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窓の向こうで小鳥が囀っている。その止まり木は、緑色の鮮やかな葉をつけていた。
その間を抜ける風が、夏の薫りを運んでくる。望は寝台の脇に腰掛けて、そっと目の前に横たわる蝋梅の頬に触れた。絹糸のような髪に、滑らかな玉のような肌。それだけでも美しいのだが、狂おしいほどの欲求は呼び起こされない。やはり目を開けていなくては。夜明け前の空の瞳が、恋しくてたまらない。
紅榴が捕らえられ、霊符で封じられて数日。彼女は目を覚まさない。
あの後。
宮殿の状況は目まぐるしく変わった。
その日のうちに、星守は眠ったまま息を引き取り、国じゅうが喪に服した。
新たな星守が立つのは、新王の即位と同時だ。それまでは補佐がその任を代行する。菊花は憔悴ぶりなど微塵も見せず、祭祀や星読見、葬儀と先頭に立って執り行っていった。今まで隠れて見えなかった凶兆への対処で、皆てんてこまいだ。
王の即位は七日を空けてからと決められている。混乱を防ぐため、朔は正妃に蘭を指名し、他の五家からの妃と共に後宮をよく治めるよう告げた。先王の妃たちは、それぞれ先王の居住区の宮を割り振られ、移ってゆく。にわかに新しい風が流れ始めた。
望にも、それは吹いてくる。
蝋梅が目覚めないのをどこかから聞きつけて、売り込みが激しくなる。正妃の座を射止められなかった四家は死にものぐるいだ。望はそれを悉く断った。
星冠の割れた星守は、そのまま目を開けることはなかった。それを肌で感じていた星守見習いたちが、蝋梅を引き取ろうと申し出たが、それも断った。
未来を見通せる彼女たちすら、そのような行動を取るのであれば。
さあっと暗雲が頭の中に広がる。
彼女の使命は、紅榴の抑止となること。星冠が割れた後も、刻印によりその任を全うした。あれがもし逃げおおせて、あまつさえまた晶華を狙えば。
(その分、生きながらえることができる……?)
蝋梅と国と。天秤がどちらに傾くかなど、望の中では決まっていた。晶華の王子としてではなく、彼女のために生きたかった。その手を取って逃げなかったのは、彼女がそれを望まないであろうことがわかっていたから。
そこまで至って、望は黒雲を払った。自分が一番に願わねばならないのは、その結末ではない。
「早く目を覚ましてくれよ、蝋梅」
望はそうひとりごつ。部屋に運び込んだ仕事の合間に、息をしているか、その胸の微かな上下を何度も確かめてきた。名を呼びかけてきた。
無力感が、彼を苛む。
――殿下。
愛することしかできない望を、彼女は求めた。それが欲しいのだと。
「まだ、一つも願いごと叶えてないだろ」
望みをかけて何度も重ねてきた唇を、また重ねる。
息を吹き込むように、繰り返し。
「蝋梅」
声は目の前の体に染みていった。
辺りはしんと静まり返っている。真っ黒で何もない。星一つない夜空に放り出されたようだ。
手足の感覚もない。上下左右もわからない。
ただ最後の記憶として、柘榴を斬ったことだけは覚えている。
(私、死んだのかな。使命を果たして。それならもう、消えるだけだ)
ぼろぼろの小屋で、星守の塔で願い続けたこと。ようやくそれが叶う。
蝋梅はゆっくりと瞼をおろしていった。ようやく、楽になれる。もう呪いに責められることもない。
(ああ、やっと。手放せる)
――蝋梅。
頭の奥で呼ばれた感覚があって、瞼をおろすのを止めた。
――まだ一つも願いごと叶えてないだろ。
(願いごと?)
