母の面影
大谷家に知笑が久しぶりに訪れた。
山へ行った日、その夜は大谷家に泊まり、そのまま市之瀬のところへは帰らないと思っていたが、ちゃんと別れを言いたいと市之瀬の元へ行ったままずっと連絡がなかった。ひょっとして、また戻ってしまったのか、心配で晴美が何度かメールを送っていたのだった。
「すみません、返信もしないで。あれから私、もう少しだけ市之瀬と一緒にいようと思って……」
驚いた。やっぱりそう簡単にはいかないものなのだろうか? 晴美は何と言っていいのか言葉が見つからなかった。でも、明生は知笑の声のトーンがいつもより違って聞こえていて、どこか変化を感じ取っていた。
「違うんです……従うだけの生活ではなく、彼とは対等な関係で生活してみようと思って、私、晴美さんに教えてもらって、アイロンも上手にかけられるようになったし、お料理もかなり上達しました。掃除も、ちょっと雑ですが、ちゃんと部屋はキレイにしています。だから彼に何を言われても平気なんです!」
「でもね、知笑さん?」
「だけど昨日、些細なことで叩かれました」
よく見たら、左頬が少し腫れているような感じがした。
「知笑さん! やっぱり別れた方が……」
晴美が怒り口調で言うと、意外な言葉が帰って来た。
「だから私、殴り返してきました!」
「えっ!」
「部屋の中だと怖いから、朝、彼が会社に行く時、駅まで追いかけて行って、殴ってやりました! それで、そのまま荷物をまとめて来ました」
「荷物?」
「はい。それで、図々しいお願いなんですが……」
知笑は興奮した表情のまま畏まった。
「暫くしたらこちらへ私の荷物が届くと思います。身の回りのものだけで、そんなにたくさんはありませんが、預かっといて頂けますか?」
「いいに決まってるじゃないの! それに暫くここにいていいのよ」
知笑は変わった。
確か学生時代は友達がいなかったり、身体が弱かったり、誰かに縋って生きていく子じゃなかったっけ? 知笑の変化に晴美は驚きを通り過ぎて、興奮? のようなものを感じていた。
「私、気持ちがすーっとしました」
力強く、でも微妙に震えている声を聞き、明生は知笑が思いっきり力を振り絞って変わろうとしたのだろう……そう思うと胸が熱くなった。
「知笑さん、よく頑張ったね!」
そう明生に言われた途端、知笑は瞳一杯に涙を浮かべ、何度も「ありがとうございます」と微笑んだ。
晴美と明生は、知笑のこれからの人生が明るく照らされるのを祈った。
その後、知笑は馬場の所有するワンルームマンションの契約を済ませた。
知笑の再出発をお祝いしようと、麻友の父親、壮介の経営する洋食屋『ぶいよん亭』に晴美、明生、詩織、知笑、馬場と、少し遅いランチを食べに出掛けた。
カウンターと五つのテーブル席があるこぢんまりとした店内で、壮介は忙しそうに働いていた。
「いやぁ、今日バイトの子が試験中で休んでて、もう一人は昨日から風邪で休んじゃってるので、ちょっとバタバタしていてすみません」
「あっ、いらっしゃいませ」
ペコリと頭を下げ、麻友がカウンター内で洗い物をしていた。
「麻友、わたしも手伝うよ」
「ありがと、詩織ちゃん」
素早くカウンターに入り、詩織が麻友の隣で洗い物を始めた。
「家では何もしないのにねぇ」
「そうだね、晴美さん」
と、すっかり親友になった詩織と麻友の後ろ姿を微笑ましく眺めていた。それは壮介も同じだった。
「前の学校では、友達がいなかったみたいだから心配だったんですよ。麻友の事、これからもよろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそ、よろしくお願いしますね!」
と、お互い挨拶を済ませると空いているテーブル席に晴美と明生が腰かけた。
他のテーブルは前の客の皿やグラスがまだ残っていたので、馬場と知笑はカウンター席に並んで座った。
「おじいちゃん、お孫さんとテーブル席じゃなくていいですか? すぐに片付けますから」
