最終話:ミサキのわがまま
「………………カナリア?」
「申し訳ありませんミサキ様、随分と遅くなってしまいました」
カナリアは私の目を真っ直ぐに見ながら、私に向かって声を掛ける。
小鳥の囀りのように心地よい声色は変わらないけれど、暫く見ない間に外見は随分と様変わりしていた。
ショートカットの銀髪ではなく、腰元まで伸びた艶やかな黒髪。
背丈も随分と伸びていて、私より少し低いくらいだろうか。
前と比べて、全体的に女性的な丸みを帯びたような気もする。
そして、夜空に宝石をちりばめたような美しい錦燕蛾のような羽は、一回り大きく、煌びやかになっていた。
その姿は天使というよりも、妖精の国の王女様という感じだった。
「ミサキ様、お会いしたかった……」
「ひっ……!?」
カナリアが一歩踏み出して、私の頬に手を伸ばそうとした。
けれど、その手が触れる直前、私は弾かれたように後ずさっていた。
「ミサキ様? どうなされたのですか?」
「や、やめて……私を見ないで!」
気が付くと私はそう叫んでいた。
宗教画に描かれるような麗しい姿を目の当たりにした途端、私は急に恥ずかしい気持ちになってしまった。あれほど会いたかったはずなのに。
私は狭い部屋の角にうずくまり、両手で顔を覆う。
清廉な彼女の姿を見ていると、今の自分がたまらなく矮小な汚物のように思えてしまう。
以前、『悪魔が神を恐れるのは、その威光のせいで醜悪な自分がはっきり見えしまうから』というような事を言われた気がするけれど、今ならその意味がよく分かる。
私はカナリアの前では、美しく格好いい『ミサキ様』でありたかったのだ。
カナリアが神に等しい存在となった一方で、私は薄汚い溝鼠に戻ってしまった。余りにも立場が違うじゃないか。どうしようもなく惨めで、情けない気持ちに塗りつぶされてしまう。
私が怯えているのを感じ取ったのか、カナリアは哀れむような視線で私をじっと見ていた。
彼女にそんなつもりは無いのだろうけど、その視線自体が今の私には辛い。
カナリアは私を怖がらせないためか、少し距離を置いたままで、ゆっくりと語りかける。
「ミサキ様、そのままで構わないので聞いてください。貴方様のお陰で、天界は以前と随分変わりました。まだ色々とわだかまりは残っていますが、これから徐々に解消されていくと思います」
「そ、そう……良かったね」
もっと気の利いた回答をすればいいのに、私はそれだけしか答えられなかった。
それからカナリアは、私の目線に合わせるように、ささくれた畳の上にぺたんと座り込んだ。
綺麗なドレスに埃がついてしまうのに、まるで気にも留めていない。
「という訳で、天界を脱走してきちゃいました」
「…………ぇ?」
言ってる意味が分からない。何が『という訳で』なんだろう。
そんな甘栗剥いちゃいました、みたいなノリで凄まじい事を言わないでほしい。
調子付いたカナリアは軽く笑って、そのまま言葉を紡いでいく。
「私の力が必要な部分は一通り終わりましたし、全部アシュラさんに押し付けて逃げてきました。だって、あのままじゃ一生掛かってもここに来られそうにありませんでしたから。大丈夫、彼ならきっと上手くやってくれます」
「え!? じゃあ今の天界ってアシュラがリーダーなの!?」
「私が職務放棄したから、事実上そうなりますね。アシュラさんも色々大変でしょうけど、イカルやアトリ、それにツグミも居ますから」
「その面子だと滅茶苦茶になるんじゃ……」
「かもしれませんけど、それはそれで良いのではないでしょうか」
カナリアはあっけらかんと言い放つ。
相変わらず無茶振りをされる男だなあ、アシュラ。
でもまあ、彼なら何とかやってくれるだろう。
私と違って、何だかんだ言いつつ面倒見の良い人狼だし。
「でもそんな事したら、ケツァールさん達が黙ってないんじゃ……」
「あの人たちは適当な異世界に捨ててきました」
カナリアは極上の笑顔を浮かべ、さらっと凄い事を言ってのけた。
麗しの上級天使様が、まるで粗大ゴミみたいのような扱いだ。
暫く見ないうちに、カナリアは随分と奔放になっていた。
誰の影響を受けてこんないい加減になってしまったのだろう。
