109
蝕め。苦しめよ。
呪いの焔に向かって、そう念じてきた。
どうかどうか、この痛みを忘れませんように。
そう握りしめてきた熱は、だんだんと冷やされてゆく。取り除かれてゆく。もがいて取り戻そうと手を伸ばす。が。
――珠で取れる鉱石は希少価値が高いからな。これまでも狙われてきたが今回ばかりは無理だ。星守とやらが的確に戦況をあててくる。
誰かの声がした。
――第一王子と第三王子、第四王子は戦死したそうだ。
(何の話?)
晶華に王子は二人。あとは娘だ。これは。
「城が落ちる。隠し通路があるから、皆そこから逃げるんだ。俺はじき見つかるだろう」
覚えのある声だ。焦がれた声だ。聞き間違えるはずがない。
「紅玉」
声が重なったかに思えた。けれど、音を発したのはこの喉ではない。過去の自分だ。そう、紅榴は感じた。
(これは、私の記憶)
なんて、なつかしい。
胸の奥が熱い。
乞われもしないのに他の神の加護のある領域になどと、これまで戦場に来たことはなかった。しかし、珠の神の存在は薄まり、そして晶華の兵が囲んでいるとあってはいてもたってもいられず、紅榴は飛び込んだのだった。
既に傷を負った彼は、ぼんやりと虚空を眺めていた。紅榴が視界に入ると、ああ、と嘆息する。
「幻であったとしても、最期にひと目まみえることができるとは」
「喜びなさい、本物よ」
精一杯の虚勢で胸を張る。
医療や戦の神であればよかったが、紅榴にそんな力はない。無力感に苛まれることなど、これまでなかった。しかも、自分のためでなく、人間のために。
「本物なら逃げてくれ」
顔を顰めながらも、彼は何とか身体を起こす。
「ここに残っている女がどういう存在か、わからない奴らではない。あなたを彼らの手に渡したくはない」
掠れた声の合間に咳き込むと、手のひらに赤い花が重なって咲いた。
「兵たちはどうしたの」
「逃した。火をかけていくよう指示したから、じきに回ってくる」
「あなたは」
「かの国の巫女の占いは正確だと聞く。俺が共に逃げれば、兵たちも狙われる」
紅榴は嘆息した。ああ、この人は。
(どこまでも優しい人)
自分で自分を守らない。ならば。
「逃げましょう。私と」
紅榴は膝をついた。女神にあるまじき姿勢だ。他の神々が見ればなんと言うか。それでも彼女は彼の手を引いた。
「話したでしょう。私の領域からは真っ青な海が見えるの。真白い巨大な神殿も、圧倒されるに違いないわ。こことは何もかもが違いすぎる」
声が熱を帯びてゆく。
「今をおいて他にある? 私と共に行く時が」
彼の眼は、愛おしげに紅榴を映している。是否を明確にせずに、眉尻を下げて微笑んだ。
「あなたは瞬きほどの俺に愛を見つけてくれた。これは奇跡だ。けれど俺は瞬きだから。何も返せない。神になれない俺が一緒に行こうと手を差し伸べるのは、人間になってくれというようなものだ。そこまで強制させられない」
「私はそれでもいいわよ」
きっぱりと。女神は即答する。
女神は生まれながらに神だった。そうありたいと願ったわけではない。けれど今は。自分の在り方を心から願っている。それこそ、願われる立場ではなく乞う側として。
ありがとう、と吐き出す息に混じって、彼は礼を言った。
その時、こっちに誰かいるぞ、と声がした。ガチャガチャと鎧を鳴らす音も続く。助け起こそうとする紅榴に、紅玉は顔を寄せた。
「それじゃあひとつ、聞いてほしい。どうか思い出としてあなたの記憶の片隅にでも残してほしいんだ。そうしたらあなたがいる間、俺は共にあれる。だからどうか生きてくれ」
「意味がわからないわ。あなたがいなきゃ」
いたぞという声に、彼女の言葉はかき消される。兵たちが廊下から入り込んでくるや否や、紅玉は深手とは思えないほどの速さで剣を振るう。あっという間に二人を打ち伏せた。
が、残りの一人の刃が武装していない紅榴に向けられる。紅玉はそれを背中で受けた。しかしただではやられない。振り向きざまの一撃で相手を倒し、膝をつく。
紅榴はそれを、口を覆い、震えながらただ眺めていた。
「早く、逃げろ」
もう言葉を発するのも辛そうだ。その身体に、彼女は手を這わせた。
「……なぜ守ろうとしたの。私はもう何千年も生きた。もう十分に。人間の命などほんの一瞬。ならばあなたが生きるべきだった」
供物でもない血で、手が、腕が、身体が染まってゆく。けれどそんなの気にも止めない。耳元の振り絞るような声に、全てが集中していた。
「俺の我儘だ。目の前できみを失いたくない。それだけだ」
