107
どれくらい時間が経っただろうか。蝋梅が恐る恐る目を開けると、望の腕の中にいた。
抱きしめられているのだから、銀華のように透けているわけではない。けれど身体がやけにふわふわしていて、本当の肉体でないのが頭のどこかで感ぜられた。まるで、夢の中にいながらこれを夢だと思うみたいに。
(おそらく肉体は、結晶の中に閉じ込められている)
「猫になっていた時みたいだ」
頭の上で望が口を開いた。
「殿下」
呼びかけると腕が緩む。春の空色の瞳が、優しげに見下ろしていた。それについ、うっとりしてしまう。蝋梅は慌てた。
「どうして来てしまわれたのですか」
ふいと目を伏せてうらみごとを言ってみる。すると、「……一人にするな」とまた抱きしめられた。
「中は生き地獄ですよ」
怨嗟はひっきりなしに二人を襲う。それでも意識の中まで入ってこないのは、何か守りがあるから。ふと足元を見ると、裾に宝剣が楔のように刺さっていた。望も気づいて目をやる。
「外の方がよっぽどだ。蝋梅こそ、辛くないのか」
「殿下がいらっしゃいますから」
望は、そうか、とはにかんだ。
「それにこの呪い、今までと少し違うような気がします」
「違う?」
「はい。呪いの主は同じなのですが、少し和らいでいるというか。塔を取り巻いていた時の方が、一心不乱で苛烈でした」
考え込むように望は唸る。
「目的が達成されてきて、満足し始めてるってことか?」
ふるふるとかぶりを振るのに合わせて髪が揺れる。
「わかりません。この結晶は本人の手を離れているでしょうから、完全ではありませんが足がかりだけでも掴めれば」
「俺は使えるか?」
何か思い至ったように、彼は口にする。
「俺と兄上は繋がってるんだろ。そして兄上の呪いを増幅させるだけの繋がりが、二人にはあるはずだ」
蝋梅は目を見張る。
「外は他の手立てで紅榴を攻め立てているだろうから、今のうちに」
力強く頷くと、星冠に意識を集中させる。
刺されるのはまあ誰が見てるわけでもなし、いいかとぼやく声を、いささか乱暴に唇を重ねて途切れさせる。首の後ろに手を回して抱きつくと、その内の身体が何となく強ばっている気がした。気にせず蝋梅は、彼の魂に自らを重ねる。身体という器があった時よりも、馴染みやすい。
(このままひとつになってしまいたいくらい)
それくらい魅力的。けれど自我を失えば、対象を探せない。
溶け込ませるように中に入ってゆくと、向こう側を探した。
幼子が泣いている。あやす声は聞こえない。どうやら一人きりのようだった。近づいてみると、黒髪の小さな子どもが、辺りを憚らずに泣き続けていた。
側へ寄っても、泣き止む気配はない。そっと手を伸ばして涙を拭うと、彼はその袖を握った。
「さびしいよ」
なおも彼は泣く。蝋梅はしゃがみ込んだ。子どもと同じくらいの目線で、彼を撫でる。
「耐えていらっしゃったのですね」
「かなしんでばかりじゃだめだって」
しゃくり上げながら、彼は口にする。
「柘榴だけだったんだ。それでもいいっていってくれたの」
ぼろぼろと大粒の涙が、目から溢れ落ちてゆく。次から次へと。
「だから、とらないで」
「ごめんなさい」
蝋梅はゆるくかぶりを振った。
ずるい、と彼は袖で目を覆う。
「俺だって、ほしい」
「ずっと、探されていたんですね」
こくりと、幼子は頷く。
「柘榴さまの代わりを」
またも彼は頷く。心なしか背が伸びたような。
「代わりは誰にもなれません。あなたの代わりがいらっしゃらないように、誰もその人ではないのです」
「俺の代わりはいる」
真っ赤な目で彼は蝋梅を見る。
「少しでも落ち度があれば、王太子は替わる」
「それは地位の話でしょう。今はあなたさま自身の話をしているのです。あなたさまも柘榴さまも、唯一無二なのです」
少年は袖から手を離した。蝋梅が立ち上がると、彼の背はもう同じくらいになっていた。
「殿下がおっしゃっていました。正妃さまは多くの楽器を嗜み、宮からはいつも音楽が聞こえてきていたと」
「あいつは周りがドン引きするくらい酷い音ばかり出していたな」
懐かしむような表情は、やや柔らかい。蝋梅もそれにつられて微笑んだ。
「王太子殿下は今でもずっと音色を絶やさずにいらっしゃるとか」
「母上と一緒に演奏するのが楽しかったんだ。でも父上は、それを疎ましく思っていらっしゃった。母上亡き後は特に。柘榴だけが聴いてくれた」
