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オリカ・イズ・デッド、それから  作者: 遊佐東吾
第1章

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31/40

8-2:来客、お茶の時間、靄

 七月の学期末テスト明けのタイミングで、宙宮家は例のビルの二階へと引っ越した。かつては千里眼を持つ占い師・アイアコッカ千鶴の館が入居していた物件だ。


「そろそろ湯も沸くな」


 キッチンに立つハルクが手際よくお茶の準備を整えていく。

 随分昔に中古で購入した二口のガスコンロだが、新居でも以前と変わりなく順調に稼働してくれていた。ここからまだ何年も活躍してくれることだろう。もちろん他の家具や電化製品の類はすべて引き続き使用している。

 茶托をつけた湯飲み茶碗は二客、ハルクとフブキ用には飲み慣れたマグカップ、ミコとキョウスケにはリンゴジュースのグラスを用意済みだ。

 夏休みに入ったばかりの午前中、宙宮家には二組の客が訪れていた。その一人である周防仁吉は、ミコとキョウスケの二人を相手にして囲碁を打っている。


「やあ、いい手だ」


 仁吉がにこにこしながら二人の手を褒めているようだ。

 ビルのオーナーである周防仁吉は、同時に九慈星彦の祖父でもあった。

 祖父と孫、つまり仁吉とセイゲンの間でどのような会話があったのかは詳しく聞かされていないが、深く感謝しなければならない人物なのだと承知している。

 破格の条件で宙宮家がこのビルに入居できたのも、すべて仁吉の計らいがあってのことだ。ハルクからすればどれだけ頭を下げても下げたりない。

 そんな仁吉だが、引っ越してきた宙宮家へ三日に一回のペースで顔を出す。

 いつでも大らかな雰囲気であり、ミコやキョウスケが同級生に対するような話し方をしても、怒るどころかより目尻を下げるほどだ。


「お待たせしました、お茶です」


 使用した茶葉は仁吉からの引っ越し祝いである。ハルクにも味の違いがわかるほどなのだから、おそらくは相当高級な品なのだろう。


「おお、すまんなハルク君」


 礼を言ってからさっそくお茶に口をつけ、仁吉が言った。


「この短期間に見違えるほど淹れ方が上達したなあ。うん、うまい」


「ありがとうございます」


 褒められて悪い気はしない。

 そんなハルクをキョウスケがからかう。


「兄ちゃん、リンゴジュースも上手く注げるようなったなあ」


「なったなあ」


 ミコまで悪ふざけに加担する始末だ。

 仁吉の手前、頭ごなしに叱るわけにもいかず、ハルクはただ苦笑いを浮かべる。

 ちらりと壁掛け時計を確認し、仁吉へと告げた。


「セイさんももう少ししたら帰ってこられると思うんですが。今日はちょっと大学に用事があるとのことで」


「いやなに、構わんよ。元気でいてくれればそれでいい」


 温和な表情でそう語り、指で挟んだ白石をぴしりと打つ。

 この手を見たミコとキョウスケが、次に打つべき場所を巡って「あそこだ」「いやこっちだよ」と互いに譲らず主張している。

 二人は最近囲碁を始めたばかりだ。ただし教えてくれているセイゲンからは「吸収力がすごいねえ」と何度も感心されているようだった。


「えいっ」


 結局ミコが抜け駆けして次の手を打ったらしい。

 またにぎやかな言い合いが繰り広げられているが、ハルクはまだ空のままの湯飲み茶碗が気になっていた。

 もう一人の客である真昊住職は、フブキとともに屋上へ上がったままだ。


     ◇


 ビルの屋上へはこれでもかとばかりに太陽が照りつけてきている。そんな中でも朗々と読経をあげている真昊住職の後ろで、フブキは軽く目を瞑って控えていた。

 心頭滅却すれば火もまた涼し、と昔の高僧が燃え盛る寺で口にしたそうだが、少なくとも彼女には遠い境地である。滴り落ちる汗が気になって仕方ない。

 一方で読経を終えた真昊住職にとっては、暑さなど物の数ではないのか。涼しげにさえ見える。

 そんな彼へフブキは深々と頭を下げた。


「あの人のこと、ありがとうございます」


 彼女が言っているのは、偽者の母であった蓮川結のことだ。

 現在、蓮川結の身柄は轟音寺での預かりとなっている。

