異界の花嫁
血の臭いがギンヌンガの地下に充満する。延々と体液を噴出するドラゴニアの首から落ちた頭部が柔らかな光に包まれ変形していく。ドラゴニアを被っていた邪悪な気配は薄れ、人型となったそれは朧気な表情で虚空を見つめていた。その傍らでは男の魔力から解き放たれたケビンが灰塵へと還っていく。
「わしは負けたのか」
奴の国の絹服に身を包んでいる男は夢から醒めたように呟いた。アンジェリナと五郎丸が男に駆け寄る。
「お前たちが、わしを解放してくれたのか」
見ると男の体も少しずつ朽ちて行くのが解る。アンジェリナは膝をつき、男の上半身を抱き抱えた。
「お前が新しい長船の持ち主か。見事だった。お前に敗れたのなら本望だ」
どこか晴れやかな表情で、男はアンジェリナに微笑んだ。
「どうして……」
それ以上何も口に出せず、アンジェリナは唯、記憶を受け継いだ男の前で涙を流し続けた。
「わしの家臣はどうした」
「既に灰と化しております」
四百年の時を経て再び巡り合わせた主君と家臣は、解り合えぬまま最期の時を迎えようとしていた。五郎丸の返事を聞いた男は深い溜息を吐き出し、目を閉じた。
「あやつには何一つ報いてやれなかった。刀の担い手に相応しい者を見つけてくれた忠義に労いの言葉さえかけてやれなんだ」
その言葉を聞いてアンジェリナは腰に下げた長船を体が瓦解しかけている男に持たせてやった。
「持っていって下さい。私には使いこなせない」
長船の力は強大すぎる。この世にあればまた必ずこの刀を巡って争乱が起きる事をアンジェリナは危惧していた。
「刀は持ち主を選ぶ。わしの家臣はそう言わなかったか。お前であればそう悪い持ち主にはなるまい。お前のように野心や欲望、復讐に捕らわれる事なく剣を振るえる人間は多くない」
アンジェリナが返答に窮していると、地響きがギンヌンガを襲った。
「結局この男でも恨みは晴らせなかった。やはり私自身の手でエルドラゴを滅ぼすしかない」
首を刈られたドラゴニアが声を上げ再び動き出した。ブリガンティアが操っているであろうことは疑いようもなかった。ドラゴニアが首のないまま立ち上がり絶叫すると、ギンヌンガの天井は崩れ落ち不吉な鉛色の空が見えた。
その時、五郎丸の持っている携帯オベリスクストーンに思念が転送されてきた。エンプレス、ウルフ、ラングレーが召喚の間を発見したが、機能は停止せず魔法陣が組まれ召喚の間に瘴気が溢れて来たとの事だ。
「こいつはいかん。ブリガンティア姫は異界から契約者を持たぬドラゴニアを呼び出そうとしているのかもしれんぞ」
状況から事態を察知した五郎丸が叫ぶ。いくら備前長船と言えど、異界から無尽蔵に呼び出される相手を斬り続けることは不可能だ。アンジェリナと五郎丸はただ空を見上げ、地下にも立ち込めていく瘴気に背筋を凍らせるしかなかった。
「哀れ、復讐に囚われた女の末路か。だが契約者に選んだのはわし自身。最期のけじめはつけさせてもらう。娘よ、悪いが長船の魔力使わせてもらう。わしの異界への旅立ちの餞別にブリガンティアは貰っていくぞ」
男はそう言うと力なく立ち上がり、長船を鞘から抜くと硬く握り締め魔力を解放していく。先程アンジェリナが持っていた時とは異なる光を放つ長船を構え男はドラゴニアに対峙した。
「何をするつもりです」
叫んだ声が男に届いたか解らない。だが、眼の前の男がブリガンティアを道連れにしようとしていることは容易に想像できた。
「思い知れ。エルドラゴよ。我が国を滅ぼされた恨み、その民の血で償ってもらう」
降り下ろされたドラゴニアの矛から旋風が繰り出される。長船を持たないアンジェリナと五郎丸は立っているのがやっとだった。雲は厚みを増し、空にも魔法陣が形成されていくのが見てとれた。五郎丸の言う通り禍々しい物が召喚されようとしているのはアンジェリナにも直感的に理解できた。
「駄目だ。その人は助けると決めたんだ」
「アンジェリナ殿、もう無理だ。こうなってはあの武将が魔法陣を閉じてくれることに期待するしかない」
男に駆け寄ろうとするアンジェリナの手首を五郎丸が掴み、力任せに引きずるように通路に逃げ込む。地響きは大きくなり空の黒さも増していく。一刻の猶予もないのは誰の眼にも明白だった。
「さあ、還ろう。わが花嫁に相応しい女よ。今度は異界で二人の力を試そうではないか」