壮介がそう気遣うが、馬場がムッとしたのを晴美は見逃さず慌てた。
「お、おじいちゃんじゃないですよ!」
「そうなんですか? いや、仲良さそうだったから」
誤魔化す様に壮介は笑った。
「まっ、おじいちゃんに見えて当たり前か」
ハハハッと豪快に笑った馬場だったが、ちょっとだけ寂しい顔をした。
その時、ベビーカーを押した女性が店に入って来た。
「いらっしゃませーって、あれ? どうした?」
晴美は壮介の表情で、この女性が麻友の母親だという事がすぐに分かった。
「今日はバイトの子が休みだって言ってたでしょ? 手伝うわ」
「体調はどうなんだ? 無理しないでくれよ」
「平気平気、顔色いいでしょ?」
やはりこの女性が麻友の母親、華子のようだ。産後の調子があまりよくなくて、なかなか実家から戻って来れなかったが、もうすっかり回復して店の手伝いができる様になった。
麻友と詩織がカウンターで洗い物をしている姿を見つけると、「私がやるからいいよ」と声を掛けた。
そして壮介が晴美と明生を紹介すると、「いつもお世話になっています。麻友をよろしくお願いします」「いえいえ、うちの詩織こそ……」などと挨拶をした。
店の隅にベビーカーを停め、華子がカウンターに入り、洗い物を代わった。
詩織と麻友がベビーカーの中の赤ちゃんを覗き込むと、スヤスヤと眠っている。
「かわいい。何か、ちょっと麻友に似てるね」
「そうでしょ? 麻友はよく弟の世話をしてくれるの」
華子は幸せそうに微笑んだ。
和気あいあいとした雰囲気の中、遠慮がちに知笑が壮介に尋ねた。
「あの……アルバイトって募集してるんですか?」
と壁に貼ってある「アルバイト・パート募集!」の張り紙に視線を向けた。
「えっ? すぐにでも欲しいくらいだよ。まさかやってくれる?」
「はい! よろしくお願いします」
知笑は『ぶいよん亭』で働く事になった。
食事を済ませ、明生は夕方に予約が入っているお客さんがいる為、急いで晴美と占瞳館に帰ってきた。まだ店にいるというので、詩織は置いてきた。
前もって、生年月日等を聞いて占い、今回のお客さんがどういう人なのか、大体は把握している。
「田中富江です。よろしくお願い致します」
と上品な老女はソファーに腰かけた。
「今日はどのような事を……」
「……はい……私はもうこの先長くはありません……」
声がとても緊張していた。明生はまず、リラックスさせようとちょっとした世間話などをし始めた。
「エアコン、効きすぎてませんか? 僕はちょっと汗を掻くくらいが好きなんですけどね」
「あっ、私もそうです。あまり冷えるとだるくなりますものね」
「家ではそれぞれ家族の好みの温度が違うので、たまにケンカになったりしますよ。えっと、富江さんのご家族は?」
「主人は暑がりで……子供もそんな感じですから、いつも寒いくらいで……」
家族の話をする時、声のトーンが明るく変わった。家族の悩みではないだろうと明生は予想した。
富江は、特別何か病気という訳ではないが、だんだん年を重ねるうち、自分の過去の過ちと後悔があるらしく、その事を明生に語り始めた。
「実は……昔、今の主人と一緒になる前、結婚して子供も授かったんですが、事情があって家を出てきてしまったんです……幼い息子を……置いて家を出た事が……ずっとずっと心の中にあって……」
途切れ途切れ、とても辛そうに語り始めた。たまに、占って欲しいとかではなく、人生相談や、ただ話を聞いて欲しい、という人もいる。
「そして最近、あの子はどうしているだろうと、とても気になって、知り合いに連絡を致しました。それで……あの子が……昨年、ガンで亡くなったと知りました」
と声が段々小さくなり、か細くなった。
「あの子が、結婚していたのか、子供がいたのか、知り合いの方は詳しくは知らないようですが……でも、職業は警察官だったと聞きました」
「そうですか。素晴らしいお仕事ですね」