きっとアシュラのせいだ。そうに違いない。
私のせいでは無いはずだ。うん。
「ミサキ様……やっと、やっとお会いする事が出来ました……」
近況報告が終わった途端、カナリアは急に声を窄め、震える声でそう言った。
語尾が震えているのは、私の前で泣いてしまうと、余計私が不安になると思っているからだろう。
そうだ。この子はこういう子だった。
皆の前ではリーダーとして気丈に振舞っているけれど、本当は臆病で、感極まるとすぐ泣いてしまう。
けれど、人の気持ちを察して堪える事も出来る子。
なんだ、やっぱり変わっていないじゃないか。
「カナリア、一つ教えて。もしかして私の為に天界を出てきたの? 残念だけど、私はもう天界には帰れないよ?」
「はい、存じております。だから私の意思でこちらに参りました」
「え、でも、だって、カナリアは神になったんだよ? 何でそんな……」
「天界より、ミサキ様の方が大事だからに決まっているじゃないですか」
カナリアは照れ臭そうにはにかんだ。
私と一緒の時だけ見せる緩んだ顔つきで、その柔らかな表情を見るたび、自分だけが彼女の特別である気がして、私はとても満たされた。
だから、今の言葉が嘘や痩せ我慢ではない事も分かっていたけれど、それでも納得行かない。
「だ、だっておかしいじゃない! 何で私なんかのために……」
そう言い掛けた私の唇に、カナリアがそっと人差し指を押し当てる。
ただそれだけの動作で、私の体は金縛りにあったように固まってしまう。
「私なんか、とか言わない」
「え……?」
私が呆けている隙に、カナリアが私を強く、けれど優しく抱き締めた。
懐かしく、爽やかでほんのりと甘い香りが鼻腔をくすぐる。
氷の彫刻みたいに冷えきった私の身体に、暖かく柔らかな感触が染みこんでいく。
そのままカナリアは、子守唄を歌うように私の耳元で囁いた。
「ミサキ様は、私達の分まで重い物を背負い込んでくれました。もう自分を苦しめる必要なんてないのです」
「私はもう何の力も無い、ただの薄汚れた人間だよ? カナリアと一緒にいられる身分じゃない。住む世界が違う。カナリアだって、せっかく立派な天使になれたのに……」
「偉くなんて、ならなくていい」
私の言葉を遮るように、どこかで聞いた台詞をカナリアは口にした。
そうしてカナリアは私の耳元から顔を離し、私の目を真っ直ぐに見た。
その澄み切った双眸で覗き込まれると、心の底まで見透かされているような気持ちになる。
「ミサキ様……貴方の本当の気持ちを伝えてください」
「私の、本当の、気持ち?」
いつの間にか、不快な震えも、身を切る寒気も消え失せていた。
優しく微笑みながら、カナリアは、赤ん坊をあやすように私の背中をぽんぽんと軽く叩く。
不思議と心が落ち着いた。
人に優しく抱きしめられると、何が変わったわけでも無いのに、私は居てもいいんだ、愛されてるんだって感じる事が出来るから。
「立派な天使や、義務や、身分などは全て捨てて、ミサキ様が本当に望む事……心の底に押し込めている物を全部吐き出して下さい。傷ついた私をそうして受け止めてくださったのは……ミサキ様、あなたです」
そう言って、カナリアは私の額に軽くキスをしてくれた。
もう駄目だった。
今まで抑え付けていたものが、どっと溢れ出す。
ジンさんは言っていた。
心の底から望むものには、恥も外聞も無く縋らなければならない。
幸せは握っていないと逃げてしまうから、と。
私は形振り構わず、カナリアに力一杯しがみ付く。
もう二度と離したくない。別れたくない。
「私を……一人に……しないでっ……!」
頭の中がぐちゃぐちゃで、もう完全に錯乱していた。
言いたいフレーズは沢山あった。言葉に出来ないほど胸に詰まっていた。
けど、結局口から出たのはそれだけで、後は幼い子供のように、カナリアの胸の中でただひたすらに号泣した。
大きくなると、感情を吐き出す事が難しくなる。
小さな頃はもっと世界は輝いていて、辛ければわんわん泣いて、楽しい時はけらけら笑って、上手く心を浄化することができたのに。
何で出来なくなってしまうんだろう。
