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前世安全管理者の異世界ホワイト戦記~死にたくないので安全部隊を作ったら、勘違いで不敗の魔導名将に。夜の放電メンテナンスを求められて困っています【R15】~  作者: トール
第零章:準備とカイゼンの前日譚

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第001話:有給生活のために、まずは安全帯を締めろ

 


 大陸暦一二五三年、春。


 バウムガルト男爵領を囲むなだらかな山脈には、雪解け水を含んだ瑞々しい青草が芽吹き始めていた。中世ヨーロッパに酷似したこの地において、本来なら詩人が恋の歌でも口ずさむような、穏やかで美しい季節である。


 しかし、男爵領の広場に立つルディ・フォン・バウムガルト(十四歳)の胸中は、およそ春ののどかさとはかけ離れた「最悪の焦燥感」に支配されていた。


(……有給生活のために、まずは安全帯を締めろ。いや、この世界には安全帯どころか、ヘルメットすら安物の革製しかないんだが)


 ルディは、冷や汗が背中を伝うのを感じながら、目の前に整列する四十数名の農民たちを見据えた。


 彼らは、普段は鍬や鎌を握っているだけの貧相な小作人たちだ。泥に汚れた麻のチュニックをまとい、サイズの合わない粗末なサンダルを履き、中にはおぼつかない足取りで立っている者もいる。


「いいか、全員。俺の真似をしろ。まず両脚を肩幅に開き、深く息を吸いながら両腕を天に突き上げる。……そうだ、指の先までしっかり伸ばせ。次はそのまま上体を前に倒し、足首を掴むんだ。おい、そこのペーター、膝を曲げるな。アキレス腱とハムストリングスを十分に伸長させろ!行軍中の肉離れや捻挫は『重大な墜落・転倒ハザード』だ!」


 ルディの鋭い指示に、農民たちは困惑しながらも、必死になって屈伸運動を繰り返している。中世の人間にとって、運動の前に「ストレッチ」という肉体の調整を行う概念など存在しない。


(前世の工場でも、作業前の準備運動を怠った熟練工がちょっとした段差でアキレス腱を切り、数ヶ月の労災休業に追い込まれた事例を腐るほど見てきた。この泥だらけで足場の悪い中世の戦場において、柔軟性の欠如は即ち死を意味する!)


 ルディは心の中で、前世の安全衛生管理者としての経験から激しく警鐘を鳴らしていた。


 その光景を、広場の隅から熱い、あまりにも熱い眼差しで見つめている老人がいた。


 男爵家に何十年も仕える老騎士、ハンス(五十八歳)である。彼は白髪混じりの髭を震わせ、感動のあまり目頭を押さえていた。


(おお……おおおっ!なんという深謀遠慮。農民どもに奇妙な踊りをさせているとばかり思っていたが、あれこそは古代の兵法書にのみ記されていたという、兵の肉体と精神を極限まで調律し、戦場での油断を未然に排除する神聖なる軍事儀礼……!ルディ様は、この者たちの血の巡りを良くし、戦の恐怖から解放しようとしておられるのだ!)


 ハンスの脳内では、ルディのただのラジオ体操が「天災級の魔導戦術にも等しい奇跡の儀式」として完全にバグ解釈されていた。


(弱冠十四歳にして、ルディ様はすでに一軍を率いる将としての『器』を完全に顕現させておられる。周囲の貴族どもが兵を使い捨てにする中、ルディ様だけは民草の命を慈しみ、絶対的な防護を与えようとなさっているのだ……!我が男爵家の未来は明るい!)


(いや、ただのラジオ体操第一だ。ハンス、頼むからそんなキラキラした目で俺を見るな。胃に穴が空く)


 ルディは心の中で血の混じったため息を吐いた。


 ハンスは勘違いしているが、ルディがこれほど必死に農民たちを鍛え、安全を説いているのには、あまりにも現実的で、かつ身勝手な理由があった。


 前世のルディは、日本の大手化学メーカーで働く三十四歳の「安全衛生管理者」だった。


 工場の高所作業、危険物の取り扱い、深夜労働のシフト調整――常に「労災ゼロ」「安全第一」を最優先に考え、基準を満たさない下請け業者には怒号を浴びせ、指差し確認を徹底させてきた実務のプロである。


 それが、不慮の事故でこの「レームガルト王国」の弱小貴族、バウムガルト男爵家の四男として転生してしまった。


 最初は「貴族の四男なら、実家の政務や面倒な義務からは解放され、適当に傀儡としておこぼれの有給をもらい、可愛い女の子たちを後宮に囲ってスローライフを送れる」と歓喜した。


 だが、その甘い見通しは、この世界の「動員ルール」というブラック極まりないシステムを知った瞬間に粉々に砕け散った。


 レームガルト王国は、地方貴族が割拠する戦国乱世にある。バウムガルト男爵家は、東部の大領主であるゼーフェルト辺境伯の傘下に属していた。


 そして、この世界では「青草が生えそろう春」になると、隣国オルテンシア王国との国境紛争、通称「スプリング・キャンペーン」が毎年発生するのだ。


 バウムガルト男爵家は、上位領主への義務として、毎年一名の「指揮官」と、五十名の歩兵を動員して前線へ送り出さねばならない。


 一昨年。長兄アダルベルトが華々しく突撃し、敵の軽騎兵と交戦。泥濘地で足元を滑らせ、鎧の自重で膝関節を粉砕されて帰還した。現在も領内で療養中の、実質的な「半不随」である。


