が刻まれていた胸には「犬神」の字が刻まれ、隣には「弐」の字が刻まれていた。
「シューティングスターモード……あの陰険ノッポ…こんなもん用意してやがったとはな…」
どこかで聞いたような気がするが、今はそれよりも優先すべき事がある。
ここからの脱出だ。
「っっでぇい! 彦乃ぉ!槍の準備しろぉ!」
「へ、ヘレンさんっ?!」
目途が立ったのなら、諦めている暇なんかない。
動きを縛る何かがあるなら、ゴリ押しだろうがなんだろうがその何かを排除すればいい。
ヘレンは、自分の足に刺さる刀身を一気に引き抜いて立ち上がった。
「いいから早くしろってんだぁ!」
「は、はいっ! 牛頭っ!」
脅しにも似た怒号に彦乃は慌てて槍を呼び出す。
いつも通り、手元に来てくれた訳だが、ついさっきまですぐそこに転がっていたのでは?
なんて詮索はこの際何の必要も無い。
「…えっ?! な、なななっ…」
「いちいちうっせー! 放出したルミナスくらい自分で管理しやがれっ! こうやってなぁ!」
彦乃が槍を構えると、彦乃の身に纏う鎧の装甲がスライドして割れる。
中から露出した機構が、赤く輝く粒子のような何かを吐き出していく。
それをヘレンは「ルミナス」と呼んだ。
ヘレンは彦乃と一緒に槍を構え、そして槍の穂先に光の壁を生成した。
ただし、それは壁と言うにはあまりに「尖っていた」
「せーので行くぞっ!」
「は、はいっ!」
「「せーのっ!」」
槍の切先を飛び込んでいく方向へ向け、後は踏み込んで突っ込むのみ。
ヘレンの合図で彦乃は槍のブースターを点火させて一直線に飛び込む。
少しヘレンの壁が邪魔なような気もしたが、なるほど、とも思った。
壁に槍を突き刺した衝撃を、槍の穂先に張った壁が衝撃を全て吸収して砕け散る。
「まだ加速は必要そうか?」
「いえ……行けます、これでっ!」
「「はぁぁぁぁぁあああ!!」」
壁の方も彦乃たちに抵抗するように押し返そうとしてくるが、今の彦乃にはその程度の抵抗は無意味だった。
ただただ前へ進む事だけを考えた彦乃に、敵はいないのだ。
「この…ままぁぁぁっ!!」
「ついでだ彦乃、コアもブチ抜くぞっ!」
「コアっ?!」
壁を抜けた先にあったもの。
それは微かに鼓動している箱のようなものだった。
ただし、彦乃の家くらいあるんじゃないかと思う程の大きさがあった。
「やっぱりだ…これだけデカい図体してんだから、そりゃコアもそんだけデカいわな…あれ壊しちまえば全部解決だ、行っちまえ、彦乃ぉ!」
「はいっ! いっけぇぇぇぇぇ!!」
全てを費やすつもりで、彦乃はコアへと自分ごと突っ込んで行く。
彦乃の身体から放出される赤いルミナスが、まるでSF映画なんかにあるようなビーム状に広がっていくがこの際構ってなど居られない。
「壊れろぉぉぉ!」
「いっけぇぇ!!」
二人での攻撃は、見事にコアを打ち抜いた。
そして二人の意識は、そこで全力を使い切ったのかブラックアウトしていく。
だがこれだけは確信した。
「「勝った…」」
つづく