つらい事や悲しい事になれてしまうからかな。
見栄やプライドとか、甘えられる相手が居なくなってしまうからかな。
良く分からない。
泣きたい時は、泣いてもいいのにね。
私はそんな大事な事も忘れてしまうほど、疲れ果てていたのだろう。
自分一人で黒いものを抱え、先の見えない世界を生きていくのは本当に辛いから。
「ミサキ様が私に施してくれた分……いえ、それ以上に、これからは私がミサキ様をお守りします」
「私……汚いし、何も取り柄なんて無いよ?」
「はい」
「私……空気読めないし、下品だし……あと、あと……」
「ミサキ様の事はよく知っています。確かに今のミサキ様は汚れています。悪い所だって沢山あります。それでも……それでも私には、ミサキ様が必要なのです」
ああ、そうか。
私が勝手に世界に絶望していただけで、私を必要としてくれる人は確かに居たんだ。
この広い世界で、数え切れない存在の中で、他の誰でもない、私を必要だと言ってくれる人がいる。
私にすらそんな人が居るのだから、この世界の生きとし生ける全ての物には、そういう存在が一つくらい用意されているのかもしれない。
私の勝手な妄想だけど、もしそうなのだとしたら、これほど嬉しい事はない。
どれだけ不幸で、どれだけ馬鹿で、どれだけ惨めでも、きっと祝福されて生まれてくるのだろう。
他の人が一回の人生で気付く事に、三回目でようやく少しだけ気が付いたのだから、やっぱり私は馬鹿なんだ。
きっと、私は格好良くなんてなれないのだろう。
でも、格好良くなる必要なんて無いのかも知れない。
私は私、それ以外の何物にもなれないのだから。
「落ち着きましたか?」
「うん……ありがとうカナリア。これからも私と一緒に居てくれる?」
「はい! 私と一緒にいれば、少しずつですが神力も回復していくと思います。そしていつか、新しい天界に殴りこみましょう。たぶん前よりずっとグチャグチャで、気持ち悪くて、騒がしくて、恐ろしくて、とても楽しくて愉快な場所になっていると思います!」
「でも私は人よりノロマだから、いつ行けるようになるか分からない。下手をすると一生行けないかもしれない」
「じゃあ、一生ミサキ様のお傍に居られますね」
「あはは」
カナリアがあまりにも楽しそうに言い切るので、私も釣られて笑ってしまう。
人に向かって笑いかけたのは、本当に久しぶりな気がする。
私の笑顔を見ると、カナリアは立ち上がり、ぽん、と手を叩いた。
「では神である私、カナリアとの契約を行います。ミサキ様、さっそく儀式を開始しましょう!」
「え、ぎ、儀式!?」
カナリアはやたら元気に宣言して、へたり込んでいた私を引っ張り上げる。
そのまま私の背後に回ると、にこにこしながら私の背中を押していく。
どうやら部屋の外へ出ろということらしい。
「儀式って言われても、私、もう天使の力なんて無いよ?」
「何も必要ありません。ですが、とてもとても大事な儀式です」
泣いたせいで目は腫れてるし、布団に丸まってたせいで服も髪型も滅茶苦茶だ。おまけに部屋着のジャージはダサい。あんまり外に出たくないんだけどなあ。どこまで押し出されるか冷や冷やしていたら、カナリアは玄関先で立ち止まり、私だけがサンダル履きでドアの外に出される。
これに何の意味があるんだろうか。
「では儀式を開始します。ミサキ様……」
「う、うん」
そうしてカナリアは、玄関の中からそっと片手を差し出した。
「おかえりなさい」
おかえりなさい、ただその一言を言われただけなのに、不意に目尻に熱いものが溢れた。
春の日差しで霜が解けるような、ひび割れた大地に慈雨がしみこんでいくような、温かく心地よい感触。その温もりに身を任せたまま、心の赴くまま、私の口から自然と対になる言葉が出る。
「ただいま」
そう言って、私は差し伸べられたカナリアの手を強く握り返した。
カナリアも満足そうに頷いて、私の手を優しく引いた。
もう一人ぼっちじゃない、私たちの聖域へ――。
これにてこのお話は完結です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。




