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前世安全管理者の異世界ホワイト戦記~死にたくないので安全部隊を作ったら、勘違いで不敗の魔導名将に。夜の放電メンテナンスを求められて困っています【R15】~  作者: トール
第零章:準備とカイゼンの前日譚

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第002話:被災事故報告書と、拭えぬ無力感

 


「おい、ルディ! 見てくれよ、この槍! 父上から譲り受けたんだ。少し錆びているが、磨けばまだ十分に敵の鎧を貫ける!」


 大陸暦一二五三年、春の陽光が差し込む男爵邸の馬場。


 十五歳になったばかりの三兄ウルリヒ・フォン・バウムガルトは、嬉しそうに安物の槍を振り回していた。


 使い古された鉄兜は彼の頭には少し大きく、歩くたびにカチャカチャと情けない金属音を立てている。そんなみすぼらしい装備であるにもかかわらず、その若い瞳には、およそ戦場の凄惨さを知らない者特有の、純粋で無垢な「憧れ」が宿っていた。


 それを見つめるルディ(十四歳)は、胃の腑が雑巾のようにねじ切れるほどの焦燥感と、やり場のない無力感に苛まれていた。


(……正気かよ。あんな錆びかけた槍と、サイズも合わない鉄兜、おまけに動員された小作人わずか五名。そんな「安全基準外の極小下請けチーム」で、隣国オルテンシアのプロの軽騎兵と殺し合いに行かせるつもりか?)


 前世のサラリーマン時代、ルディは何度も「現場の悲劇」を見てきた。


 工期の短縮を強要された危険な建設現場。命綱なしで高所作業に挑まされた若き派遣労働者が、足を滑らせて無残に転落していく光景。そんな時、犠牲者の家族が流す涙を、ルディは安全管理者として嫌というほど目にしてきたのだ。


 目の前で嬉しそうに笑っているウルリヒは、一歳しか歳が離れておらず、実家の中で最も気が合う兄だった。ルディが変な柔軟体操や算術を試していても、ウルリヒだけは「ルディは本当に物知りだな!」と邪気なく笑い、いつも側にいてくれた。


 そんな兄が今、何の防護措置も、訓練も、十分な予算もないまま、最前線という名の「超絶ブラック危険エリア」へ放り出されようとしている。


「絶対に無茶はしないでください、ウルリヒ兄上。敵の騎兵が突撃してきたら、名誉なんて捨てて、そこの小作人たちを盾にでもして……いや、小作人たちも連れて、全速力で逃げてください。戦場で最も価値のある成果は、大手柄ではなく『完全無災害での帰宅』なんです」


「ははは! 何を言ってるんだ、ルディ。バウムガルトの騎士が、敵に背中を見せられるわけがないだろう! 辺境伯様の前で大手柄を立てて、男爵家を今より豊かにしてみせるさ。そうすれば、お前だって美味い肉が食えるだろ?」


 ウルリヒは無邪気だった。中世の絵空事のようなブラック精神論(騎士道精神)を、骨の髄まで信じ込んでいる。


 引き止める言葉など、彼の耳には届かない。ならば、せめて。


「……ウルリヒ兄上。出征の前に、長兄上と次兄上へ挨拶に行かれるのでしょう? 俺も、鞄持ちとして付いていかせてください」


「ん? ああ、もちろんいいぞ! 戦場を生き抜いた兄上たちの教訓を聞くのは、僕にとっても最大の学びだからな!」


 ウルリヒは快諾し、ルディの肩を叩いた。


 ルディが同行する理由は一つ。


 生き残った長兄アダルベルト、次兄バルトルト――彼らの肉体に刻まれた「凄惨な被災事例」を直接回収し、来年の自分の番に向けて、徹底的な危険源特定リスクアセスメントを行うためだった。


