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返答はない。代わりに、リリーの爪が腕の肉に食い込んだ。
「リリー?」
「……いや」
彼女の震える唇が動いた。幽かな声が言葉を紡ぐ。
「ちがう、そんなんじゃない」
「なにを言ってる?」
「ちがう!」
リリーの膝から力が抜ける。腕だけは離すまいと、両手の力だけは健在だ。むしろ強まったように思える。ジェムはもう片方の腕でリリーを支えた。それから一緒にゆっくりと膝を着いた。
「リリー、ぼくの声が聞こえるか?」
「もうやめて……、聞きたくない」
「耳を塞げばいいのか?」
ジェムは右手で彼女の左耳を塞いだ。リリーの目が虚ろながらもなんとかジェムを捉えた。やるべきことは決まった。
「腕を離して。これじゃあ、そっちの耳を塞げない」
彼の申し出に、リリーは不服そうに唇を噛んだ。ジェムは困って、言い聞かせるように名前で呼び掛けるも、彼女は小さく首を振った。どうしても離せない理由があるらしい。くそ、とジェムは悪態を吐いた。
「失礼」
言いつつ、ジェムはリリーの耳から右手を離して、その手をそのまま彼女の背に回した。肩を掴み、ぐいと抱き寄せ、彼女の頭を自分の胸へと導く。リリーの左耳を自分の胸に押し当て、空いた右手で彼女の右耳を塞いだ。
沈黙。好機とばかりに耳に飛び込んでくる風の音。やけに響く心臓の鼓動。次第に落ち着いていく彼女の呼吸。
「ジェム、」
「……ん」
「多分、もう大丈夫です」
言われて恐る恐る彼女の右耳から手を外した。リリーの緊張が解けて、左腕が解放された。体勢を立て直そうとする彼女を支え、正面からその顔を確認できるようになって、ジェムはほっと胸を撫で下ろす。疲労が一気にやってくる。
「今の、なに」
分かるはずもないのに、ついついジェムは訊ねる。ぺたん、と地面に座り込んだリリーは、憔悴感を滲ませる声で答えた。
「声が、聞こえて」
「……確かに、誰かと話していたみたいだったな。なにを言われたんだ?」
リリーはじっ、とジェムの表情を窺った。こちらを心配するその目には、"声"についての心当たりなぞなさそうだ。聞こえていたのは自分だけだったというわけか。
「……本当に、向こうでなにがあったんですか。あれは……、執着です。彼らはあなたに執着してる」
「――彼ら、だって?」
「身に覚えがありませんか?」
ジェムは戸惑った。自分が"ブルー"で顔を合わせたことがあるのはイスメネだけだ。だが、同時に疑問に思う。なぜ、イスメネだけなのか。
「ジェム、これは、わたしたちの手には負えません。本当のことをみんなにも、包み隠さず話すべきです」
リリーは必死に訴えた。ジェムの瞳の奥を覗き込むも、霞みがかっているようで、なんの感情も読み取れない。昨夜に、自分が"魔力"の膜で彼を覆ってしまったからかもしれない。
「あなた一人が危険を抱える理由なんてないはずです!」
彼の眉間に皺が寄った。能力がなくても分かる、それが苦悶の表情であると。
「……少し考えさせてくれないか」
声を絞り出すようにジェムは言った。リリーは無性に腹が立った。心の底から彼の身を案じていた。先程の超常現象だって、彼がいたからやり過ごせた。だからと言っていいのか、余計に腹立たしかった。なぜ彼は他人を頼らないのか。なぜ彼は自分を顧みないのか。なぜ彼はなにもかも一人で決めてしまうのか。なぜ彼は……。
「分かりました」
きっぱりと、リリーは素っ気ない態度で言った。立ち上がろうとする自分に差し伸べられたジェムの手を、見ないふりをした。自分でやっておいてガキくさい行動に不快感を覚えたが、取り繕うのも善人ぶってなんでもないふりをするのも放棄した。馬鹿みたいに怒りを表現したかった。