男は呟くと備前長船を一閃した。
昼間の太陽のような光が溢れ、立っていられない程の衝撃がギンヌンガを揺さぶる。光はドラゴニアとその背後の空にある魔法陣を包み込んでいった。あまりの眩しさにアンジェリナと五郎丸は眼を閉じた。
数日後。
旧スミュルナ公国領、水上宮殿跡地。
小さく揺れる湖面に夏の陽射しが尽きる事なく反射している。吹き渡る風は深緑の樹木の葉を優しく揺らし、湖畔に咲く花の馨が鼻腔をくすぐる。
ギンヌンガに現れた魔法陣を消し去ってから、役目を終えたように光を放たなくなった備前長船を腰に下げ、アンジェリナは灰となったケビンの亡骸を入れた小さな袋を手に一人佇んでいた。夏の陽射しが作る一つの影が湖面を見つめるアンジェリナの視界に入る。自分の影よりも大きな影は誰のものであるか、振り向かなくてもアンジェリナには理解できた。
「結局、私はまた誰も救えませんでした」
顔を上げる事なく独り言のように呟く。人を生かす為にアンジェリナは剣を抜いた筈であったのに、ケビンは灰となり、その君主の武将とブリガンティアは異界に取り込まれてしまった。そしてリンカも命を落とした事をアンジェリナは五郎丸から聞かされていた。
「そんな事はないさ。少なくともあの場に居た俺やエンプレス、ウルフにラングレーは助けられた。アンジェリナ殿が居なければ俺たちは間違いなくドラゴニアに殺されていたよ」
声の主、いつもの白いローブを纏った五郎丸はアンジェリナの隣に座った。お互いそれ以上は口には出さず、風がもたらす空気の振動だけがその場に聞こえる音の全てになった。
アンジェリナは意を決した様に顔を上げると胸の前で十字を切り、手にした袋を開け中の灰を湖に放った。かつてケビンであった灰は輝く湖面に暫く揺れていたが、少しずつ湖の底へ沈んでいった。
「ケビンさん。私の手向けです。姫の愛したこの地で、君主と一緒に眠って下さい」
アンジェリナは再び十字を切ると腰の刀を鞘ごと抜き両手で持つと、しゃがみこんでそっと湖に沈めた。
「アンジェリナ殿。良いのか」
驚いた様に五郎丸が立ち上がって声をかける。
「良いんです。あんな大きな力、私には扱えません。また新たな持ち主に巡り合うまで、ここでケビンさんに守ってもらえば、長船も寂しくないでしょう」
エンシェントドラゴンの鱗やドラゴニアの身を守る稀少鉱物を容易く打ち砕ける刀はそうそう存在するものではない。武器を持つものとして、その価値を充分理解している五郎丸だが、アンジェリナの性格から考えればこのような結論を出すのも解らないでもなかった。
「まったく、無欲なお人だ。備前長船は刀を持つものなら誰でも欲しがる名刀だろうに」
沈んでいく長船を見やりながら、嘆息と共に口をついた五郎丸の言葉にアンジェリナは小さく笑った。
「そうですね。でも私には相応しくない。あの武将のような大義もケビンさんのような忠義も私は持ち合わせて居ません。そんな私が力を持ったところで、不幸な人が増えるだけです」
耳触りの良い正義ほど、人心を惑わす物はないと知れ。と言うドラゴニアの言葉がアンジェリナの心に突き刺さる。風に靡く亜麻色の美しい髪を片手で押さえながら憂いを帯びた声で呟くアンジェリナの横顔を見て、五郎丸は恐らく五年前の大戦での出来事がアンジェリナの心を閉ざしてしまっているのではないかとも思ったが、口に出しては何も言わなかった。
「それに無欲なのはギルド長も同じでしょう」
湖面を見つめていた微笑みとは別の人の悪い笑みを浮かべて、アンジェリナは立ち上がった。
「今回の件も国の公式記録に残る事はない。国立研究所が不正ギルドの出身者を雇い、国家の転覆を目論んでいたなんて公表できる筈がない。きっと早い段階で只働きになることを知っていて、それでもギルド長は国の憂いを絶つ道を選んだ」
あの後、すぐに国立古代兵器研究所は閉鎖されドラゴニアの研究は中止された。ただそれで全て解決した訳ではない。誰が不正ギルドとの仲介となったか、果たして今回の件が研究所だけの陰謀であったか、ブリガンティアの執拗なまでのエルドラゴへの憎悪の原因はどこにあるのか、そして何よりパラスティアスが口にしたとされる「正統な王の国」と言う言葉の真意。確かめなければならない事はまだまだ山積していた。