 * * *


「――入れ」


 男爵邸の奥、薄暗い執務室。


 重苦しい羊皮紙の匂いが漂う部屋で、長兄アダルベルト(十九歳)は、机の上に広げた戦域地図を虚ろな目で見つめていた。


 彼が一昨年の「スプリング・キャンペーン」で先陣を切り、華々しい突撃を行った結果が、その手元に置かれた頑丈な一本の「杖」だった。


 アダルベルトは、引きずり、不自然な角度に曲がったままの左足をさすりながら、静かに弟たちを見つめた。


「ウルリヒか。いよいよ、お前が前線に赴くのだな」


「はい、長兄上! バウムガルトの名に恥じぬよう、粉骨砕身の覚悟で戦ってまいります!」


「ふん……。粉骨砕身、か」


 アダルベルトの口元から、自嘲めいた乾いた笑いが漏れた。彼はゆっくりと、自分の潰れた左膝を叩く。カチカチと、関節から鈍い、不気味な音が響く。


「ウルリヒ、よく覚えておけ。戦場で最もお前の命を奪うのは、きらびやかな敵の刃ではない。お前自身が誇り高く身に纏う『己の鎧』、そして足元の『泥』だ」


「泥、ですか?」


「そうだ」


 アダルベルトの目が、一瞬にして凄惨な記憶の奥へと据わった。


「一昨年、私は雨上がりの斜面で、オルテンシアの軽騎兵と対峙した。私は愛馬を駆り、敵の横腹へ突撃を敢行した。だが、小高い丘の斜面は水分を含んだ粘土質の泥に覆われていた。馬が滑り、落馬した私は徒歩で踏ん張ろうとした。その瞬間だ。泥で左足が滑り、斜面へ倒れ込んだ。だが、私の身体には三十キロを超える重装の鉄板鎧が固定されていた。自重と、不自然に滑る泥、そして踏ん張ろうとした私の筋肉――それらすべてのモーメントが一瞬にして左膝の一点に集中した」


 アダルベルトは、思い出すのも忌まわしいというように眉間を深く歪めた。


「バキッ、と。耳障りな骨の砕ける音が響き、私の膝関節は内側へへし折れた。叫ぶことすらできず、私はただ泥の中に転がる、重い『鉄のゴミ』となった。起き上がれない私に、敵の貧相な農民兵どもが群がり、喉元の隙間へ錆びた短剣をねじ込もうと押し寄せてきた。あの時の冷たい泥の臭いと死への恐怖は、今でも毎夜、私の夢を支配している……。歩けぬ騎士は、戦場ではただの『動く棺桶』だ。足元にだけは、絶対に気を配れ」


「――おお! なんという貴重な教訓!」


 ウルリヒは目を輝かせ、拳を強く握りしめた。


「泥濘であっても体幹を崩さぬよう、下半身を極限まで鍛え抜き、重い荷物を背負って泥の上を走り抜ける過酷な特訓を、今日から自分に課すようにします!」


(……バカか。違う、全く違う。それは精神論や筋力の問題じゃない!)


 その傍らで、ルディの脳内スプレッドシートは、凄まじい速度で重大労災カルテを処理していた。


【重大ハザード分類:滑り・転倒による墜落・骨折、過大トルクによる骨格系破壊】


危険源リスク:水分を帯びた粘土不整地における摩擦係数の低下、および金属製防具(約三十キロ)がもたらす慣性力の過負荷】


(現代の建設現場なら、足場の摩擦係数を無視した時点で一発営業停止だ! それを根性で乗り切ろうとするから膝が粉砕されるんだ!)


【根本的対策(サバイバル計画への落とし込み):


 一、土木魔法【土壌安定ソイルコンパクション】による、自軍の退路の摩擦係数維持。


 二、足元の物理的カイゼン。ブーツの底に金属製の「滑り止めスタッド」を打ち込み、内側にコルクとフェルトを重ねた「二重構造の衝撃吸収インソール(中敷き)」を仕込む。


 三、そもそも金属製の重すぎるフルプレートは不要。体幹の主要臓器(心臓、肺)のみを守る軽量な防刃裏地付きベストの開発】


「長兄上、貴重な『被災事例報告』、確かに拝受いたしました」


 ルディは一礼し、羊皮紙の手帳にガリガリとペンを走らせる。


 アダルベルトは、その四男の様子を怪訝そうに見つめていた。


 * * *


 続いて訪れたのは、邸の裏手にある荒涼とした訓練場だった。


 昨年の出征から帰還した次兄バルトルト(十七歳)は、春の暖かさだというのに、右手に分厚い包帯を巻き、木剣をぎこちなく左手だけで振るっていた。


 彼の右頬には、まるで腐った土がこびりついたような、黒ずんだ大きな瘢痕が残っている。かつての快活だった姿はどこにもなく、その目は何かに怯えるように絶えず周囲を警戒していた。


