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新王の即位に関する一連の儀式は、紫霞山での祭祀をもってひとまず完了する。王が宮殿を離れ、直々に向かうこともあって、その準備は常よりも念入りだ。道の整備が可及的すみやかに、それでいて念入りに進められている。
その陣頭指揮を執っているのが王弟である望だ。宮殿から離れ、現場を精力的に回っているという。傍らには、すっかり犬の姿に戻った槃瓠がついてまわり、地元の民にも可愛がられているという。
「長庚さまも、外回りが多かったね」
望の姿に重なるのか、宮殿では久しぶりにその名が上がるようになった。初めは人目を憚るような言われ方だったが、先王はそれに苦い顔など一切しなかった。それどころか、懐かしむような眼差しさえ見せる。小麦色の顔で、人懐こく笑っていた弟を。
臣下は噂しあった。ああやはり、あれは稀代の悪女の仕組んだことだったのだと。
久しぶりに会った望は、かなり日に焼けていた。やや幼さのあった顔立ちが、ぐっと精悍さを増したように思えて、蝋梅はうっとりと目を細めた。彼の腰には、北斗星君から貸し出された剣が帯びられている。
「お借りしたものだから、兄上が来る前に戻しておかないとな」
そう蝋梅の外出許可願いが出されたのが何日も前のこと。貸主が貸主なだけに、許可が下りたものの、牡丹の即日決裁に比べたら速度が落ちた。
「これまでが特別だったのだ」と外出許可が下りた時、菊花が耳打ちした。蝋梅が望に助力する時は、何をおいても優先させよと命じられていたらしい。
大犬の姿になった槃瓠の背に二人で乗って、風になる。何となく毛にツヤが出ているように見えるのは気のせいか。
掴まっていろというお言葉に甘えて、蝋梅は望の肩に顔を埋め、しがみついた。いつもの匂いが、鼻をくすぐる。それがたまらなく蝋梅を幸せな気持ちに浸らせた。
「何だか顔色が悪かったけど。無茶してないだろうな」
「そんなことはございません。殿下のお仕事ぶりこそ、王弟として相応しいものだと風の便りでうかがいました」
「はぐらかすな。この時期は草木が繁茂しているからな。手を焼いているだけだよ。本当は毎日様子を見に行けたらいいんだが」
望は気遣わしげに頬を擦り寄せる。
「後宮にいらっしゃるわけにはまいりませんでしょう」
「早く塔を再建してもらうしかないな」
蝋梅の脳裏に、菊花の話が蘇る。
(おそらくは、再建されても前のようには……)
眼前で長いため息がつかれる。望も同じようなことを思ったのかもしれない。ややあって、口を開いた。
「その耳飾りは?」
蝋梅は二、三瞬きする。そうしてああと思い至った。
「これは、菊花さまからいただいたものです」
「贈り物にしては年季が入っている品だな。紋様は後から付け足してる。何か術でも込めてあるのか?」
さすがによく見ている。何と誤魔化そうか、蝋梅は逡巡した。
「……殿下、これは」
「心配なんだよ。蝋梅は自分から助けを求めたりしないだろう」
抱きしめてくる腕に、力がこもる。ここは正直に。蝋梅は観念した。
「呪いが、触れずとも見えたり聞こえたりするようになったのです。でも、このお陰で聞こえるのは防げるようになりましたし、視界に入るのは目を背ければ何とかなります。ご心配には及びません」
唇が、優しく瞼に触れてくる。愛しむように、そっと長く。同じ唇は、問いを紡いだ。
「どういうのなら、術を込めやすい?」
「え?」
「耳飾り。俺にも贈らせてほしい」
確かに蝋梅の装飾品は、塔で譲り受けたもの以外は全て望から贈られたものだ。いつも通りと言えばいつも通りだが。
「わざわざご用意いただかなくとも。今までにもいただいてますし、殿下にいただいたものに墨をつけるのは勿体ないです」
「俺のじゃダメか?」
しっかりと腰を抱かれ、すぐにでも口付けられそうな位置で畳み掛けられる。とにかく顔がいい。声もいい。蝋梅は、瞬く間に耳まで朱に染まる。
「殿下、こんなに押しの強い方でしたか?」
「引いたらダメだって学習したんだよ。それに、妻が必要としているものを夫が買うのは、当然のことだろう」
夫。