目の前が歪んでゆく。溺れた時のような呼吸は、泣き方がわからないから。
「私に戦を止める権能はない! ただ夢でお告げをするだけのこんな役に立たないあなたを助けることもできない神なんてそんなの何の意味が」
焼けてゆく。
炎が焼いた。彼の身体を。彼女の身体を。
神は焔になった。黒々と燃える呪いの焔に。
彼の名は、晶華の史書に記された。王族に名を連ねる者として、ほんの僅かに。そして。妃の欄は空白だった。彼の祭祀をする者もいない。
(私だけ。私だけが彼を残している)
ならば。
「私は彼の妃になる。そうして私たちが愛し合った証を、後世に残してゆく」
「それがあなたの願いですか」
不意に少女の声が響く。記憶の世界と違う異物感に、紅榴の表情は冷めていった。
「見ていたの」
目の端に映るのは、星守見習いの少女の姿。神に近しいものになる資格を与えられながら、それを受け入れぬ娘。
「あなたの着地点を知りたかったのです。目的を達した後、どうするのか。妃として残って晶華を潰したいようには見えない」
静かに問うさまは、人よりもやはり神に近く見える。そこにあるのは感情よりも、使命だ。呪いへと堕ちるようなことでもなければ、切り離せないもの。それでも。
「あなたこそ。あなたの使命は私を滅すること。ただ神の威を借りて轢き潰せばいいだけのこと。なぜ人であることを選んだの?」
「私は殿下と生きたいからです。巫ではなく、あの方の妃として」
同じだ。
紅榴は目頭が熱くなる。
自分が進めなかった道。阻まれた道。彼女に力を与える星の神によって。だから。
「そう。でもあなたを妃にはさせない。私のなれなかったものに。あなたはいつまでもそのまま」
肩から噴き出した呪いの焔が、両手の塞がっている蝋梅を掴もうとする。が。鋭い衝撃が呪いを裂く。紅榴は顔を顰め、呻き声を上げる。
黒い焔を修復へ回すも、光の剣が浸透しつつある身体ではもう覚束なくなっていた。
「殿下!」
後ろで星守見習いの弾む声が、紅榴の耳に入った。恐れもせず宝剣を手に、切ったのは第二王子。
何とか抵抗をと、焔は切り離されてなお牙をむく。それを今度は別の剣が滅した。先程、王が手にしていた剣だ。それを振るうのは。
「兄上」
朔はひとつ深呼吸すると一気に踏み込み、あれほどまでに焦がれていた彼女に切りかかった。
修復が間に合わない。ついに紅榴は膝をついた。
「私は、紅玉の仇を」
彼女の目からぼろぼろと、熱いものが溢れ出す。その眼前に、剣先が突きつけられた。
「約束しよう。紅玉の妃が、復讐のため妖術を以て陥れた。そう記録させる」
朔は感情を抑えた声でそう告げる。綺麗に丁寧に塗り固めた外面ではなく。惑い苦しむ胸の内を、別の思いで律しているようだった。彼は続ける。
「そしてあなたの公開処刑を行う。あなたの身分は衆目の知るところとなる。あなたの体は紅玉の妃として死し、神としては星神の下に降る。どうだ」
紅榴は、ふふと笑った。
「馬鹿な子ね。そこまでして柘榴に夢を見ているの? それで私を救えるとでも?」
「愛と呪いは紙一重なんだろう」
凪いだ青だ。燃えるような紅玉の色とは真逆。
あの瞬間、紅玉は呪いをかけたのだ。欲しがらないように見えて、その実とても強固な。
神を人にする呪い。
自分を乞い続ける呪い。
記憶の片隅どころではない。在り方も何もかも彼のものになった。紅榴が尽きるまで。
「そうね」
苛み続けてきた苦しみが引いてゆく。このまま身を委ねれば、洗われて泡のように消えるだろう。けれど。
紅榴は奥底から力を振り絞る。その衝撃に、王子二人と蝋梅は弾き飛ばされた。けれどそこから先は、これまでのように全方位には向けない。ただひとつ。よろめいた少女の肩を、倒れ込むように掴む。
「でもこれだけは……これだけは譲れない!」
再び光の剣が腹を貫く。それを利用し、遡るようにして呪いを送り込んだ。星冠を媒介に、天の星々の力が、星神の意思が送り込まれている。眩く不浄を殲滅せんと。けれど。
(ああ、なんて歪な存在だろう。呪いと見まごうほどに無理やり魂に、身体に侵食し、根を張っている。どこが加護か。人に寄生し、信仰という養分を肥やし、吸っているにすぎない)
淡く、脳裏に愛しい人の姿が浮かぶ。最期まで紅榴を、愛を守ろうとした彼。何よりも眩しく、大切な。それを描いて力を振り絞る。
焼き切れながら、それでも呪いは深奥へと辿りつく。その戴く冠へ。
(もうなりふり構わない。全部ぜんぶ、ここへぶつける! ここで消えて構わないから!)
