106
「紅榴……やはり来たか。陛下には近づけさせはしない」
階段からものすごい勢いで駆け下りてきたのは、菊花。
普段なら裾をからげて走ろうものなら、特大の雷だ。しかし今回それをしたのは彼女自身。般若の形相で、柘榴の前に立ち塞がる。
その後ろで、武装した兵たちがそれぞれ剣を構えた。自らを取り囲むそれらを、彼女は扇子の影から悠々と見回す。
「まあ、物騒。何の由あってこんな仕打ちをするのかしら」
ころころ笑ってみせるその表情は、菊花とは対照的だ。滲み出る色香に、どこからともなくため息が漏れ聞こえた。
「無粋な香までこんなにたいて。華やかさの欠片もないわ。陛下に相応しくありません」
「呪いを寄せつけないためだ。そなたのような、な」
二人の間に火花がとぶ。しかしそれもつかの間のことで。菊花は躊躇いもなく相手の腕を掴むと、軽く捻り上げた。そうして背中に霊符を貼ろうとする。
が、彼女もさるもの。軽やかにかわすと、菊花の懐に入り込んだ。目を見張る補佐にその美貌を寄せる。
「大事な星守を守れなかった、無力な補佐」
菊花にだけ聞こえるように、彼女は囁いた。その胸に燻る無念の焔に、火をつけるように。呪いに引きずりこめるように。
ふっと呪いの火の粉を、そのぷっくりとした唇で吹きかける。
「そのようなまやかしなど効かん!」
菊花は怯むどころか距離を詰めた。
「お引き取り願おうか」
「そうね、そうよね」
おかしそうに彼女は笑んだ。
「もう花の王はいないんですもの」
がっと紅の瞳が見開かれる。
「守りたいものは守れず、守りたくもないものを守らねばならない。しかも」
ごらんなさいと紅の唇は促す。その視線の先は、奥の玉座。そして。
鞘の落ちる音がやけに響いた。玉座に深く腰掛けて、なりゆきを見守っていた王へ、凶刃が振り下ろされる。王は抵抗しなかった。ゆっくりと体が傾ぐ。白将軍がそれを自らの体で受け止め、支えた。
「陛下! 誰か医者を呼んでこい!」
一瞬にして、そこは阿鼻叫喚の坩堝と化す。
皆からぐったりとした様子や傷口がみえぬよう、将軍はその巨躯で王を隠した。気を確かに、と何度も呼びかける。
兵たちに引き剥がされた朔は、むやみやたらと剣を振り回して彼らを追い払おうとする。しかし兵たちの抵抗に、剣を取り落とした。それでも、どこからそんな力がわいてくるのか、屈強な彼らを振り払った。乾いた笑いが、その口から漏れる。
「はは、は……」
酔っ払いの千鳥足のような状態で、菊花の元へ歩み寄る。兵たちはその異様な様子に道を開けた。
「さあ星守補佐、占ってもらおうか。俺の正妃に柘榴が相応しいか否か」
告げられたその名に、周囲がざわめく。
陛下の妃だぞ。
道を外すおつもりか。と。
「父は病で急死した。この穢れを祓うため、明日星守を立て、そして星冠の者を生贄を捧げる。新たな王とその妃としてな」
さあ、さあ!