暖かな気が流れ込んでくる。思い出すのは、柔らかな眼差し。ただ一つ、欲しいと願った人。
(殿下)
名を呼ぶ声ははらはらと、降り注いで蝋梅を温める。冷えていた手足の感覚が、少しずつ戻ってきた。もっと温かな彼の腕に抱きしめられたいと、身体が欲する。
再び蝋梅は目をしっかりと開いた。
「よう、嬢ちゃん」
突然かけられた声には覚えがある。
「長庚さま」
ぼんやりとした姿で目の前に現れたのは、これまでの青年姿ではなく、亡くなった年頃の彼。
「お別れですか」
蝋梅は悟る。彼もまた役目を果たしたのだと。
「一応、紅榴の最期を見届けるまでは残されるみたいだけどさ、その前に挨拶しときたくてな」
にっかり破顔するさまは、年を経ても変わらない。
「ありがとう、蝋梅。望を、晶華を救ってくれて」
左右に長い髪が揺れる。
「長庚さまがいらっしゃらなければ、事態は打開できませんでした」
長庚は頬をかいた。
「本当は、生きてる間にやらなきゃなんねえことだ。反則だよな。それができたのも、北斗星君さまのおかげだ」
蝋梅は視線を落として手の甲を見る。北斗の印は、今も刻まれていた。そこには星冠と似たような気の流れがある。ただ、さまざまな星の神々から集約していた冠と違い、こちらの流れはよく知ったものが本流となっている。
「もしかして北斗星君さまは、私が星冠を失うことを見越して、これをくださったのでしょうか」
「星冠は、戴く者の魂魄と密接に繋がっているそうだ。無くなればそう遠くないうちに死亡する。それを防ぐために加護を加えた、ってことらしいな」
やや抑え気味の声量で、彼は告げる。
「――役目を果たすまで、ですか」
蝋梅の声音も、自然と小さなものになった。男はゆっくりとかぶりを振る。
「義理堅い方だ。供物の分延ばしてくださるさ。ただ、そこから先はわからん。人間だってそうだろ。寿命なんてものはわからない。だから悔いのないように日々を過ごす」
蝋梅は目を細めて笑んだ。
長庚はその肩を叩く。
「めいっぱい、生きてこいよ」
「はい」
空の星を指差すように、彼の指は上を指し示す。
「ほら、待ち切れなくて呼んでるぜ」
頭の中でうっすら聞こえていた音が、今度は方向がわかるほどにはっきりとしてくる。左の手を伸ばすと、その方角へ身体は浮かび上がった。呼び声が標となって蝋梅を導く。心に描くその姿は次第に鮮明に。
「蝋梅!」
水面から頭を出した時のように、はっきりと聞こえる。
「でん、か」
からからの喉で、ようやくひと言。温もりは衣をくしゃくしゃに握りながら抱き寄せる。安堵の吐息とともに、口づけが落とされた。熱い舌が口内を湿らせてくる。蝋梅はそろそろと彼の背に手を這わせた。
僅かに唇を離した彼は、目も鼻の頭も真っ赤にしていた。
「殿下、ありがとうございます。殿下が呼んでくださったおかげで、帰り道がわかりました」
「それは違う、俺は何もしてない」
唇を重ね返してくるのを待ちわびていたかのように、彼は離れない。乾いていたはずの唇は、彼の熱を含んで桜桃のように熟れていた。それがまた望を誘う。
攻勢の合間に長庚のことを話すと、望はようやく顔を離した。手を持ち上げて、しげしげとその甲を見る。手放しでは喜べないような、複雑な顔だ。
「後で廟に供物を持って行かないとな」
そう言って手を離すと、今度は首元を啄み、跡をつける。蝋梅は目を白黒させた。
「殿下、そこでは見えてしまいます」
「……それだって見えるだろう」
明らかに七星の印のことだ。二つ、三つと望はつけてゆく。
「それとこれとは……」
「他の印がついていて穏やかでいられるほど、できた人間じゃないんだ」
印を刻むその唇は、肌を伝いながら耳元へ。
低く、愛してると囁かれて、蝋梅は短く声を上げた。身をよじるが望は止まらない。
丁寧にとろかされた蝋梅ができあがるまで、そう時間はかからなかった。