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夜明けと共に蝋梅が集合場所行くと、いつもの面子の中に見知った顔がいた。初めてのことに、足を止めずにそのまま彼の元へ向かう。
「櫟さん」
呼ばれて彼は、ぱあっと顔を明るくした。尻尾をぶんぶん振る大型犬のようだ。
「今日はあなたも来てくれるのね」
「何かあれば俺と相棒が必ずお守りしますから」
櫟はどんと胸を叩いてみせた。その彼の後ろで、拱手している兵がいる。恐縮しているのか、顔を上げさえしない。
「樟っていいます。ちょっと火傷の痕が気になるってことで、顔を覆ってます。ご容赦ください」
本人に代わって、櫟が紹介した。塔の人間は滅多に外部と触れ合うことがない。中には畏怖の念を抱く者さえいる。こんな反応は慣れっこだ。よろしくね、と声をかけると深々と礼をして去っていった。
(それにしても)
細い細い糸のようなもやが、つうと見えて蝋梅は視線をそちらへやった。その先いるのは、やはり玫瑰。
(また戻ってる)
盛んになる気配はない。あくまでうっすらとしたもや程度だが、あまり良くない気を発しているのは確かだ。
(消さずに辿った方がいいかしら。今日は泊まりがけだから、眠っている間にやれば気づかれないかも)
その当人は、近づいてくると馬車へ乗るよう促す。袖口からは、いくつもの腕輪が見えた。女官たちがつけているのを何度となく見かけている。最新の流行を追う彼女たちだ。見せるのが普通のはずだが、袖口からはちらりと見える程度。
「それ、おまじないの腕輪ですよねえ。そんなにいろいろつけて、叶うんですか? 効果が喧嘩するんじゃありません?」
肩越しに桂花が顔を出す。玫瑰は弾かれたように身を引くと、腕輪を袖で覆った。
「あなたには関係ありません!」
にべもない。蝋梅は腕を凝視した。しかしそこからは特に何も、発することも滅することもしていなかった。
初めは物珍しかった景色、になるところだろうが、時間や人々の営みによってその様子は変わる。そして少しでも、知らなかった光景を見たくて、蝋梅は窓の外を格子越しに眺めた。
馬車が通るのを、みな頭を下げて過ぎゆくのを待つ。そんなふうに頭を下げられるのに慣れていないから、外を見ているとつい居心地が悪くなってしまう。その中の一人に、蝋梅は目を留めた。真っ青な顔で、いかにも具合が悪そうだ。しかし、今の蝋梅の目に映るのは、それだけではない。肩のあたりに、どろどろとした呪いがのしかかっている。
「止めてもらってもいい?」
隣に声をかけると、しばらくして馬車はゆっくりと止まった。裾を持ち上げて降りると、少し引き返す。
沿道にいた者たちは、何事かと顔を見合わせた。蝋梅はそれを意にも介さず、一人の男の前に立つ。そうして、北斗のきらめく手で絡みつく呪いに触れると、さっと祓った。
当人は勿論、周囲も何が起こっているのかわからない。しかし男は首を傾げて、そうして「あれ」と何かに気づいたように呟いた。ぐるぐると肩や首を回してみせる。
「体が軽くなった……?」
「そう。よかった」
僅かに笑むと、蝋梅は馬車へと踵を返す。馬車の前では、玫瑰が恭しく礼をした。
「これほどまでに善行を積まれる方でいらっしゃいましたか。わたくし感服いたしました。きっと殿下の評判も上がりましょう」
蝋梅は目を丸くする。
「善行ってわけじゃないよ。祓うためにいるから祓う。それだけ」
しかし玫瑰は妙に気合が入ってしまったらしい。それからというもの、進む先に顔色の優れないものがいたり、不運が重なっていると聞くと、都度馬車を止めた。
「噂が巡るにしても早すぎる。あらかじめ声でもかけたみたい」
馬車に戻ってひと息つくと、桂花は眉を跳ね上げた。
「そう思うならおやめなさい。誰もあなたの限界を知らないんですよ」
「そうかもしれないけど……」
村にいた時は、些細なことでも引き受けてきた。望の呪いも毎日吸い上げていた。それが当たり前。