眼裏に、百合の姿が浮かぶ。うっとりとそれに聴き入る姿。もちろん相手にはわからないことだけれど。
「他には、おりませんでしたか。あなたさまの音色を求める者が」
唇を、彼は引き結ぶ。否定の言葉は、そこから漏れてはこなかった。
「あなたさまの魂に宿る呪い、私に見せていただけませんか」
朔の後ろに、伸びた影のようにして道は繋がっている。燃えるような目は、揺らぐ。
「彼女のことを知りたいのです」
「もうわかっているんじゃないのか」
「何もわかってませんよ」
蝋梅は彼から目を離さずにかぶりを振った。
「わかっているとすれば、王太子殿下の方でしょう」
朔は顔をしかめる。
「何も知らなかっただろ。知ったつもりになってた」
「彼女の背景の話ではありません。殿下はずっとこの呪いに晒されていらっしゃった。何か変化があれば気づいていらっしゃるのではありませんか」
穏やかに尋ねるが、返ってきたのは刺々しい答え。
「……あったとして、俺が話すとでも?」
「そうですね。真っ直ぐな方々ですものね」
蝋梅は笑んだ。つい眼裏に望を描く。
「そんなことはない」
そう、彼は唇を歪めた。
「知っているか。あいつの初めての接吻、この前猫にされた時じゃないんだぞ」
目を丸くする彼女に、朔は嘲笑うかのように続けた。
「俺たちの成人の儀の日にな。あいつにも言えない秘密のひとつやふたつあるってことだ」
成人の儀、と蝋梅は反芻する。
あの日。夜になってから望は訪れた。儀式で出された醴を、わざわざ分けに来てくれたのだ。
真新しい衣に、あまり馴染みきっていない香。おめでたい日のはずなのに、少しばかり遠くに行ってしまったような、そんなほろ苦い気持ちになりながら、杯を重ねて。ふわふわした気持ちになった、そんな日。
ぼっと頬が急速に熱くなる。
「もしかして、醴を持ってきてくださった時の……」
真っ赤に染め上がった顔に、朔はつまらなさそうに頭をかいた。
「……何だ、気づいてたのか」
「殿下があんなことなさるなんて、夢なのかと」
思っていたよりも酒に弱かったらしい。醴だからと油断していたら、眠くなってしまったのだ。
――そんな無防備に寝るな。
そう囁いて、かの人はそっと重ねるだけの口づけをした。
けれど。蝋梅はまだ完全には寝ていなかったのだ。夢と現の狭間でそれを感じ取って。何て不敬な夢を見たものかと、酔いが醒めてしまった。
「魔がさしたって散々頭抱えて転がりながら悩んでたぜ。あんたがその後熱を出して寝込んで会えなかったから、余計に拗らせてたな。あれは面白かった」
不貞腐れたような、やけっぱちのような。そんなふうに彼は鼻を鳴らす。
「あれは……心頭滅却しに清めの泉につかりにつかったら、身体を冷やしてしまったのです……現実だったとは」
今更ながら転がりたい。蝋梅が袖で顔を覆うと、朔はそれをやんわり剥がした。
「夢の方がよかったか? 幻滅した?」
囁くような問いかけ。
――ずっと、伝えたかった。こうしたかった。
今ならわかる。夢なんかじゃない。つい、笑みが溢れた。
「夢じゃなくて、よかったです」
へえ、と朔は乾いた声をあげる。
「あれはとんでもない狼だぞ。あいつがあんたの服を用立てる時、採寸は必ず同席してただろ。薄着のお前を穴が空くほど見てた」
「確かに視線は感じたような……?」
「いつ連れ込んでもいいように、あいつの部屋にあんたの服が揃えてある」
「そういえば気の回る方だなと」
つい先日使わせてもらったばかりだ。
「あいつの付けてる香の名は〝蝋梅〟。部屋の前に蝋梅の木まで植えさせた。決まっちゃいないのに、妃になるのに必要だからって、隠し通路から俺が受けている座学を聴いて、お前に教えこんだ。ちょっと触れでもすれば、やれいい匂いがしただの、ふわふわしてただの!」
ひと息に、朔はまくしたてる。どうだと言わんばかりの彼に、蝋梅は微笑んだ。
「殿下のこと、よく見ておいでなのですね」
「もっと他に感想ないのか? あいつの激重ぶりにさ」
知らなかったことばかりだ。けれど知ったとして、これまでの自分ならどうか。それがただの優しさなのだと、どこか遠くの出来事のようにしか感じられなかったはず。
「私は気づけませんでした。殿下がそれほどまでに想ってくださったことを。その分、これから少しでもお返ししてゆかねば。だから、生き延びねばならないのです。どんな手を使っても」