ぴしりと、ひびが入る音がした。ひとつ聞こえると、連鎖するようにあちこちから聞こえ始める。そうして。
硝子が割れるような音がして、星冠が壊れた。玲瓏たる音色。それなのに。
「蝋梅!」
悲痛な望の声が、辺りに響いた。
力なく、蝋梅の身体は崩れ落ちる。それを彼は滑り込んで止めた。
身体中に呪いが回り、肌にどす黒い蔦のような模様が這っている。その異様さに怯むことなく、望は彼女を抱き寄せた。何度も何度も、その名を呼ぶ。目覚めないとわかると、顔にかかる髪を払って口づけた。それでも何の反応もない。
肩で息をしながら、紅榴はそれを見つめていた。意識が飛んでしまいそうだ。そうならないよう、言葉を紡ぎ出す。
「わかるでしょう。相手を憎む気持ちが。呪う思いが。わかりながら断罪するの?」
名を繰り返すのを、彼は止める。
「断罪したいんじゃない。俺は、蝋梅は神じゃない。ただ、守りたいだけだ」
紅榴は微かに笑む。
「何の力もないのにね」
「何も無くとも、諦めたりはしない」
くたりとした蝋梅を右腕に抱き、望は剣先を呪いの主に向ける。相手の袖の影から、細くはあるが鋭い呪いが飛んでくるのを、残らず叩き落とした。
腕の中の星守見習いは微動だにしない。しかし、呪いの紋様がそれ以上増えていないのに紅榴は気づいた。袖からのぞく白い手は、紋様すら見えない。その甲に、何かきらめくものがあった。紅榴は目を凝らす。
(あれは)
その瞬間、光が迸った。
燃えるようだ。焼かれるようだ。
戴く冠を焼き切らんとする呪いは、魂魄に張り巡らされた根の細かな細かな分岐まで残らず根絶やしにしようとする。
漂白された時は怒涛の渦に洗われるようだったが、今度は全身が熱く痛い。けれど、いつもの呪いのように、精神を苛むことはしてこなかった。少しでもその先の冠へ力を向けるのに注力しているよう。そしてそれは叶えられた。
頭の中で、何かが砕ける音が響く。目の前の光景が、音が消えた。
――蝋梅!
しんと静まり返った中で、声が響いた。繰り返し、繰り返し名は呼ばれる。柔らかな気が流れ込んでくる。蝋梅はその声のする方へ手を伸ばした。
(殿下)
けれど意思とは裏腹に、するすると波が引くように力が失われていく。頭上に感じていた気配もまた消えていった。抗おうにもうまくいかない。
すると押し返されそうになる背を、誰かが押した。儚げな手だ。けれど伝わってくる力は、とても冴え冴えとしている。その波動を、蝋梅は知っていた。
(星守さま)
記憶と共に渡された彼女の残り香が、未来を託した後進を助ける。
目を見開けば、伸ばした手の甲に見慣れた紋様が見える。いつも天に在るもの。蝋梅は星冠にしていたように、それに集中した。七つの星がそれぞれ違う色にきらめく。
「私は、」
星と向かいあって、蝋梅は願う。
「私は超えます。蝋梅として。北斗星君さま。未来を拓く剣を!」
温かい光だ。激しく粛清するような破邪のそれではなく、寄り添うような浄化の光。それが神気と共に身体中を駆け巡る。望からもらった気ともそれは馴染んだ。
視界が開ける。
目の前には満身創痍の紅榴。蝋梅は手にした光の剣を構える。
紫電一閃。
斬られたところから光が染み込み、紅榴の体を覆う。紅榴は崩れ落ちた。