これまでは触れなければわからなかったが、見えるようになって〝祓うべき〟の範囲が広がったのは確かだ。
「やっぱりあなたの殿下に告げ口しておくべきでした」
大仰に、桂花はため息をつく。気取った扇子などどこへやら。猫の姿が重なって見えるようだ。
「やめてよ。殿下は大事な仕事をしていらっしゃるんだから」
「たかだか代替わりの儀式の準備でしょう。そんなものは誰かが代われます。でもあなたの代わりはどこにもいないんですよ」
蝋梅は押し黙った。ごとごとと、車輪が回る音が下から響く。兵たちの足音や、防具の金属が触れ合うのも、窓から入り込んでくる。
窓の外を見れば、青々とした稲穂が、空へ向かって伸びていて、その先には真白い雲が聳えていた。強い日差しに目が眩む。細めた目の前を、ふわりと黒い影が横切った。微塵も昏い気など感じない。格子はしっかりと嵌め込まれていて、身を乗り出して見ることはできない。が、羽ばたく様子から、どうやらそれは蝶であるらしかった。それ以上はわからない。
がたごとと車輪は回る。
桂花と目を合わせずにいると、がたりと大きな音をさせて馬車が止まった。
木陰で馬に水を飲ませている間、蝋梅も馬車から降りて湧水に手を浸した。すくって口に含むと、ひんやりとした冷たさが体に染み渡る。
桂花は流し目ひとつで、兵の一人に水を汲ませていた。取り巻きはもう一人いて、扇子で風を送っていた。こっちの方が主人のようだ。呆れて見ていると、梧桐が小さな壺を手にやってきた。
「暑いんで、しょっぱいもの摂ってください」
そう言って手渡してきたのは梅干しだった。しっかりと紫蘇で色づいた梅干しだ。苦手なんですよねえと言いながら、桂花が横から摘んで失敬する。
「刺激物には弱いんですよねえ。でもあなたは食べた方がいいんじゃありませんか」
「ありがとう」
桂花と続けて彼にも礼を言うと、なぜか惑ったような顔をされた。
(相談ごと? 何か災厄を負っているようには見えないけど)
頭から爪先まで眺めるが、怪しい気配はない。そうしていると、この薄墨の衣を纏った青年は、ごつごつした両手を出してきた。鍛錬に励んでいる者の手だ。
蝋梅は望の手を思い出す。優しく引いてくれる手を。
「ツボを押してもかまいませんか。少し楽になると思います」
心なしか眉尻を下げてしまった蝋梅を、心配そうに梧桐は覗き込んできた。目を瞬かせて手を出すと、袖をめくって手首のやや下の方をぎゅっと押す。
「乗り物酔いに効きますから」
乗り物酔いではないのだが、手際のよさに蝋梅は目を見張る。
「詳しいのね」
「親があちこち揉めって言うんで、いろいろ試したんです。さすがに乗り物酔いは後から聞いたんですけどね。他にも試します?」
蝋梅は一も二もなく頷いた。
(覚えておいたら、どこかで使えるかも。お疲れの殿下にもいいかもしれないし!)
梧桐は腕を反対側にしてみたり、親指の付け根を押してみたりと、あちこち反応のいいところを試してゆく。
「あなたの故郷は?」
蝋梅は何の気なしに尋ねた。が、斜め上の顔は、空とは真逆に曇った。
「……故郷、ですか」
思いもよらない反応だ。手が次第にゆっくりとした動きになってゆく。
「……俺の故郷は、」
ややあって、彼は重たげに口を開いた。
「とても桃の花が綺麗なところでした。花飾りをつくるんです。花がある時期はそれを。雪の時は花びらで染めた布を。それで、こんなふうにつけるんです」
近くに咲いていた花を摘むと、梧桐は蝋梅の髪に挿す。淡い桃色の花弁がみずみずしい。険しいような、寂しいような、そんな表情で。瘴気は見えても、何を思うのかは読めない。蝋梅はその顔を、ただただ見つめた。
そんな時。ばきりとはっきり枝が折れる音がした。たまたま踏んで割れたような音ではない。はっとした様子で、梧桐は音の方を向いた。手は既に腰の剣にかけられている。
「どうしたの?」
「いえ、何か視線を感じた気がして」
「呪いではなさそうだけど」
目を凝らすが、呪いのようなもやは見えない。
「見てきます」
そう言って彼は飛び出した。