朔は菊花に詰めよる。今にも歯が粉々になりそうなほど噛みしめて、菊花はその襟首を掴んだ。兵たちがあんぐり口を開ける。
「目を覚ましてください! あの女は、あなたを謀っているのですよ!」
しかし、朔のまなこはどろりとしている。不遜だとなじることもしない。菊花は愕然とした。聞きしに勝る退廃ぶりだ。星冠の輝きが鈍る。
そこへようやく、望と蝋梅が到着した。扉の延長線上には王太子と寵姫、そして奥で頽れる王。
「ざく、ろ」
王は寵姫の名を呼んだ。初めて聞くような、弱々しい声だ。白将軍の肩から半分だけ顔を覗かせて、妃と王子へ問いかけようと口を開いては、閉じる。
「陛下、これまでよくしていただいた最後のお礼がしとうございます」
優雅に、柘榴は礼をした。そこへ注がれるのは、これまでの羨望や嫉妬ではない。わけのわからぬものを、理解できぬと、どうなってしまうのかと固唾をのんで見守るまなざしだ。
「今までお世話になりました。寵姫としてくださったこと、愛を注いでくださったこと。本当に愚かしく滑稽だったわ」
顔を上げた彼女は、まるで別人。美しさに禍々しさが混じり、呪いの焔がたちのぼる。彼女にのみ許された鮮やかな赤い衣へ、黒々と燃え広がっていった。
「何だと?」
白将軍は、肩越しに相手を睨む。
「寝室での戯れは、全て私の術によるもの。あなたはずっと、夢を見ていたの」
顔を歪めて紅榴は嗤う。
「私の身も心も、紅玉ただひとりのもの。あなたが滅した珠の王子。私はその復讐にこの十数年身を焦がしていたのよ! 私の在り方をすべてこの呪いに変えてね!」
焔は彼女の身体にまとわりつく。彼女を守るように。蝕むように。
「ただあなたを殺しても、次の王が立つだけ。王子を極限まで数を減らすには、他の妃に手をつけないようにしなければ。他の妃や星守を疎んじるよう、正妃の夢を見せ続けたのも、よく効いたようね。そして最後は、子に命を絶たれる。これ以上ない結末だわ!」
広間に高笑いが響き渡る。もはや舞台は彼女の独壇場。その端で朔が、ぶつりと糸が切れた操り人形のように膝をつく。頭痛がするかのように頭をおさえて、あたりを見渡した。その視界を、紅榴の裾が遮る。見上げる形で、朔は彼女の方を向いた。
「王太子殿下、よく私の傀儡として働いてくれたわ。ありがとう。あなたのことなんか、これっぽっちも興味はなかったわ。親子揃って、口説いた相手に指一本触れられずに、褥で夢を見せられるなんてね。あなたの愚かしさはこの場の観客が後世まで語り継いでくれるわ」
声にならない声が、ざくろと呼ぶ。手を伸ばす。しかし裾は軽やかにかわして望の方へ向いた。
「第二王子、あなたは最高の生き地獄をあげる。あなたの愛しい破邪の娘は、星守という星神の玩具となる。それはあなたたちの神が望むこと。そういうふうに作られたのだから。あなたでは変えられなかった。ずっとそれを背負って生きなさい」
「変えられないかどうかは、まだわからないだろう」
ずるずると、王太子を下がらせて兵へ託しながら、望は返す。澄んだ水のような、空のような眼。それからは怒りが迸っていた。
「決着を」
蝋梅もまた一歩踏み出した。きゅんと、星冠を光が駆ける。
紅榴は嗤った。
「いいでしょう、いらっしゃい」
感情の昂りに、焔の威力が増す。轟音が響いたかと思うと、天井が、壁が呪いに焼かれてぼろぼろと黒く崩れていった。その燃え広がり方は、炎よりも早い。
「さあ、これでもっとたくさんの観客に見てもらえるわ。愛憎渦巻くこの場所ほど、呪いと相性の良い場所はない。少しでも爪弾けばこのとおり」
突如消し炭になった謁見の間に、何事かと周囲の官吏や兵や貴族が集まり、遠巻きに耳目を属する。
