(1)
「今、何時だと思ってる」
そぉっと自宅の扉を開けると、薄暗がりの中、長身の超絶美男子が恐ろしい顔で腕組みをし、仁王立ちで見下ろしていた。
「うぉぁっっ!! 」
驚きのあまり、サシャは変な叫び声をあげてしまった。
「カ……カイン…」
目の前の男カインは、眉間にしわを寄せ、サファイアのような透き通ったブルーの瞳で冷やかにサシャを見下ろしている。
切れ長の目に弓なりに伸びた形の良い眉、細い顎、柔らかそうな薄い唇とシャープな鼻先、その顔立ちは、神が作った奇跡の造形物かと思えるほど、嫌味なくらい美しく整っている。
一見、華奢にも見える細身の体躯。
しかし、組まれた腕にはしっかりと形の良い筋肉が筋を作り、ゆったりとした白いシャツの下に鍛え抜かれた逞しい身体が隠れていることが容易に想像できた。
艶々に輝く流れるような長い黒髪は、無造作に後頭部で束ねられているが、髪を下ろして櫛をとおし、シミ一つない綺麗な顔に軽く化粧を施せば、絶世の美姫が誕生することだろう。
しかし、カインは今は恐ろしいほどの怒気を纏い、魔王が君臨したかのようにサシャを見下ろしている。
美人が怒る顔は恐ろしい。足元から冷え冷えとした冷気が漂ってくるようだ。
「ひっ……カイン…。えっと…に…21時を回ったくらい…かな…?」
サシャは引きつる笑顔を浮かべて、カインを見上げた。
(何で、よりにもよってカインが…てか、いったいいつからここに立ってたのよ!)
「へぇ、分かってるんだ。――で?」
カインはサシャを見下ろしたまま、ピクリと片眉を上げた。
「…で…ぇ?」
引きつった顔のまま、サシャは首を傾げた。
「こんな時間までいったい何をしてたの?」
カインは硬い声色のまま、ニッコリと笑って見せる。
が、目が全く笑っていない。
言い訳は許さないと威圧する青い瞳が細められるのを見て、サシャはビクリと肩を震わせた。
「あ―……ちょっと興味深い物が手に入って…一人で研究に夢中になってるうちに…その…すっかり時間を忘れてしまって…」
シドロモドロ答えるサシャの言葉に、カインは大きなため息を吐いた。
「つまり、こんな遅くまで、君は一人で宮廷の研究室に残ってたってこと?」
「そ…そう! 別に遊んでいたわけじゃ…」
「はっ? 仕事だからいいだろって言いたいの? そんな問題じゃないだろっ!! 全く…、君は貴族令嬢の自覚はあるのか?!」
カインが、一層語気を強めて眉間の皺を深めた。
「で…、でも…宮廷は…ほらっ、安全だし…」
「君は馬鹿か!!」
玄関ホールにドスの効いた声が響き渡る。
サシャは思わず、肩をすくめ小さくなった。
「本当に宮廷が安全だと思ってるの?! 宮廷は、自分の欲を満たすためなら、他人を貶めることも厭わない魑魅魍魎の巣窟だ。君みたいな世間知らず、あっという間に悪い男の餌食になるぞ! もう少し危機感を持て!」
(しまった…火に油を注いでしまった…。これは長くなりそう…)
カインのお説教は今に始まったことではない。事あるごとに怒られているものだから、サシャは慣れたものではあるが、それでも怖いものは怖いのだ。
だいたい貴族令嬢と言えども、サシャは落ちぶれかけた貧乏子爵家の娘。いつも野暮ったいワンピース姿に大きな眼鏡をかけていて、一つに三つ編みされた赤みがかった栗色の髪も琥珀色の瞳も華やかさの欠片もない。
世の中の男性達が襲いたいと欲情するのは、むしろカインの方ではなかろうか。
ふとカインの背後を見ると、廊下の先の開いた扉の影に隠れ、父と兄のミカエルが心配そうにこちらを覗き見ていた。
(いや、隠れてないで助けてよっ!!)