「バルトルト兄上、出征の挨拶に参りました!」


 ウルリヒの声に、バルトルトはびくりと肩を震わせ、木剣を落としそうになりながら振り返った。


「……ウルリヒ、か。行くのか。あの、地獄へ」


「はい! 男爵家の盾として、オルテンシアの兵を蹴散らしてまいります!」


「馬鹿を言うな……!」


 バルトルトは、絞り出すような、掠れた声で遮った。


 彼はゆっくりと右手の包帯をほどいて見せる。そこにあったのは、細く萎び、指先がまるで枯れ木のように歪に硬直した、使い物にならない右腕だった。


「敵の剣など、掠り傷ならどうということはない。だがな、ウルリヒ……。『傷口に触れる土と水』だけは、絶対に、絶対に許すな」


「傷口の土と、水……?」


 バルトルトは、自分の右頬の醜い化膿痕を指先でなぞった。


「昨年、退却戦の最中、私は右腕にわずか三センチほどの掠り傷を負った。ただの小枝で擦ったような、血が滲む程度の傷だ。だが、泥濘を這いずり回り、泥水を浴びながら逃げ延びた翌朝……私の右腕は、丸太のように膨れ上がっていた。肉の内側で、何かが脈打ち、焼け付くような熱を発していた。そこからは地獄だ。意識を失い、三日三晩、死の淵を彷徨った。傷口からは濁った腐汁が流れ出し、医者には腕をノコギリで切り落とすしかないと言われた。奇跡的に一命は取り留めたが、私の右腕は二度と動かん」


 次兄は、震える左手で動かない右腕を抱きしめた。その額には、恐怖による脂汗が滲んでいる。


「それだけではない。喉が渇いたからと、川の水をそのまま飲むな。そこには上流で死んだ兵士や馬の腐肉が溶け出している。川の水を一口でも飲んだ兵は、翌日には内臓をかきむしられるような痛みに襲われ、鎧の股から泥のような糞尿を垂れ流しながら、動けなくなって死んでいく。私が見た死者の大半は、敵に斬られたのではない。泥と水に『内側から蝕まれて』、惨めにのたうち回って死んだのだ……!」


「血の腐り病は、不浄なるオルテンシアの魔術師どもの呪いですね!」


 ウルリヒは悲壮な顔で、しかし力強く胸を叩いた。


「日頃から身を清め、司祭様にたっぷりとお布施をして祝福された聖水を携行し、傷を負うたびにその聖水で清めるようにします! 生水に関しても、神の加護を祈りながら飲むようにいたします!」


(――違う! 呪いでもなんでもない! それは完全な生物的ハザードだ!)


 ルディは、冷や汗を流しながら、手帳の次のページへ猛烈な勢いで万能の対策を構築していた。


(前世の化学プラントで言えば、有毒ガスが充満した配管のバルブを、マスクなしで開けさせるようなものだ! 中世の不潔な井戸や泥水をそのまま放置することは、即刻「事業停止」レベルの凄惨な集団食中毒ハザードに他ならない! 神の加護で赤痢やコレラが防げるなら、俺たち労働安全コンサルタントはとっくに失業している!)


【重大ハザード分類:有害生物因子(破傷風菌、化膿レンサ球菌)の接触、経口感染(コレラ、赤痢などの集団食中毒)】


危険源リスク:創傷部位への嫌気性細菌の侵入、汚染された水源の直接摂取による戦闘力の完全喪失】


【根本的対策(サバイバル計画への落とし込み):


 一、創傷管理ファーストエイドの徹底。領内で採れる強い果実酒をさらに蒸留し、高濃度アルコール(消毒液)を精製・携行する。さらに、傷口に付着した泥を確実に洗い流すための「自家製純石鹸」を開発・配布する。


