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珍しい香がたかれている。しかも、顔をしかめたくなるくらい強く。
広々とした謁見の間に強く香がたかれること自体あまりないのと、そもそも香にさして興味のないのとで、白将軍は口をへの字に曲げた。
しかし今回ばかりは仕方がない。謁見の間には準備を終えた星守補佐と蘭が定位置についている。兵を従えて、将軍も膝を折った。
やってきた王の表情は、どこか気が抜けたようだった。いや、燃え尽きてしまったといった方が正しいか。どかりと玉座に座る音すらも軽く、そして乾いていた。
「報告とやらを聞こう」
短く、王は告げた。
「その前に陛下、少し昔話をしてもよろしいですか」
首を垂れながら、柏槇はなるべく穏やかな声で言った。
「どうした、お前が感傷に浸るなど珍しい。都を空けていた釈明でも聞けるのだろうな」
報されてもいないのか。柏槇は眉根を寄せる。
ーー父上は紅榴の駒としてはもうその役目をほぼ終えている。
望の言葉を将軍は思い起こす。
ーー最後に兄上の手を汚させるためには、邪魔にならないように、抵抗しないようにする必要がある。ぼんやりしているのはそのせいだろう。だから、守ってほしい。戦場で一番に父上を支えてきたあなたに。
柏槇は顔を上げた。腹の底から搾り出すような声で、その名を口にする。
「長庚さまのことを」
ぴくりと、頬が微かに動く。
「久方ぶりだな。その名を聞いたのは。誰もかれも禁忌にしているのに」
なぜ。今頃。そんな色を王は眼差しに含ませる。
「陛下の決定を覆そうとしているのではありません。どうか、あなたさまに反旗を翻すつもりがなかったのだということだけ。心に留め置いていただけませんか」
「何を言い出すかと思えば」
王は鼻で笑った。
「今さら、でございましょう。そうお思いになられるのも無理はありません。私もつい最近聞いたのです。本人から」
面白くもない冗談を。王は、かかと笑った。しかしすぐに反転して、険しさを表情に滲ませる。
「あれはわしに刃も呪詛も向けた男。そんなはずはな」
そこまでで、言葉は途切れる。柏槇からは王の目が、自分ではなく別の方を見ているのが見てとれた。
「ふふ、はは」
何と表現したらいいかわからない表情で、王は声を上げる。その先には、銀華と名乗った時よりも年数の経った、今際の際の姿そのままの長庚が立っていた。堂々たる体躯で胸を張って。こちらが王だと言われれば、そう見えなくもないくらいだ。香が強いせいか、極めてはっきりと目に映る。
「悪い夢が続くな。反逆者の姿が見える。柏槇、そなた幻術の修行でもしてきたのか」
威嚇するような低い声だ。どこかへ散じていた感情が、その身に集まりだす。
「幻術じゃねえよ。化けて出たんだ。死にきれなくてよ」
「何だ、お前の声が聞こえるなど。本当に……ああ、でも聞けば思い出せるものだな。そんなにわしを憎んでおったか。どの面を下げて我が前に出た」
ぎらりと。眼差しに鋭さが戻る。
「兄上、俺はあんたを憎んでるわけでも、反旗を翻したかったわけでもねえ」
将軍の隣で、長庚は声をはりあげる。
「わしとて、そなたが謀反を謀らなければ、処刑などしたくはなかった。そなたはかっとなることはあったが、口は悪かったが、そんな男ではないと思っておった。それなのに」
「すまなかった。あれは俺の落ち度だ」
長庚は勢いよく首を垂れる。しかしすぐに顔を上げた。
「兄上も見たろ? 花朝節で、犬が呪いで怪物にされちまうところを。俺も同じだったんだ」
王の目が見開かれる。おなじ、と口が微かに動いた。