「陛下と兄上を下がらせろ! 他は合図あるまで待機!」
望が指示を出す間に、蝋梅は七つの星の名を呼んだ。大剣が再びその手に現れる。そうして焔を切った。しかし形なきそれは逆に剣を飲み込まんとする。
望が破魔の矢を射るが、届く前に黒いうねりに阻まれた。うねりは今度は建物ではなく人を、呪いで包まんと拡がってくる。
「させない!」
蝋梅は剣を床に突き立てる。目を伏せて、自らの中の水鏡を脳裏に描いた。
「願いを叶えよ、流星雨!」
剣を中心に、澄んだ水面のような光景が広がる。波紋ひとつないそれに、空から細雨のように降り注ぐ星粒が映り込んだ。水鏡に映るものは、反転した現実にも。降り続く星は、呪いの焔を静めにかかった。
「鎮火させようっていうの? そうはさせない」
焔の出力を上げようとする紅榴へ、望は剣先を向けた。
それを合図に、二手に分かれた兵から破魔の矢が射かけられる。途切れぬよう、順繰りに。補給部隊は隠してあった矢をすぐさま補充にかかる。
「絶やすな! 少しでも消耗させろ!」
すると焔は、パキパキと音をたてて宝石のような鎧と化していった。
「あれでは矢が弾かれます!」
合図を送って矢を止めさせると、望は剣を構える。一気に間を詰め、切りかかった。しかし剣が真っ二つにした姿は、陽炎のように揺らめき消える。望はすぐさま飛び退いた。
しかし次々と陽炎は襲いくる。彼はそれを剣でいなした。
が、数が多い。
その時後ろから光の大剣が一閃。まとめて陽炎を斬った。
「殿下、お下がりください」
「ありがとな、蝋梅」
望は蝋梅の脇に戻る。焔の拡散は止み、雨は上がったものの、彼女の息は荒かった。唇が乾いている。
「本体を見極めないとな。位置はわかるのか?」
淡い空色の髪は横に揺れる。
「星の位置がめちゃくちゃです。何も起こっていないことになっている」
「そうでしょうね」
何重にも重なるようにして声が聞こえる。
「星神たちに頼んで、こちらの指示通りに席替えしてもらっていたのよ」
蝋梅は眉をひそめる。
「星神まで……」
「彼らはただそこにいただけ。何もしないことなら聞いてくれるのよ」
望は蝋梅の肩を抱いた。
「わかった。そっちには注力しなくていい。任せよう」
「任せる?」
今度は紅榴の方が眉根を寄せる。
「積み上がるは幾多の屍。それらを越えて私は見抜く。我が眼は天の眼!」
きんっと鋭い金属音のような音がする。天にも地にも碁盤の升目のように線が走り、天の方はばらばらと剥がれ落ちていった。その向こうにも同じように空が広がっている。一見、何も変わらぬ空が。
「何が……」
目を見開いて天を仰ぐ紅榴。そして、菊花。
「何だこのめちゃくちゃな星の並びは! 破滅だらけじゃないか!」
「でももうこれで惑わされません」
掠れ気味の声で、ただしきっぱりと。少女は言う。波打つ栗毛の彼女。百合が、水仙に支えられて立っていた。
「呪いの器風情が……!」
声が重なって、責め立てる。
「確かに私は堕ちました。けれど今度は屈しない!」
星冠がきらめき、線の交差するある一点を示す。
「これが本物です!」
幻影の紅榴が、一斉に百合を襲う。菊花はそれを、結界符で耐えた。
「百合、目を離すな。そなたは必ず守る」
「はい!」
望と蝋梅は標を頼りに向かう。その行く手を一つの影が遮った。剣のぶつかり合う音が響く。
「……兄上」
同じ顔が、剣の向こうで鏡合わせになっている。力で押すと、相手はふらついた。
「兄上、それは自分の意思ですか」
朔は迷いなく頷いた。
「彼女を妃にすると決めたのは俺だ。愛する人が別にいたことくらい、勘づいていたさ。手に入った気が、どこまでもしなかった。俺を見てくれている気がしなかった。俺がそうだったように」