俺の妃だと。消えてしまいそうになる絵を上から塗り直すように繰り返し伝えてくれる、かの人。それを想うと胸の奥が温かい。魂の奥が熱い。
「あんたたち見てるとむしゃくしゃするよ」
朔はふいとそっぽをむいた。
「……知ってどうするんだ。同情しにきたわけでもないだろう」
その姿は、いつの間にか現実と同じくなっていた。
「同情は今必要な感情ではありません。ただ、やみくもに塵も残さず祓うには、こちらの損害もかなり出るでしょう。だから、落としどころがないか探りにゆきたいのです。せっかく取り込んでくださったようなので」
「星神の巫だろう。それでいいのか」
眉根を寄せる彼に、からりと笑ってみせる。
「星神さまに必要なのは、星神さまへの人々の祈り。だからこそ彼女が空を覆うのを許容し、縋らせた。今度は民の安寧が得られ、感謝の祈りが捧げられるのが目的。彼女は表舞台から降りさえすればいい。何なら鎮めて配下につけた方が箔がつく。花神然り、これまでもそうだったでしょう」
彼の勿忘草色に、蝋梅が映る。朔さま、とそれは呼びかけた。
「朔という字は、始まりを意味するとうかがいました。欠けてきていたものが、逆に満ちてゆく。あなたさまの道も、これから再び始まるのではありませんか」
ゆっくり、ゆっくりと。勿忘草色は伏せられた。蝋梅はひと呼吸おいて、彼の背後に回る。そして、その影と化したそれに触れた。
影の中は、耳を覆いたくなるほどの怨嗟で溢れていた。けれど。
許さない。許さない。
かなしい。
許さない。許さない。
くるしい。
許さない。許さない。
今にも泣き出しそうな想いが詰まっている。
気取られぬように、中をそっと進む。目指すは最奥。
潜水と同じで、奥に潜れば潜るほど圧迫感が強い。ましてや恨み声に追い立てられていては。
(方向感覚なんてない。順路も標も何も。でも、より苦しくなる方へ進めば)
頭が割れてしまいそう。吐いてしまいそう。泣き出してしまいそう。それでも進む。
漂白された時は、手を離せば流されて何もかもなくしてしまえたけれど、こちらは永遠の責苦が続くようだった。
厄災の子。
愛されるはずないだろう。
代わりの妃などいくらでもいる。
呪いは異物を排除せんと、蝋梅を苛む。それでも。
(生きなきゃ。生きたいんだもの。殿下と。それは、譲れない。私の、願い)
無我夢中で足を前に出す。すると、星冠の鉱石のうち二つが、淡く発光した。呼応するように、彼方にほんの僅かなきらめきが見える。いや、見えた気がした。
(北斗七星は、示す星)
「教えて、天枢、天璇」
蝋梅は小さく語りかける。
(この二つの先にあるなら、きっと北極星。星守さまの星)
希望が見えると僅かに気が楽になる。もがいてもがいて進むと、確かに小さな星がそこにあった。
「来たか、蝋梅」
星をそっと両手で掬うと、脳内に声が響いた。
「やつは呪いと化したことで、忘れたくなかった記憶までもが摩耗してしまっていた。それが余計に凶化を加速させる。金華のおかげで本人が見られるまで回復したところも出てきたが、まだまだじゃ」
わっと、紅榴の記憶がなだれ込んでくる。その情報量に、蝋梅は思わず顔をしかめた。星守さまと呼ぼうとする声が、情報処理で手一杯で出ない。
「さあ、疾く戻るのじゃ。今の状態では王子たちにも影響が出かねん。私のいるところがあれの核。魂に似たもの。それを狙え。今のそなたならわかるじゃろう」
そう告げる声は途切れ途切れ。咄嗟に星を握りしめた。今にも消えてしまいそうなそれを。
「――未来は読めるか?」
蝋梅は僅かに首を横に振る。
(目の前のことで手一杯で)
「それでよい。それが生きるということじゃ」
噛み締めるように声は言う。
「さあ、手を離すのじゃ。情けをかける相手ではない。私は、そなたを利用しておったのじゃからな。王太子と第二王子、どちらかでも残り晶華を繋げるように、望の執着を許したのだ。でなくばあのような異例の立ち入りを許可するはずあるまい。そのせいで今も辛い思いをせねばならんじゃろう」
(私が選んだのです)
すぐさま蝋梅は否定した。すると姿は見えないのに、星が笑んだ気がした。しかしそれも刹那のこと。
小さな見た目に反して、星は力強く魂を押し戻す。覆っていた手はたちまち解け、蝋梅の意識はそのまま急激に浮上していった。