 二、飲料水ラインの完全一元管理(HACCPの導入)。兵士たちの個別給水を禁止。専門の「炊事班」を雇用し、すべての飲料水を「一度完全に沸騰させた麦茶」、あるいは塩とクエン酸を混ぜた経口補水液(ORS)としてのみ支給する。


 三、野営地ワークプレイスの徹底的な5S。簡易トイレを、水源・食料保管庫から下流かつ十五メートル以上離れた場所に隔離設置し、ハエや泥経由の汚染を根絶する】


「次兄上、この『労働災害被災カルテ』、確かに脳内にインポートいたしました」


 ルディは、冷徹な目でバルトルトに深く一礼した。


 バルトルトは、十四歳の四男が「労働災害」だの「インポート」だのという奇妙な言葉を呟きながら、鬼のような形相でメモを取る姿に、ただ唖然とするばかりだった。


 * * *


「――よし! 長兄上と次兄上からの、偉大なる武勇の教訓は完璧に理解したぞ!」


 邸の門前。


 馬にまたがり、いよいよ出征の途につこうとする三兄ウルリヒは、すこぶる機嫌が良かった。


 彼は、馬の脇に立ち、未だに手帳を睨みつけながら「軟化コンパクション稼働率……、アルコール殺菌率……」とブツブツ呟いている弟のルディを見下ろし、その頭をガシガシと乱暴に、しかし深い愛情を込めて撫で回した。


「ルディ、お前は本当に優しい奴だな! 僕が死なないように、そんなに一生懸命、兄上たちの戦い振りを記録して、勉強してくれていたんだな!」


「……え?」


「わかっているさ。お前は来年、十五歳になって初陣を迎える。怖くないはずがない。だが、安心しろ! この僕が、戦場でバウムガルトの圧倒的な強さを見せつけて、オルテンシアの奴らを震え上がらせてやる。お前の代には、戦が怖くなくなるくらいにな!」


 ウルリヒは、最高の笑顔で言った。


 彼の中に悪意はこれっぽっちもない。ただ、歳の近い可愛い弟が、自分のために熱心に戦術ノートを取ってくれているのだと、一ミリの疑いもなく「優しい勘違い」をしているのだ。


「ウルリヒ兄上、俺はただ――」


「行ってくる! 父上、ハンス、そしてルディ! 僕の初陣の武功を楽しみにしていてくれ!」


 槍を掲げ、わずか五人の小作人たちを引き連れて、ウルリヒは意気揚々と男爵領を旅立っていった。


 パカパカと、頼りない蹄の音が遠ざかっていく。


 ルディは、その背中を、ただ静かに見送ることしかできなかった。


 今の自分には、兄を止める力も、彼に最新の安全装備を与える予算もない。ただ、胸の奥を焦がすような無力感だけが残されていた。


 ルディは、ゆっくりと自分の手帳を閉じた。


 その表紙には、前世のシンボルであった「緑色の十字マーク(安全衛生)」が、歪な手書きでひっそりと描かれている。


「……中世の戦場は、労働基準監督署が見たら一秒で操業停止命令を下すレベルの、最悪のブラック現場だ」


 ルディの瞳から、完全に甘えや怠惰が消え失せ、かつて数々の危険現場を「無災害」に導いてきた、冷徹なプロフェッショナルの輝きが戻っていた。


「ウルリヒ兄上。絶対に、生きて帰ってきてください。俺の持たせた、気休めのレモン塩漬けと石鹸が役に立つことを祈る。……そして、来年だ」


 青空を見上げるルディの拳が、白くなるほど強く握りしめられる。


「来年、俺に順番が回ってきたその時は。


 俺が率いる五十人の部下全員を、怪我一つない「労災ゼロ」で、この実家に帰してみせる。俺の傀儡としての有給スローライフを邪魔するハザードは、上流の工程から、すべて根こそぎ叩き潰してやる――!」


 旅立っていったウルリヒの「優しく、しかし悲壮な勘違い」を胸に抱いたまま、ルディは迫りくる「来年の自分の番」に向けて、より泥臭く、より冷徹な、前代未聞の生存対策(ホワイト内政)キャンペーンの仕込みを本格的に開始するのだった。




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