サシャは、ずり下がった眼鏡を直しながら、恨めしそうに二人を睨みつけた。
とは言え、馬鹿みたいにお人好しな父とおっとりマイペースな兄では、カインを制することなんか出来る筈がない。そもそも、二人がもっとしっかりしていれば、カインがこの家に来ることもない訳で……。
そう、カインはこの家、ヴィクトール子爵家の家族でも親族でも、ましてや使用人でもない。由緒正しいトラヴィス侯爵家の嫡男で、サシャの二つ年下の幼馴染だ。しかも現在は王太子殿下専属の近衛騎士として護衛を務めていて、この国では数少ない竜騎士の一人でもある。竜を従えることが出来るのは、竜に主として認められた者のみ。つまり、カインはその美貌や爵位だけでなく、騎士としても将来有望なエリートなのだ。
サシャの亡き母とカインの母、トラヴィス侯爵夫人が親友であったことから、両家は昔から家族ぐるみで親交があった。社交の場で、姉御肌だった母が内気なトラヴィス侯爵夫人を何かと助けていたことから仲良くなったそうだ。
甲斐性のない父に代わってヴィクトール子爵家を支え、領地経営の主力を担っていたサシャの母が6年前に亡くなってから、カインがこうやって頻繁にヴィクトール家の領地経営の手伝いに来るようになった。ただ、亡き母から『サシャのことをお願いね』と言われたからという理由だけで。
実際に、カインが父を手伝ってくれなければ、ヴィクトール子爵家はとっくに没落してしまっていたことだろう。
お人好しの父は、いつも領民の生活を一番に考えていて、その姿勢はとても素晴らしいのだけれど、領地経営については全くと言っていいほど才能がない。領地の作物が不作の年は領民の税を減らし、疫病が流行れば医師を雇い上げて領民のための臨時の無料診療所を開設する。貧しくて学びたいけれど学べない子どもたちのための小さな塾も運営している。領民からは、良き領主として慕われている。
ただ、そういった経費を賄うための、施策や金儲けが苦手だ。怪しげな投資に手を出し騙されること数回。お人好しに付け込まれて人助けのつもりで、金銭を騙し取られること数十回。
母が生きていた時は、母がしっかり領地の経営を管理し、父の行動を律していた。しかし、その母は罹患した感染症が悪化し、サシャが14歳の時にあっけなく亡くなってしまった。その後、ヴィクトール子爵家の家計は坂道を転がるように火の車となり、没落寸前の窮地にまで至ってしまった。
子爵家の嫡男である兄のミカエルは、これまた父と同じおっとりした性格で薬学の研究オタク。いずれ領地を継ぐ気持ちはあるようだが、研究に夢中になると周りが見えなくなり、ひたすら研究に没頭してしまう。当然、領主としての手腕は期待できそうもない性格だ。
そして、それはサシャも同じ。ミカエルとは違う分野の魔道具や魔法遺物など魔法の研究が大好きで、研究に夢中になると、ついつい時間を忘れてしまうこともしばしばだ。とても、母のように父の行動を管理し、領地を運営する能力は持ち合わせていない。サシャもミカエルも宮廷の研究所で働きながら、細々と家計を支えるのが精一杯なのだ。
結果、我が家はカインに頼りきっている。
そもそも、傾きかけた子爵家の領地管理など侯爵家嫡男が手伝う義理なんてないのだけれど、カインは律儀に亡き子爵夫人との約束を守るべく、こうやってヴィクトール子爵家にやって来ている。
そもそもカインは、王太子殿下の近衛騎士として、宮廷内の寮に部屋を与えられているのであるが、わざわざ仕事の合間に子爵家に通ってくれているのだ。
「サシャ、ところでさっき馬車の音が聞こえなかったけど、君は一体どうやって帰って来たの?」
カインの鋭い質問にサシャはギクリと肩を揺らした。
「あ〜……っと…、辻馬車を使うつもりだったんだけど…、宮廷を出た時にはもう…拾えなくて……」
ヴィクトール子爵家にはお金がない。当然、自前の馬車を所有する余裕もなく、サシャはいつも辻馬車を利用している。
「うん、こんな時間だもんね。もう辻馬車もないだろうね。で? どうやって帰って来たの?」
「……仕方ないから…、歩い…て…」
尻すぼみに答えながら、しれっと目を逸らす。
「はぁぁぁぁっ!? 何を考えてる!!」
一段とドスの効いた大きな声が、小さな屋敷に響いた。
カインの眉間の皺が一層深められ、青い瞳が射殺さんばかりにサシャを睨みつけける。冷気を通り越して、ピシピシと周囲に氷が張り巡らされるような錯覚を覚える。
(ひっ……まずいまずいまずい。過去イチの雷だわ…本気で魔王に見えて来た)
あまりの剣幕にサシャは身を竦め小さくなった。膝が小刻みに震える。
「本当の馬鹿だな、君は! 一度危ない目に遭わないと分からないのかっ!! こんな時間に一人で歩いて帰る令嬢がどこにいる!? 辻馬車がない時はトラヴィス侯爵家の馬車を呼べって言ってあるだろ!?」
「で…でも…家までは歩いても30分くらいだし…侯爵家の馬車を呼んでる間に帰り着いちゃうなって……」
カインの青い瞳の奥がギラリと光り、ビキビキと青筋が立つのが分かった。再び雷が落ちることを覚悟し、サシャは肩を竦めてギュッと目をつぶった。
「はぁぁぁぁぁぁっ……」
思いがけず、大きなため息が降ってきて、サシャはそろりと目を開けた。
カインは片手で額を押さえながら、項垂れている。よく見るとブルブルと体を震わせていて、込み上げる怒りを堪らえようとしているようだ。
(怖っ!!!)