これまで〝俺の妃〟とは言われてきたが、今度は新たな表現方法で攻めてくる。蝋梅は、それこそ茹であげられてのぼせたタコのようになった。
「あの、今までにいただいたような小さな細工のものですと、書き込みにくくて。でも派手なのはあまり……」
そう告げると、彼はわかったと満足げに頷く。
「似合いそうなのを用意する」
今が冬であったなら。凍てつく北風が頬を冷やしただろう。しかし南風は少しとして冷ましてくれる気配がない。
(これくらい宮殿で生き抜くためには基本中の基本。剣術でいうところの素振りみたいなもの。私は目の前で素振りされています。平常心平常心)
しかし負けっぱなしで引き下がる蝋梅ではない。娯楽もなく疲労の溜まった先達が、面白そうだからこれくらいぶちかましてきなさいと、伝授してくれた技があるのだ。
なるべく余裕があるふうに。表情を作って、落ちないように望に腕を絡める。
「ありがとうございます、望さま」
彼の視界を自分で満たして、名を囁く。しかし。望は思いきり固まった。蝋梅は面食らった。
「お、お嫌でしたか?」
目の前の彼は、勢いよくかぶりを振る。
「そうじゃなくて、」
密着したところからばくばくと、大きな鼓動が聞こえる。それはどうも、自身のものではなくこの青年のものであるらしかった。日に焼けたことでわかりづらいが、彼の顔も早すぎる夕暮れに変わっている。
「初めて、呼んでくれた……名前」
抱きしめる腕の力が増す。
「やっと、やっとだ……蝋梅なら、敬称もつけなくていいんだぞ。これからもずっとそれで」
感極まったように、望は目を潤ませてくる。
「い、一回だけです! きちんと分別はつけますから!」
「二人きりの時だけでも」
「殿下で呼び慣れてしまいましたので!」
一度は引いたはずの熱が、また全身に波及した。
作業休みの日になっているだけあって、天公廟に人気はなかった。しかし以前来たときよりも隅々まで清められ、磨き上げられている。
ひと通り参拝すると、二人はその一角に祀られた神像の前に立った。他よりも黒々と塗られたそれは、北斗星君と側に書かれていた。望は改めて拝礼し、剣を返す。顔を上げてから、蝋梅はその像をまじまじと見上げた。
厳格そうな表情に造られている。彼も表情をあまり崩さなかったが、どこか感情が滲み出ているようにも感ぜられた。
「北斗星君さま」
呼びかけに応じる声はない。手の印も、反応はない。
(ああ、もう終わったんだ)
蝋梅は改めて実感した。
木々の間を抜けてきた風は、生命力と清涼感に溢れている。下界とは切り離されたような不思議な力。以前はそれが、親しく呼びかけてくるようだった。近しいものだと。あなたもこの中の一なのだと。
しかし今は。蝋梅は目を伏せた。
「ありがとうございました」
燭台の火がちろちろと揺れている。一瞬大きく揺れて、消えたかと思うとまたついた。望は扉の方を見やる。
いくつもの火が消えた一瞬の間に、一つの影が室内に入り込んでいた。声を上げれば、警護の兵が飛んでくるだろう。けれども彼はそれをしない。相手はにんまりと笑んで、軽やかに机に乗った。白猫の体が、ぼんやりと照らし出される。
「どうしました、あの無能扱いされていた第二王子が、こんなに遅くまで」
「蝋梅は眠れたのか」
返事をせずに、望は尋ねる。白猫の方も気にするそぶりも見せずに返答した。
「今のところは。ただ、一度眠りにつけても、すぐ起きてしまうこともあるようですし。それは何とも」
「そうか……」
つい筆を持つ手に力が入る。筆を置くと、窓の外を見た。葉を茂らせた蝋梅の樹が、月の光を浴びている。白い光を浴びたそれは、陽の光の元よりも儚げに見えた。
(少し痩せたか)
昼間腕の中にいた感触を、望は思い起こす。人々の鬱憤が、見えて、聞こえて、気持ちがよいはずがない。いくら呪いに慣れていたとしても。
別れ際に彼女の背中は振り返らなかった。後宮の門に吸い込まれて、それきり。
「いっそ攫ってしまえばいいのに。その覚悟もないんですね。兄王と彼女、どちらが大切なんです?」
「まずは正攻法で、だよ。無計画に飛び出しても仕方ないだろ」
