番外編 ギルバードの椅子
「マードック、ちょっと頼みがあるんだけど」
昼過ぎ。
工房の扉から顔を出したギルバードは、珍しく少し申し訳なさそうな顔をしていた。
「なんだ?」
「椅子、作れないか?」
マードックは手を止めた。
「椅子?」
「ああ。家のやつ、脚が一本駄目になってさ。直してもいいんだけど、もう結構古いんだ」
「なるほど」
マードックは頷いた。
家具を作ること自体は、今では珍しくない。
最近は錬金窯で板材や部品をある程度そろえられるようになり、棚や机といった家具も作るようになっていた。
「どんな椅子がいい?」
「普通のでいいよ」
「普通?」
「ああ。座れればいい」
マードックは眉をひそめた。
「それじゃ分からん」
「分からんって……椅子だぞ?」
「高さは?」
「普通」
「座面の大きさは?」
「普通」
「背もたれは?」
「普通でいいって」
「その普通が分からんと言っている」
ギルバードはしばらく黙った。
「……面倒なところに頼んだか?」
「今さら気づいたの?」
奥からローレライの声が飛んできた。
ギルバードが苦笑する。
「いや、まあ、丈夫なら何でもいいよ」
「丈夫か」
マードックが呟いた。
その言葉に、嫌な予感を覚えたのか。
ローレライが顔を上げた。
「あなた」
「なんだ」
「椅子一脚だからね?」
「分かっている」
「本当に?」
「分かっていると言っているだろ」
その日の夕方。
工房の床には、三脚の椅子が並んでいた。
「増えてるじゃない」
ローレライが言った。
「比較用だ」
「一脚頼まれたのよね?」
「だから比較しているんだ」
一脚目は、座面が高い。
二脚目は低い。
三脚目は背もたれの角度が違っていた。
マードックは順番に座り、立ち、また座った。
「立ち上がる時に力がいるな」
座面の低い椅子から立ち上がりながら呟く。
「じゃあ高くすれば?」
「高すぎると足が浮く」
「ギルバードなら足長いでしょう」
「使うのがギルバードだけとは限らない」
ローレライは少し黙った。
「……もう売ること考えてる?」
「まだ考えていない」
「まだ、ね」
翌日。
ギルバードは約束通り工房へやってきた。
「できた?」
「まだだ」
「椅子だぞ?」
「だからだ」
工房の中央には、今度は五脚並んでいた。
ギルバードは言葉を失った。
「……増えてる」
「座れ」
「全部?」
「全部だ」
「俺、仕事帰りなんだけど」
「ちょうどいい」
「何が?」
「疲れた状態で座ったほうが分かりやすい」
ギルバードは諦めたように一脚目へ腰を下ろした。
「どうだ」
「普通」
「次」
「いや、普通だったぞ?」
「いいから次」
二脚目。
「どうだ」
「ちょっと硬い」
マードックが何かを書き留める。
三脚目。
「これは?」
「背中が楽だな」
「なるほど」
四脚目。
「これは……ちょっと前に滑る感じがする」
「座面の傾斜か」
五脚目。
ギルバードは座るなり、少し背中を預けた。
「……あ」
「どうした」
「これ、楽だな」
マードックが顔を上げる。
「どこが?」
「いや、分からん」
「分からん?」
「なんか、楽」
マードックは眉間にしわを寄せた。
「それでは分からん」
「俺に聞くなよ!」
ローレライが吹き出した。
「座り心地なんて、そんなものよ」
「感覚では再現できない」
「でも、その感覚を再現するのが技術なんじゃない?」
マードックが止まった。
ローレライは、しまったという顔をした。
「……余計なこと言った?」
「いや」
マードックは五脚目を見る。
座面の高さ。
奥行き。
背もたれの角度。
脚の位置。
一つ一つは、ほんのわずかな違いだ。
だが、そのわずかな違いが、座った時の感覚を変えている。
「面白いな」
「始まった」
ギルバードが呟いた。
そこから、さらに三日かかった。
「ようやくできたぞ」
呼び出されたギルバードは、工房に入るなり完成した椅子を見た。
見た目は、驚くほど普通だった。
木製の四本脚。
少し広めの座面。
緩やかに傾いた背もたれ。
装飾はほとんどない。
「……普通だな」
「座れ」
ギルバードは恐る恐る腰を下ろした。
しばらく黙る。
背もたれに体重を預ける。
足を少し動かす。
もう一度座り直す。
「どうだ?」
「……いいな」
「どこが?」
「だから分からんって」
ギルバードは笑った。
「でも、いい。ずっと座ってられそうだ」
マードックは満足そうに頷いた。
「座面は少し後ろを低くした。背もたれの角度も変えてある。脚の位置も、荷重が分散するように――」
「分かった分かった」
「まだ説明の途中だ」
「俺は椅子を頼んだだけだからな?」
そこへ、小さな足音が響いた。
「ギル!」
セドリックが工房へ駆け込んできた。
「おう」
ギルバードが両手を広げる。
セドリックはそのまま膝の上によじ登った。
「おいおい」
「すわる!」
「もう座ってるだろ」
ギルバードは笑いながら、セドリックを抱え直した。
二人分の重さがかかっても、椅子はびくともしない。
マードックは少し離れた場所から、それを眺めた。
「荷重も問題ないな」
ローレライが隣に立つ。
「そういうところを見るのね」
「当然だろ」
「普通は、いい光景だな、とか思うところじゃない?」
マードックはもう一度、二人を見る。
楽しそうに笑うセドリック。
その頭を撫でるギルバード。
そして、その二人を支える椅子。
「……まあ」
マードックは小さく息を吐いた。
「悪くないな」
数日後。
ギルバードの家に届けたはずの椅子と同じものが、工房にもう一脚置かれていた。
ローレライがそれを見つけた。
「これは?」
「試作品だ」
「完成したんじゃなかった?」
「一脚だけでは耐久性が分からん」
「誰が使うの?」
「俺だ」
マードックはそう言って腰を下ろした。
少し背中を預ける。
「……なるほど」
「何?」
「確かに楽だな」
ローレライは呆れたように笑った。
その椅子は、やがて工房で一番長く使われる椅子になった。




