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後宮の中心にありながら、その宮はしんと静まりかえっていた。皆、自分の身の振り方に忙しく、立ち寄る者も気にかける者もいない。
元より、親しく交流する者などなかったのだ。寵愛を受けるのと同時に、妬みと僻みも一身に受けていたのだから。
その上、王も替わる今となっては媚びる者もいない。そんな中訪れるのは、次期国王以外には一人だけだった。
「また来たの、あなた」
寝台で体を起こして、柘榴は呆れた声をあげる。
「真面目なんですよ」
そう返すのは、異国風の出立ちの青年だ。かっちりと着込む晶華に比べれば、肌を見せる割合が多い。健康的に日に焼けたさまも、彼の肉体美を際立たせていた。
しかし、柘榴はにべもない。
「そんなふうに彼は笑わないわ」
そう、ぷいとそっぽを向く。偽者はめげない。ではどのようにと、にこやかに尋ねた。
「いいでしょう、どうだって」
視界から彼を外すべく、幾度となく顔の向きも体の向きも変えてみる。それでも彼は割り込んできた。
「よくありませんよ。演出家がそれでは。きちんと向き合わないと」
重ねられた手に、柘榴は目の端を向ける。黒い焔が、徐々に彼の手に燃え移ろうと焦がしている。しかし彼の手は少しも動かない。
「あの娘たちにそんなに入れ込むなんてね。たかだか数百年の猫に、私の呪いは苦しいでしょう」
「あの娘たちのためじゃありませんよ、自分自身のためです。言ったでしょう。私は面白いことが好きなんです。この十数年、王からも王太子からも寵愛を受けながら、頑なに貞操を守ってきたあなたを落としてみたいと思っただけですよ。難攻不落な城ほど、燃えるものでしょう。そんなあなたを落とした最高の人間について、知りたいのですよ。これほどまでに激しい愛を生み出させる魅力。いったいどんな?」
激しい。
柘榴は人には見えぬその焔の揺れを眺める。何もかも焼き尽くそうと、そう思えるほどの火種。それが彼だ。
「ではこうしましょう。昔話を聞かせていただけませんか。教えてもらうばかりじゃ能がない。盗みましょう。あなたの話の中から。あなたも彼を描き直せるし、一石二鳥でしょう。まずは馴れ初めからお願いしますよ」
「関係のないことよ」
微かに、衣擦れの音がする。それはすぐ側で。ふわりと知らない香が聞こえた。
「知りたいのですよ、あなたを」
背中から回り込むようにして、耳元で彼は囁く。弾けるように立ち上がると、熱い眼差しが上目遣いに向けられていた。彼の姿で。
思わず柘榴は息を飲んだ。
「ああ、人が神に頼みごとをするなら、供物も必要ですよね」
彼は懐から細身の金細工の腕輪を取り出した。一つ、赤い宝石が嵌め込まれている。
「あなたに似合うと思って。かの国ほど良質な石はとれませんがね」
柘榴の脳裏に、さっと紅玉の姿がよぎる。二度目に会った時の、供物を持って現れた彼の姿が。
全く同じものではない。けれど、彼もまた柘榴石の装飾品を持って現れたのだ。
「神の恵みを、いただけませんか。供物に見合うほどの」
呪いに身を堕とした神。願いを吸い上げることも叶えることもやめ、ただ自分の目的のみを遂行する存在。それでも。
かつて神だった頃の記憶が、覚えている。どう振る舞うべきか。
「彼は素晴らしい踊り手だった。あの国の神も、一目置くくらい。たまたま泉のほとりでうたたねしているのを見かけて。……ほんの、悪戯のつもりだったのよ。夢に、理想の舞を魅せる私を描かせた。こんなものを見せたらどうするかしらって。そうしたら、彼が現実だと思い込んで、澄んだ目で教えを乞うてきて……もういいでしょう」
青年はなおもくらいつく。