ここでは、下手なことを言うべきではない。そう判断してサシャは息を潜める。
しばしの沈黙。
やがてカインはゆっくりと顔を上げた。
「分かった…、君に常識を求めるのが間違っていた。明日から毎日、勤務時間が終わったらに君が研究室に残ってないか、僕が様子を見に行くことにしよう」
「ふぇぇっ?!」
思わず漏らした間の抜けた声に、再びカインにギロリと睨まれた。
でも、毎日研究室に追い出しに来られたのでは堪らない。自分にも自由にする権利はあるはずだ。サシャは勇気を振り絞って反論する。
「で…でも、カインだって自分の仕事があるじゃない? 毎日なんて……そんなの無理でしょ? …そこまでしなくても……」
「だったら、早く家に帰れ。簡単なことだ」
サシャの反論は、ばっさりと切り捨てられた。
あまりにも横暴だ。
ぐぬぬぬっとサシャは唇を噛んだ。いつもいつも説教ばかり。いい加減、サシャも大人なのだから放っておいてほしい。
「な…何よっ!どうしてそこまで私に干渉するのよ!! カインだって、別に私のことなんか放っておけば…」
「僕に指図をするな!! いつも言ってるだろ?」
カインは、すかさずサシャの言葉に被せてきた。
「もう話は終わりだ。さっさと部屋に行け!」
カインは、不快そうに眉間に深い皺を寄せたまま、突然説教を終えた。そして、早く行けと言わんばかりにプイと顔を背けた。
いつもカインはこんな調子だ。保護者のようにサシャの行動を監視して、ああしろこうしろと言ってばかり。
そしてサシャにはあれこれ言う癖に、サシャがカインに対して何か言うことを許さない。
言いたいことは山ほどあるが、今の内にサッサと退散するのが得策だ。
サシャがカインの横を走り抜けようと、一歩を踏み出した瞬間。
「うぉぁっ!」
サシャは足をもつらせて、ズベェェッと顔からコケてしまった。
(な…情けない……)
「……サシャ…」
ムクリと顔を上げると、カインが戸惑い顔でサシャを見下ろしていた。
サシャは無言でヨイショと立ち上がると、急いでその場から走り去った。
こんな時でも、カインは絶対にサシャに手を貸してくれない。それに、サシャは見逃さなかった。サシャが転ける瞬間、カインがサッと避けたことを。
つまり…、カインは絶対にサシャに触れたくない程、サシャのことを嫌っているのだ。
これ程までに嫌われた原因はサシャにある。それは、十分に理解している。幼い頃にサシャがカインの自尊心を踏みにじってしまったから。
(でも…、だったら、もう私に関わらないでくれればいいのに…)
自室に駆け込み、バタンとドアを閉めた瞬間、不覚にも涙がジワリとにじんだ。
(なによ…)
もうとっくに嫌われている事を受け入れたつもりだけれど、こんな時はズシリと心に響く。
コンコンッとバルコニーの窓を叩く音でサシャは顔を上げた。
「ラナ!」
バルコニーの方に駆け寄り窓を開けると、薄い灰色の小ぶりの竜が顔を出した。
「心配して来てくれたの? 大丈夫よ、誰にも見られてないわ」
サシャは愛おしそうに竜の首を撫でた。
この竜はサシャがラナと名付けた野生の竜だ。
幼い時からサシャは竜が大好きで、竜の出てくる物語に心を躍らせ、大空を竜に跨って飛ぶ竜騎士を見ては、憧れの眼差しでキラキラと瞳を輝かせていた。
サシャが13歳の時、魔獣に襲われて瀕死の状態だったラナを助けた事から、ラナとの交流が始まった。今ではラナはサシャにとても懐いていて、何かとサシャを助けてくれる。
さっき宮廷から帰宅する時も、本当は、ラナの背に乗って帰って来たのだ。
サシャは度々ラナの背に乗せてもらっては、空を飛び回っている。
本来、人が竜に乗れるようになるためには、伝統的な儀式に則り、竜がその人の従竜になる誓いを交わす必要がある。竜は気高い生き物で、自分が心から信頼する人間でなければ、従竜の誓いを立てることはない。
また、ここキンドリル王国では、従竜の誓いが成立した竜と使役者に、国への登録が義務づけられている。竜は、この国では神聖な生き物とされている一方で、獰猛な一面もあるため、従竜であっても、しっかりと管理され、普段は竜舎に入れられておく必要があるのだ。
ラナとサシャは従竜の誓いを交わしたことはないのだが、ラナはこうやってサシャを慕い、その背に乗ることを許し、何かと助けてくれている。
ラナは自由に大空を飛び回ることが大好きな野生の竜だ。ラナを窮屈な竜舎に閉じ込めることなど考えられない。
だから、こうやって誰にも見られないようにラナとの交流を続けている。
不思議なことにラナも人目を避けることがとても上手で、サシャは頻繁にラナと会ったり、背に乗って飛んだりしているのだが、それを人に見られたことは一度もないのだ。
サシャとラナの交流は、二人だけの秘密だ。
グルルルッと喉を鳴らしながら、ラナがサシャの腰に首を絡めてきた。ラナはいつも、こうやってサシャに甘えてくる。
「なあに? 慰めてくれてるの?」
サシャはラナの首筋を撫でながら、ギュッと抱きしめた。
「ありがとう…。久しぶりに落ち込んじゃった。カインと仲直りするのは、無理だって分かってるのにね…」
ラナの温もりと喉を鳴らす声が心地よい。
サシャはしばらくの間、そうやってラナを撫で続けた。