そう言ってもう一度剣を構える。
「だから、それでもいい。それでも、彼女の願いを叶える。それが俺の愛だ!」
背後で紅榴は唇を歪める。
「そうよね、そうでもしないと父殺しの、反逆者の汚名を被って終わりだものね」
ふっと吹き出した呪いが、朔に取り憑く。
「違う、これは俺の意思で、」
祓うよりも早く、呪いは馴染んだ体に染み込む。腕から剣へ、その禍々しい力が流れてゆく。大きく振りかぶって。渾身の一撃に、望は蝋梅の腕をひいて避けた。人間離れした力は、床を砕く。
「兄上、呪いで凶化されているとはいえ、このままでは身体がもたない! 目を覚ましてくれ!」
流星の雨を、局地的に蝋梅は降らせる。朔の身体を冷やしていく。しかし、それでも剣先は天へ向けられた。
「届くまで繰り返す! 俺は、俺は」
望は大振りのそれをかいくぐり、みぞおちに剣の柄で一撃を叩き込む。相手が膝をつくより先に、腕を捻り上げて剣を落とさせた。
王太子が持つのに相応しい、しっかりとしたつくりだ。それを躊躇いもなく蹴っ飛ばす。なるべく遠くへ。
剣は滑っていって、誰かの足元へと渡った。その人物は、更にその剣を蹴飛ばす。場外に飛ばされた剣を見送って、彼女は大きく息を吸った。ずんずんと近づいて、気を吐く。
「いい加減になさいませ!」
ばちーんと大きな音が炸裂する。見守る兵たちが、息をのみ声を殺した。
殴ったのか、ついに、と左右と目配せし合う。しかし次の瞬間に鼻を押さえた。
「くっっさ!」
時間差で漂ってきたのは、夏場の腐った生ゴミのような強烈な腐臭。ややあって朔も同じ反応をみせた。ただ彼の場合それでは終わらない。だんだん顔の周りを手で払ったり、鼻をつまんで逃れようとさえし始めた。
「女の尻ばかり追って情けないですわね!」
臭いをものともせず言い放つ蘭に、彼は涙目で尋ねる。
「何だ、これは!」
「あなたさまのために特別に外国から取り寄せた、死体花と呼ばれる代物の香です。塔の方々のご協力で、霊符に仕込んでいただきましたの」
「なぜ、」
「なぜ?」
心底わからないというふうに、蘭はこの王太子を見下ろす。
「私は正妃になる人間です。次代の王を正さずしてなれましょうか」
彼女の両手には、対となる霊符。ここから激臭は発されていた。朔は顔を背けようとするが、構わず蘭は顎に手をかけ上を向かせる。
「あなたさまの五感が塞がれているというのなら、それを上回ってなお余りある衝撃を与えればよいだけのこと。容赦はいたしません」
言葉どおり、何度も手が打ち鳴らされる。少し愉しげに見えるのは気のせいか。悶絶する声を尻目に、望は剣を構え直した。陽炎を切り刻み、本体へ。
「まったく、弟ひとり足止めできないなんて」
紅榴はため息をつく。
「早く壊れてしまいなさい!」
あと少しのところで、紅榴は陽炎をすべて吸収する。そうして花火のように力強く、四方八方へ呪いを噴出した。その一つが、望へむかって大きく爆ぜる。望は剣を構えるが、その幅は身体を守るにはあまりに細い。
「危ない、殿下!」
やや後方にいた蝋梅は、彼の前に光の大剣を落とした。すべてをそこに集約して。
自らを守ることを手放した身体に、呪いの焔が襲いかかる。燃やして溶かして結晶に。
「蝋梅!」
望は手を伸ばす。
「なりません! 槃瓠、殿下を!」
声を張り上げて呼ぶも、大犬の行くてを焔が阻む。
振り払おうとする蝋梅に構わず、望はその指先を絡め、手のひらを重ねた。身体を抱きしめると、宝剣を結晶化しだした足元に刺す。何度も突き立てて結晶を割るが、焔のまわる方が早かった。呪いで身体が焼ける。爛れる。
轟轟と嵐のような唸り声が、辺りを包んだ。