「いいはずないでしょう。あなたの大切な思い出です。あなたの権能は夢に干渉するものであって、舞に関するものではなかった。それなのに、あなたは誰もが称賛してやまないほどの名手となった。相当の努力をしたのでしょう。神として与えられた役割を超えて」
声を上げてしまいそうになる口を、両手で塞ぐ。その手を、偽者の彼は強引に解いた。
「あなたは、思い出したくないのですか?」
違う、と唇は答えを紡ぐ。
「そんなわけ、ないじゃない」
けれど目は明らかに目の前の姿を視界から外す。まるで、見てはならないもののように。
魅了術のせいではない。焔の痛みが、意識を委ねようとするのを阻むから。
「そうですよねえ。あなたほどの存在が、ぽっと出の演者に揺らぐなど」
ありえない。神であった者の、そして今は復讐者としての矜持が、彼の言葉に反発する。
「……眉尻を、下げて」
偽者は、言われた通りに彼を演じる。記憶と目の前の姿が、一瞬重なった。呼吸が速くなる。焔が、
「もう、下がって!」
癇癪を起こしたように、柘榴は訪問者を無理やり追い出す。こんなにも声を荒げたのは、ここに来て初めてだ。
(あれは偽者。あれは偽者。まがいもの。惑わすもの)
言い聞かせて、呼吸を落ち着かせる。
何度も夢に見た。彼が隣にいる夢を。
随分怖い夢を見たんだねと、そう言われて。情けないでしょう? と涙をこぼした。
起きると夢だったのは彼の方で。
どれほど自分が彼に焦がれているか、思い知らされた。
魂の中には、怨みからその場に留まるものもあるらしい。そう伝え聞いてその筋の神に頼み込んだ。彼の魂を、せめて手元におければ。けれど、その中に彼はいないらしかった。
(彼らしい)
逆に清々しかった。彼は、そんな自分のような恨みがましい考えの持ち主ではない。
だからこそ、最後に彼は。
彼の願い。彼は今際の際に何と言っていただろう。
柘榴は目を伏せた。
中庭の花の盛りがいつの間にか入れ替わっている。それを知ったのは花を手にやってくる娘たちの話からで。朔は密かに愕然とした。そういう機微をとらえるのは得意だと思っていたのに。
疲れているのだ。そう断定するのは簡単だし、事実でもある。けれど、心の中で何かが違うと引っかかるところがあった。
(早く片付けて柘榴の元へ行こう)
彼女に触れれば、瞬く間にそのような些事を忘れられる。やはり彼女しかいないのだと、自分は間違っていないのだと改めて感じる。
だのに、そんな朔の行く手を遮る者がいた。
「蘭、またきみか。鍛錬などしている余裕はない」
いつもと同じ侍女を連れて。眩しいくらいに真っ直ぐ向かってくる。
「そうですわね。でも、舞はいかがなさるおつもりです? 星祭はもうじきです。あなたさまも舞うのでしょう。少し体をほぐされては。祭祀を蔑ろにするわけにはまいりませんでしょう。予定は空けていただいております」
きみを相手に舞うわけではない、とは口が裂けても言えない。何食わぬ顔で、それも務めだからなと、珍しく従った。
武芸は好まないが、舞は別だ。それに、彼女相手に恥をかくわけにもかかせるわけにもいかない。
朔は身支度を整えると蘭と向かい合わせに立った。所作は叩き込まれている。より洗練された動きへ昇華させねば。脳裏に望と蝋梅の舞姿が浮かぶ。
(あれを超えねば)
そう考えるも、頭が重い。思うように、体が動かない。技量で誤魔化そうとしたが、蘭はすぐに看破した。
「休みましょう。顔色が優れませんわ」
ぴたりと動きを止めると、それ以上はテコでも動かない。
「睡眠はきちんととっていらっしゃるのですか」
「寝ているとも。きみには関係ない」
「お食事は」
「摂っている」
「ほとんど召し上がらないとうかがいましたが」