「只働きではないぞ」
若い女性の声がして五郎丸とアンジェリナは同時に振り返り驚愕した。数人の護衛を従えて二人の背後に立っていたのはエルドラゴ王国現国王、女王フィーナであったからだ。慌てて膝を折る二人にフィーナはいつになく明るい声をかける。
「そう畏まらずとも良い。今日はお前たちの働きに対して私個人から礼をしたくて参ったまでだ」
「お心遣い痛み入ります。ですが、このような所にご足労頂かずとも……」
言い澱んだ五郎丸にフィーナが反論する。
「ここは私の国だ。国王である私が領地の何処にいようと、咎められる必然はないと思うが」
勝ち誇ったようなフィーナの声を聞いて、二人は更に低頭するしかなかった。
「礼と言っても、国庫から金品を出せるような財政状況ではないからな。お前たち少人数のギルドに人員を付与しようと思う」
「有り難き幸せ」
五郎丸の言葉に満足気に頷いたフィーナは護衛に合図して頭を垂れるアンジェリナと五郎丸の前に一人の人物を立たせた。
「顔を上げて良いわよ」
先程までの威厳に満ちた王の声ではなく、友人に悪戯をする少女のような声でフィーナが告げる。二人の前に立っていたのは、金色の髪と白い肌に黒い法衣が似合う女性、リンカだった。
「リンカ殿。どうして」
絶句する五郎丸にフィーナは懐から見覚えのある空の小さな瓶を取り出して見せた。
「まさか、竜の血……」
アンジェリナも五郎丸も忘れていたのだ。リンカにどんな病も癒すと言われる生命力の源となるエンシェントドラゴンの血を預けていたのを。だが、魔術の錬成の触媒として竜の血があったとしても、蘇生魔法となれば相当高位の魔法だ。簡単に行使できる者が居るとは思えなかった。少なくとも五郎丸の回りには蘇生魔法を使える冒険者は居ない。
「王家の秘術、使っちゃった」
五郎丸たちの疑問を察知したようにフィーナは人差し指を顔の前に立て、舌を出して白状した。屈託なく微笑む美しい女王の顔をアンジェリナと五郎丸はただ口を開けて見上げるしかなかった。
「感謝する。お前たちは私の、そしてこの国の恩人だ。またお前に借りができたな、アンジェリナ」
国王の顔に戻ったフィーナは優しく微笑んだ。
「この者リンカは一度死んだ。因って蒼雲ギルドに所属していた過去も、パラスティアスの企みに加担していた罪も洗い流された事をここに宣言する。そして、この者を今後直轄ギルドの一員として迎える事を女王フィーナの名に於いて命じる。……それで良いな」
「御心のままに」
膝を着いたままだった五郎丸はフィーナの口上に応じると立ち上がり、リンカに向き直った。
「あの、ただいまと言って良いんでしょうか。また皆さんとお会い出来るなんて、あたし……」
瞳に涙を浮かべながらそこまで言った所でリンカは五郎丸に抱き寄せられ、言葉を続ける事が出来なくなった。リンカの甘い髪の馨りが五郎丸の嗅覚を優しく刺激した。
「五郎丸様。く、苦しいデス」
「少し我慢していろ。もう少しこのままで……」
掠れている五郎丸の声を聞くと、リンカはそれ以上何も言わず五郎丸の広い胸に体を預けて嗚咽を洩らしながら白いローブの袖を強く握りしめていた。
エルドラゴ王国、旧スミュルナ公国領に名にし負う美しき、水上宮殿あり。
大戦にて主を失いし城を囲む泉の絶ゆる事なき湧出し清水は、嘗ての王女ブリガンティアの涙と、人の噂ではなむ言いける。また湖畔は奴の国のみに咲きすさぶ花、桜がいとめでたく咲きををる不可思議な場所なり。
因りて後の世に彼の泉を人は「ブリガンティア湖」と呼び
彼の地に咲く桜を奴国の英雄の名を取りて「マサカドの桜」とぞ呼ぶ。
辺境の地の事なれども、珍しき事なれば、いささか此を記せり。
〈エルドラゴ叙事詩 地の章より抜粋〉
自己満で書いてきたシリーズ2作品目もどうにか終わりました。
以前のサイトで途中で書かなくなってから数年経っていたので、続きを書くのが少しシンドかったです
まだ続きがあったりしますんで、ご興味があればそちらもご覧頂けると、幸いです。
大人が読む、古き良きファンタジーを目指しています。ご意見、ご感想などありましたら、真摯に受け止め、今後の参考にさせて頂こうと思いますので、お気軽にお書き下さい。
拙い作品に最後までお付き合い頂き感謝致します。