「はい。でも私がこんな長生きをして、あの子が……あの子が……可哀想で……」
声を詰まらせて辛そうにしている富江に、明生はその警察官だった息子の生年月日を尋ねた。
「息子さんの事を知りたいので暫くお待ち下さい」
明生は点字のノートを触りながら、鑑定に集中した。
そして鑑定が終わると、富江にこう言った。
「この方、ひょっとして結婚はしなかったのかもしれません。したとしても晩婚かもしれませんね。それに、とても気持ちが強い方で、頼りがいがあって、後輩に慕われる人でしょう……それに、器用で多趣味な所もあって……人生を楽しむ天才、だったのかもしれませんね」
「もし結婚してなかったら……寂しかったんじゃ……」
「それは……」
「それに、もし結婚していても晩婚? 家族を残して早く亡くなったのなら、可哀想だわ」
「ちょっと待って下さい!」
とても悲観的な富江に、明生は我慢できず、厳しめに言った。
「本人に会った訳じゃないので何とも言えませんが、この方はそんな風に言われるのが一番イヤなんじゃないでしょうか。自分の人生が、一緒に過ごしたこともない人に、寂しいとか、可哀想だとか、そんな風に思われるのが……」
明生は言い方がキツかったと思い、すぐに言い直した。
「あっ、すみません。あくまでも鑑定をしてみて、この方がそういう人ではないかと思っただけです」
暫く明生には、富江の鼻水を啜る音だけが聞こえた。
「たかが占いですが、僕はこの方が素敵な人生を全うしたんだと感じます」
「そうですか。それを信じたいですけど……」
老女はバッグから鑑定料と思われる封筒を出し始めていた。
「では、これで……」
「今、富江さんは幸せですか?」
明生はこのまま富江を帰す訳にはいかなかった。
「えっ……はい。お陰様で子供にも恵まれて、孫にも……とても幸せです」
「ならよかった」
「でも、幸せを感じれば感じるほど、罪を感じてしまいます」
声は相変わらず悲壮感に溢れていた。
「富江さん? 富江さんが不幸だったら、置いてきた息子さんは悲しむと思いますよ。自分の親が不幸になって欲しいと願う子はいませんよ……」
富江は涙が止まらず、顔を手で覆った。そして、明生は自分に言い聞かせるように話した。
「もし僕がその身になったら……そんな風に思われたら困りますね。覚悟して出ていったんなら、絶対に幸せにならないと」
そして、このままだとただの人生相談で終わってしまうので、明生は富江を占った事に関して伝えた。
「先は長くないとおっしゃっていましたが、そうでもないですよ。健康運がすばらしいですから、ひ孫さんと会えるのも夢じゃないですよ」
「いいえ、そんな……長生きなんて、していいのかしら……」
「田中富江さん、今よりもっと幸せになって下さい」
「……ありがとうございます」
明生の言葉に、富江の声は安堵に変わった。
この田中という客を通して、自分の母親がどこかで同じ思いを抱えて生きているのではないかと、明生は考えていた。そんな時、以心伝心? 隣に座ってテレビを観ていた晴美の、いきなりの質問に驚いた。
「明生さん、前にさ、公太くんに言ってたでしょ? お母さんの事、許してるのか分からないって」
「ど、どうしてそんなこと急に聞くの?」
「ずっと聞きたいって思ってたのよ。ねぇ、本当に分からないの?」
「多分、もう許すとか……そんなんじゃないのかもしれないね。ひょっとして、もうとっくにそう思ってたんだろうね……」
穏やかないつもの喋り方だった。
「あっ、今日来た田中さんっておばあさん、また先生にお話を聞いてもらいにきますって言って帰っていったわよ」
「なんだかね、今日は、占いっていうより悩み相談室みたいになっちゃってたからな」
「どんな?」
「教える訳ないでしょ?」
「分かってるって。あっ、そうだ! いっその事、占瞳館やめて、大谷悩み相談室にする? すりガラスとか置いちゃって!」
楽しそうに笑っている晴美と明生を、キッチンの方から詩織が見つめていた。