蘭がぱちんと指を鳴らすと、左右から謎のどろりとした液体が瞬く間に用意された。
「何だこれは」
顔を僅かに背けるが、相手はどこ吹く風。
「果物や野菜を擦り潰したものでございます。少々青臭いかもしれませんが、喉越しも多少よくしておりますので、お召し上がりやすいはずですわ」
と朔に強引に押し付けた。
「いらない」
逃れようとするも、左右から羽交締めにされ、匙で口に入れられる。肉体美を誇る侍女二人は、振り払おうにもびくともしない。
「あら。即位される方の顔に相応しくありませんわ。お肌もぼろぼろ。本当は眠れていらっしゃらないのでしょう。美容にも気を遣われると風の噂に聞きましたけど、そうは見えませんわね」
そんなことはない、と返そうとするが、間髪いれず匙は突っ込まれる。味わう隙もなく次々に匙は運ばれ、謎の液体はからになった。しかし左右の侍女は手を離さない。
「さあこれをお顔に。薔薇水ですわ」
そう言って、蘭は布に浸した水を朔の顔にぱしゃぱしゃと塗りたくる。その頃にはもう、朔は抵抗するのを諦めていた。
「香りがしないな」
ぼそりとそれだけこぼすと、相手はぴくりと眉を動かした。
「さようでございますか。先程召し上がったものもそれなりに青臭かったのですが、それも気になりませんでしたか」
「そうだったか?」
朔は嗅覚を研ぎ澄ます。しかし薔薇の香りはしない。代わりに別の香が感じられた。これは。
(柘榴の纏う香りだ)
高揚感で、胸がいっぱいになる。長年求めた宝物を手に入れた時のような。
しかし蘭の眼差しは、冷えたものだった。さっと手を上げると、侍女は拘束を解いて主人の背後に回った。
「長らくお部屋に戻られていらっしゃらないそうですね。かと言って、妃候補の元でもない。政務でもない。一体どちらに?」
「看病だよ。義母上が例の一件以来弱っていらっしゃるんだ。是非、即位するところを見ていただかねば」
視線から逃れるようにそっぽを向く。しかし投げつけられる声音は厳しさを増す。
「今は大事な時期でございます。女官に任せればよろしいでしょう。その女官も、姿を見せないと聞きますが? 先王の妃は今の宮を出なければならないのに、どうなさるおつもりでしょうか」
女官。いつもの顔を思い浮かべて、はたと思考が止まる。
そういえば見かけていない。では誰が側に? 考えようとしたが、その先へ進めない。もやの中をぐるぐる回っているかのようだ。
「まさか、居残るわけではございますまい」
「体調の優れぬのを無理に追い出す必要はない。落ち着いてからでいいだろう」
ひとまずの言い訳を捻り出す。が、相手は逃してはくれなかった。ぐっと側へ寄ると、周りに聞こえぬように苦言を呈す。
「王太子殿下、やはりしっかり自室でお休みになるべきですわ。あなたさまらしくない。どちらもかなり強い匂いを発するもの。それが判別できないほど柘榴さまの香に溺れていらっしゃるようでは困ります」
(溺れて?)
確かに浮かれているところはあったかもしれない。ようやく想いが通じたのだから。
しかし、やるべきことはしっかり進めている。それなら父王の方が、何もしていないと言っても過言ではない。
(そういえば、柘榴のところにも来ている様子がないな。それどころか、声をかけることもない。なぜ、)
思考はそこで固まる。それ以上は進まず、もやの中。もがく気もわかない。立ち止まったまま、立ちつくしている。
「将軍はいつ戻る?」
びっくりするくらい機械的な声で、話を変える。目の前の蘭が露骨に顔をしかめるのを、どこか俯瞰して見ていた。
「戻り次第、即位の儀を行う。疾く戻るよう伝えよ」
返答はない。それに疑問も抱かず、朔はその場を後にした。