「今更あんたに間違ってたとか言うつもりはねえ。ただ、ただだぜ。大事な兄上に誤解され続けるのは、嫌だ」
一歩、二歩。長庚は歩を進める。それを王は手で制した。
「そなたとは、小さい頃からよく喧嘩した。まさか、死に際まで喧嘩別れとは思わなんだ」
「兄上」
「わしは、そなたを処刑した。その事実は変わらない。そして操られようと、そなたはわしに背くと宣言したのだ。今更歩みよることはない。ましてやそなたは死霊。ありもせぬ幻影。どうして受け入れることができようか」
手で追い払うような仕草を、王はする。いつもならそれひとつで兵が対象をつまみ出すはず。しかし相手は形のない幽霊だ。兵たちは一歩踏み出しつつも困惑する。その隙に長庚は続けた。
「聞いてくれ兄上、あんたが死ぬかもしれねえんだ。俺はあんたを死なせたかったわけじゃない。頼むからさ。呪いに飲み込まれないでくれよ。あんたが大切にすべきは何だ?」
「疾く排除せよ。星守補佐、祓えぬのか?」
菊花はじっと王を見据えたまま動かない。血迷ったか、と王は怒気を含んだ言葉を投げつけた。
そちらに注意が向いている間に、かつての王弟はさらに歩みを進める。
「紅榴」
玉座に上る段差のすぐ前で、彼は一人の名を口にする。
「滅びた珠の末の王子の恋人を名乗る女だ。彼の復讐のために、後宮に入り込んだ」
王の視線は、再び弟に向けられる。
「ここでの名は柘榴。兄上の寵姫だ」
「馬鹿なことを。あれがそうなら、今までにいくらでも寝首をかけたはず。長い年月をかけてすることではない。面白くもない冗談だな」
そう言って、鼻で笑う。
「兄上! あんたの周りには誰が残ってる? 俺も臣下も他の妃もいない。退位の話が出て、誰が側にいてくれた?」
それは、と王は言い淀む。
「そうなるまで待ってたんだよ! 他に後継ができないように、誰も頼れなくなるように、星の加護すら得られないように!」
ついに長庚は玉座までかけ上る。
「いい加減目を覚ませよ。そんなタマじゃねえだろ兄上!」
腕を引いて、勢いよく殴りつける。しかしあくまでも彼は肉体を失った幽霊だ。特別仕様だった廟の中でもない。握りしめた拳は、兄の顔をすり抜ける。
何年ぶりだろうか。よく似た兄弟だった。怒りを滲ませた表情もまた、よく似ていた。
「この亡霊が!」
「なにおう、このとうへんぼく!」
殴り合えるはずなどないのに。王も玉座から飛び出して、なぜか双方ともに殴りかかる。
「陛下! 長庚!」
遠巻きに見守っていた柏槇も、このわけのわからぬ兄弟喧嘩にかけ寄った。星守補佐もそれに続く。首をかしげながら、兵たちも取り囲んだ。
ふんじばれだの、口を塞げだの、誰のものかわからない声、そして霊符の貼られた縄まで飛び交う。
眩い光が星冠から発して、不祥を祓除す! と菊花が唱えるのが聞こえた。
瞬間、獣の咆哮のような唸り声が中心から上がる。外側を取り囲んでいた兵たちは、尻もちをついたり逃げ出したりした。
光と咆哮はなおも続く。咆哮が途切れとぎれになってゆくにつれ、視界を奪っていた光も消えていった。
白将軍の部下たちは、これまた紋様の書き込まれた大きな布で唸り声の主をくるむと、数人がかりで脇へ押しやる。それはだんだんと落ち着きを取り戻していった。荒い息遣いだけが、中から漏れる。
柏槇は、大丈夫ですかと膝をついていた相手に声をかけた。本来なら膝をつかせていい人ではない。その様子が見えぬように、自らの体を壁にした。
そんな時。
「まあ皆さまお揃いで。どうかなさいましたか? 騒がしいようですが」
扉が開け放たれて、二つの影が謁見の間に姿を現す。扇子で顔を半分隠した柘榴と、やや焦点の定まっていない王太子の二人組だった。