 昨年。次兄バルトルトが出動。冬の泥沼のような退却戦に巻き込まれ、重すぎる鉄の鎖帷子が体温を奪い、凍死寸前の低体温症に罹患。顔の右半分は泥水の嫌気性細菌によって痛々しく化膿し、現在は精神的なトラウマを抱えて引きこもっている。


 そして今年。現在、まさに隣国オルテンシアとの国境地帯へ、三兄ウルリヒ(十五歳)が出征していった。


(長兄は動けない。次兄は病んでいる。三兄は戦地。……つまり、来年(大陸暦一二五四年・春)の動員において、四男である自分の順番が回ってくる確率は、数学的にも政治的にも「一〇〇パーセント」確定している)


 ルディの脳内で、冷徹な数理的現実が警告灯を点滅させていた。


「中世の戦場なんて、現代の基準で言えば『違法な高所作業を、安全帯なし、ヘルメットなしでやらせる超極悪ブラック現場』よりタチが悪い!労災保険もない!死んだら『騎士道の誉れ』の一言で処理される!冗談じゃない。俺は死んでも死にたくないし、ケガだって指一本したくないんだ!」


 ルディは、前世で培った「ハザード特定」の思考をフル稼働させていた。


 中世の戦場における死亡原因の統計――ルディの脳内データによれば、直接の戦闘による死亡率は全体のわずか一割に過ぎない。残りの九割は、不衛生な飲料水による集団食中毒(赤痢・コレラ)、傷口への泥の付着による破傷風、栄養不足(ビタミンC欠乏による壊血病)、そして行軍中の脱水症状や低体温症といった「二次災害」なのだ。


(前世の化学プラントで言えば、有毒ガスの漏洩を放置したまま、マスクなしで作業員を突入させるようなものだ。中世の不潔な井戸水や泥濘をそのまま放置することは、即刻「営業停止(集団食中毒ハザード)」レベルの生物学的ハザードに他ならない!これら上流のプロセス(見えざる危険源)を事前に一掃できれば、生存率は飛躍的に跳ね上がる!)


「よし、体操はそこまでだ!次は全員、整列して右手を前に出せ!」


 ルディの号令に、農民たちが揃って右手を突き出す。


「目の前を指差し、呼称する!手順はこうだ。まず足元を見て『足元ヨシ!』、次に互いの装備を指さして『服装ヨシ!』、最後に空を見上げて『頭上(流れ矢)ヨシ!』だ。全員、大きな声で復唱しろ!」


「「「よ、よし……?」」」


 農民たちの弱々しい声が響く。ルディは声を荒らげた。


「声が小さい!作業開始前のTBMツールボックスミーティングは全員の意識を同調させ、不注意による労働災害を防ぐために不可欠なんだ!もう一度!『安全第一、ヨシ!』」


「「「安全第一、ヨシ!!」」」


 広場に響き渡る農民たちの野太い絶叫。


 ハンスはそれを聞き、もう滝のような涙を流して地面に平伏さんばかりだった。


(なんと……なんという慈悲深きお言葉!ルディ様は、命の安い徴募兵たちの命を「第一」と考えてくださっている!血統にあぐらをかく傲慢な貴族どものように、兵を使い捨ての盾と見なさず、全員を無傷で実家に帰すための「絶対防護の儀(安全第一)」を叩き込んでおられるのだ……!このハンス、来年の初陣では、この命に代えても若き聖領主・ルディ様をお守りいたそう!)


 ルディはハンスの凄まじい「バグ解釈(狂信)」に気づく様子もなく、手元に抱えた羊皮紙に、ガリガリと鳥の羽ペンで書き込んでいく。


「あと一年。俺に順番が回ってくるまでに、徹底的に仕込む。まず、不衛生な水による下痢を防ぐための『炊事班の雇用と一元管理(HACCP)』。傷口の化膿を防ぐための『自家製純石鹸の開発』。冬の低体温症を防ぐための『防寒衣料ダウンベストの開発』。そして、いざ戦闘が始まったら、一番に敵から逃げ切るための『足元の5S(整理・整頓)とカイゼン』だ……」


 ルディの瞳には、かつて化学工場で数々の安全対策を成功させてきた、プロの労働安全コンサルタントとしての鋭い光が宿っていた。


 誰が名誉のために突撃などするものか。誰が騎士道の誉れのために死んでやるものか。


 生き残り、五体満足で実家に帰還し、周囲を完璧にコントロールした傀儡となって、極上のスローライフを構築する。そのための「無災害キャンペーン」は、今この瞬間から始まったのだ。


「全作業員、作業開始だ!今日も一日、安全作業でいこう。――ヨシ!」


「「「ヨシ!!!」」」


 この「怠惰な四男」が、のちに大陸のすべての勢力から「あらゆる死線を無傷で潜り抜ける不敗の魔導名将」と恐れられ、美しきヒロインたちに囲まれた贅沢な後宮(ホワイト職場)を築くことになるとは、この時のルディはまだ知る由もなかった。


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