まあそうですね、と白猫は毛繕いしながら返した。ひとしきり舐め終わると、てててと机の上を散歩する。広げられた図面をしげしげとながめて、丸くなった。
「ああ、それが噂のあなたの邸宅ですか。随分と部屋が多いじゃありませんか。何人囲うつもりです?」
声に棘がある。望は顔を顰めた。
「子ども部屋だ」
金華猫は、尻尾を揺らして部屋の数を数える。上げられた顔には、呆れた、と書いてあるようだった。
「何人作るおつもりですか?」
「何しに来た」
望はまた答えずに、香箱座りをしている置物をずらして図面を丸める。置物は目を細めた。
「ああ、私宿無しになりそうなんですよ。もう私がここに留まる理由はなくなったでしょう。三人娘が世話しなくなれば、他に寝台を貸してくれる人がいないんですよねえ。でも今更野生になんて戻れないと思いませんか。これは美味しい食事と暖かい寝床を用意して、毛並みの恩を返してもらわないと」
「うちの飼い猫になりにきたってわけか」
丸めた図面を紐で括って、望は奥から酒と杯をひとつとってくる。小さな杯に注がれるそれに舌なめずりしながら、違いますよと白猫は答えた。
「応募しに来たんです。あなた、彼女の侍女を探しているでしょう」
「お前、宮殿内を引っ掻き回しにきたんじゃなかったのか」
さっと、雲が月を隠す。再び明るさを取り戻した時には、机に足を組んで座った美女が酒を飲んでいた。
「もっといい狩場を見つけたんですよ」
美女はにんまりと笑む。そうして手酌で再び酒を満たした。
「あなたも知っているでしょう。あなたを王に担ぎ上げようとしている連中がいることを。権力争いもありますが、高貴さを重視する連中にも呪われた王はウケがよくありません」
望も盃に酒を注ぐ。透明なそれの注がれる音を聴きながら、金華は目を更に細めた。
「彼らにとって一番邪魔なのは、彼女です。外戚になれませんからねえ。彼女の醜聞を血眼になって探している。殺せば星神の怒りに触れるかもしれませんが、彼女自身の落ち度なら、影響ないということでしょう。それに、彼女ならと思う男も少なくありませんからね。先日の舞で、あなたが大事に大事に育てた匂い立つような美しさも、艶めかしい身体も衆目の知るところとなりました。その上、手に入れれば自分のところに神の加護までついてくるかもしれない。そんなムッツリ男をけしかけて、自分の娘をあなたにあてがう。あり得ない話ではないでしょう」
「蝋梅のことが噂になってるのは知ってる」
ほんのり頬を朱に染め、王弟は手で顔を覆う。この熱は酒のせいか否か。
「武力で返せば何かしら文句を言われかねませんが、私の魅了術ならどうでしょう。私の虜になって終わりです。色には色を。警戒されてる宮殿より、断然面白みがありますねえ。どこの陣営だとしても、惚れずにはいられないような珠玉の逸品を差し出してくるわけでしょう。それを手玉にとり、美味しくいただく……ああ、加減はしますとも。また剣で刺されたら、今度こそ丸ハゲでしょうからねえ」
うっとりとした眼差しは、既に仮想敵を描いているようだ。恍惚に浸りつつも鋭い。
「……誰が動いてる?」
白猫は肩をすくめた。
「さあ。私も消耗してましたからね。猫集会もままならなかったんですよ」
唇を、口内を、彼女は酒で潤してゆく。ぺろりと猫らしく舌なめずりした。
「信用ならなくとも結構。あなたの地盤の固まるまでの取引としてはいいんじゃありませんか」
「命をかけてくれた相手を信用しないほど、情のない人間じゃないつもりだが」
望は盃を置くと傍らから紙を取り出す。筆先に墨を含ませると、何やら書きつけ始めた。流麗な手だ。
「お前の過去を知る術はないが。心配してくれているんだろ。蝋梅が泣かなくて済むように。ここでいい思いをするだけなら、俺をけしかける必要なんてどこにもない。雇われる形で出入りするなら、それなりの出自が必要だろう。そこは用意させよう。少しそこで働いて……金華?」
望が顔を上げると、そこにいたのは白猫だった。盃に顔を突っ込むようにして、べろべろ舐めている。
「どうしたんだよ。いつも澄ました顔して飲んでるくせに」
紹介状を折りたたみながら、望は呆れ顔。
「おやおや、恩人の酒が空ですよ!」
白猫はふんと鼻を鳴らした。