 真昊住職には甘えてばかりなのだが、彼はさらりと近況を語った。


「近頃は随分と落ち着かれました。どうやら仏門に興味がおありのご様子でして、学びへの意欲も見せてくださっています」


 ああ、とフブキは思わず嘆息した。

 蓮川結の人生が恐れと悲しみで満ちていることに議論の余地はない。

 中途半端に母親を演じていた彼女への複雑な思いはあるにせよ、それでも不幸になってほしくはないのだ。

 これからの人生を祈りに捧げていくのは、もしかしたら蓮川結にとって最も心の平穏が保たれる道なのかもしれない。

 熱のせいで大気も歪んで見える屋上を後にし、階段を下りながら再びフブキが口を開く。


「それと、あの、ミコのことなんですけど」


 自分でもよくわからないうちに切りだしていた。

 けれどもこれから何を語ろうとしているのか、途端に雲散霧消してしまう。

 そこにあったはずのわずかな手掛かりさえ、靄がかかって隠されているような気がするのだ。

 真昊住職が階段の踊り場で足を止める。

 話すべき言葉を見つけられず悪戦苦闘しているフブキへ、彼は微笑む。


「思い出します。フブキさんが初めて当寺へお見えになったときも、ミコさんを連れてきておられましたね」


 もう二年くらいになりますか、と遠くを見つめている。

 あの頃のフブキは、誰にも相談せずきょうだいたちの父親捜しを始めていた。そして最初にあたりをつけたのが真昊住職だったのだ。

 そのときすでにミコの霊感は顕在化しており、まだ見ぬ彼女の父親に求めた要素もまさにその部分である。きっと父方の血から受け継いだ力に違いない、と。

 まだ若年ながらも真昊住職の霊能者としての評判は高く、加えて一時期轟音寺へは女性が出入りしていたという噂もあった。

 それだけで状況証拠をつかんだつもりになったフブキは、ミコを連れて轟音寺への突撃を敢行したというわけだ。


 だが結局、その日はお寺でいろいろと親切に教わりつつ、遊んでもらっただけの一日に終わる。真昊住職に何かを隠しているような様子は見られず、ミコに対して後ろめたさを感じている素振りなど一切なかった。

 まったくの空振りとなった轟音寺訪問だが、実は彼に関する噂はもう一つある。稀に見る好人物、というのがそれだ。

 フブキはその噂の正しさを身をもって理解したのである。

 だからこそオリカが死んだあの夜、彼女は他の誰でもなく、轟音寺の真昊住職を頼ろうと決めたのだ。

 会話が続かないままに踊り場で立ち尽くしている二人だったが、階下でドアが開いた音にはどちらも気づいた。


「おーい、ユキ姉さぁん」


 遅れてフブキを呼ぶ声がする。キョウスケだ。


「というよりマコウさぁん」


「ふん。何だよ、あたしじゃないのかよ」


 腰に手を当てたフブキが鼻を鳴らす。

 聞こえてくる足音は二人分、キョウスケと一緒に上がってきたのはミコだった。


「ハルちゃんが『お茶にしましょう』だって」


 キッチンを担当する弟からの伝言を、末っ子のミコが預かってきたようだ。

 けれどももう一人の弟の用件はまた別だったらしい。


「おれたち、ハンデをもらっても仁吉さんに勝てなくてさー」


 代打ちをお願いします、などと言って頭を下げている。

 当の真昊住職は「弱りましたね」と困り顔だ。


「周防さんほどの名手に、私なんぞが勝てるかどうか」


 セイゲンの話によれば、周防仁吉はアマチュア囲碁における高段者であり、タイトルを保持していた時期もあったという。

 そんな相手との勝敗に言及するあたり、真昊住職も相当に打てる人なのだろう。普通は実力差がありすぎてゲームの成立を心配するはずだ。


「早く早く」


「慌てなくても大丈夫ですよ、ミコさん」


 手を引っ張っていくミコに対し、真昊住職は優しく声を掛けている。

 フブキの近くでその光景を眺めていたキョウスケが言う。


「こうして見てると、何だか本当の(・・・)父子みたいだな」


「そう、だね」


 引っかかっていることがあるのに、フブキはどうしてもそれを思い出せない。

 喉に刺さっている魚の小骨のように、彼女の脳の一部だけが靄で覆われているような奇妙な感覚がずっと続いていた。

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