プロローグ 父親になったので冒険者を辞めることにした
小さいな。
マードックが生まれたばかりの息子を見て最初に思ったのはそれだった。
「ほら、ちゃんと頭を支えて」
「分かってる」
「分かってる人の顔じゃないわよ」
ローレライは笑いながら赤ん坊を差し出した。
マードックは両腕でおそるおそる受け取る。
思っていたより軽い。それなのに腕が妙に緊張する。
「これでいいのか?」
「大丈夫よ」
「本当に?」
「大丈夫だから。そんなに力を入れないで」
そう言われても力を抜く方が難しかった。
マードックは魔導師だった。
冒険者として何度も魔物と戦ってきた。炎を操い、岩を砕き、自分より大きな魔物を相手にしたこともある。魔力の扱いにはそれなりの自信があった。
そんな男が赤ん坊一人を抱くだけで緊張している。
「……怖いな」
「あら、あなたでも怖いものがあるのね」
「そりゃあるさ」
腕の中で赤ん坊が少し動いた。
マードックの身体が固まる。
「そんなに緊張しなくても壊れないわよ」
「いや、壊れるだろ」
「壊さないでよ」
「だから怖いんだよ」
ローレライが声を殺して笑った。
マードックは赤ん坊の手に指先で触れてみる。
小さな手が動き、指を握った。
「……」
弱い力だった。
それでもマードックは指を動かせなかった。
「セドリック」
ローレライが名前を呼んだ。
「この子がセドリック」
「ああ」
二人で何度も話し合って決めた名前だった。
マードックは自分の指を握っている小さな手を見つめた。
ふと三か月ほど前の仕事を思い出す。
冒険者仲間と森へ入り、獣型の魔物を討伐する依頼だった。
事前に聞いていたのは一頭だけだったが、実際には群れになっていた。
冒険者をしていれば珍しい話ではない。
仲間と連携して何とか切り抜けたものの、マードックは左肩に大きな傷を負った。
家へ帰るとローレライが黙って傷の手当てをしてくれた。
その腹にはセドリックがいた。
あのとき判断を一つ間違えていたら。
魔力がもう少し早く尽きていたら。
仲間の援護が間に合わなかったら。
今ここに自分はいなかったかもしれない。
「ローレライ」
「なに?」
「俺、冒険者を辞めるよ」
ローレライは目を丸くした。
「今決めたの?」
「ああ」
「ずいぶん急ね」
「前から少し考えてたんだ。今決めた」
マードックはセドリックを見る。
ローレライは少し黙ってから息を吐いた。
「そう」
「反対しないのか?」
「すると思った?」
「もう少し驚くかと思ってた」
「驚いてるわよ。でも安心した」
その言葉を聞いてマードックは何も言えなかった。
冒険者は稼げる。
実戦経験のある魔導師なら仕事にも困らない。危険な依頼を選べば報酬も上がる。
今まではそれでよかった。
危険なのは最初から承知していたし、自分で選んだ仕事だった。
だが、これからは違う。
自分が死んだら困る人間が二人いる。
「問題は次の仕事だな」
「もう仕事の話?」
「働かないと三人で食っていけないだろ」
「今日くらいは息子のことだけ考えたら?」
「息子のことを考えてるから仕事の話をしてるんだよ」
「あなたらしいわね」
冒険者を辞めるなら別の仕事が必要になる。
できれば危険が少なく、家の近くで働ける仕事がいい。これまで身につけた魔力制御も無駄にはしたくない。
マードックはいくつかの仕事を頭に浮かべた。
「錬金術かな」
「錬金術?」
「魔力を使うし、工房を持てば町から出なくていい」
「あなた、錬金術なんてできた?」
「基礎なら知ってる」
「それで仕事にするの?」
「これから覚えればいいだろ」
ローレライはしばらくマードックを見つめた。
「簡単に言うわね」
「魔物に食われるよりは簡単だ」
「比べるものがおかしいのよ」
それでも悪くない選択だと思った。
錬金術なら町で仕事ができる。
朝に家を出て仕事をする。夜になれば帰ってくる。
何日も森に入り続ける必要はない。依頼先で野宿することもない。
それならセドリックが大きくなっていく姿も見られる。
腕の中でセドリックが小さなあくびをした。
マードックはその顔を見て笑う。
「よし、決めた」
「今度は何?」
「俺は錬金術師になる」
「まずはちゃんと勉強してから名乗ってね」
「分かってるよ」
マードックが錬金術師を選んだ理由は単純だった。
世界を変えたいわけではない。
錬金術の歴史に名を残したいわけでもない。
神の定めた法則に逆らうつもりもなかった。
家族と暮らして、なるべく危険な目に遭わずに働く。
そして毎日ちゃんと家へ帰る。
それだけだった。
錬金術師なら家に帰ってこられる仕事だと思った。
少なくとも、このときは。