「結局はジェムの決めることですもの。これ以上は、他人のわたしがとやかく言えることじゃありません」
「リリー、」
「行きましょう。みんなに怪しまれてしまいます」
ジェムは困った顔をしていた。それに気付かなかったふりをして、リリーは脇目も振らずに噴水広場を突き抜けていく。縋るような目をする彼に背中を向けるのは辛かった。我を張ったのを後悔した。それでも、一度動かした足を止めることはできなかった。完全に意固地になっていた。ジェムが後ろをついてきているのが分かった。あちらの方が歩幅が広いのに、距離を詰めて来ないのは、彼なりの優しさだろうか。
集合場所のガゼボに辿り着いたリリーたちは、仲間たちから好奇の視線を向けられた。
「遅かったじゃないか」とカートが探りを入れてくる。
……こういう駆け引きも、うんざりだわ。
「わたしから申し上げることはなにもありませんわ」
言うなり、リリーはガゼボ内の備え付けベンチに腰を下ろした。隣に座るネルが怪訝そうに見ていた。なにも訊かれませんように、と願いながら俯くのがやっとだった。
「ジェームズ、説明してくれるか」
一連の遣り取りを見て呆然と立っているジェムに、ロロが訊ねた。ジェムは致し方なし、といった様子で「問題が発生しまして」と答えた。そんなお決まりの回答をロロは鼻で笑う。
「今更どんな問題が起ころうが、さほど驚かんな」
「話す決意をするには、」カートは上目遣いに、ジェムを慮るような眼差しで言った。「例の場所について、収穫があったという確信が必要なのかい?」
「はあ? なにそれ」と、ジェムとカートの顔を交互に見遣り、ネルは憤慨する。「あんたたちで情報を独り占めしてたっての? そういや、噴水でのことだって口裏合わせてなにか隠してたわよね? なるほど、ワトソン持ちは特別ってわけ?」
彼女の科白に、ジェムは眉を顰める。
「そんなんじゃありません」
「じゃあなによ、私が問題? 私が馬鹿で癇癪持ちの赤毛の女だから?!」
「なんでそうなるんですか! ぼくが一度でも、そんなふうに言ったことあります? 仕方なかったんですよ、カートには見られてしまったから」
「なにを!」
「ぼくが消えるところを!」
二人の言い争いが白熱してきたところで、ぽろ、と明かされた真実に、ロロの全神経は瞬発的に注がれた。これを身体に染み付いた探偵の能力と言わずして、なんと言おう。
「"消える"と言ったか?」
ロロは獣のような眼光でジェムの姿を見つめ、問い詰めた。
「不思議だな。俺にはその言葉が比喩として使われたようには聞こえなかったが?」
気迫のこもったその眼光に、ロロとの問答に慣れているはずのジェムでも流石に怯んだ。少なからずも彼に責められる未来は予期していたはずなのに、無様にも怖気付いてしまった。そこへ助け舟を出すように、カートが口を開いた。
「実際に"消えた"ところを見てはいないのですが、他に説明がつかないんです――あの場から"消えた"としか」
「消えて、どこへ? 屋敷内を瞬間移動でもしていたのか?」
「その程度のことだったら、僕も隠したりはしていないでしょうね」
「分からんな。どうしてお前まで一緒になって秘密にする必要があったのか」
「それは、ジェームズの話を聞いたあとに判断してください」
探偵たちの視線が一斉にジェムに集まった。ジェムは踵を返して逃げたくなった。注目されることに慣れていないのだ。逃げ場を探して泳いだ目が、無意識に相棒の姿を捉えた。純真な輝きを灯した緑の双眼に射抜かれて、ジェムは決意を固めた。
「……ここに着いてから三度ほど、ぼくは不可思議な現象に巻き込まれています。現実とは似ても似つかない場所に迷い込んで、まるで夢でも見ているかのような光景に出会し、身も知らない人物と言葉を交わしました。イスメネという名前です。イスメネから、そこはかつて"ブルー"と呼ばれていた場所だと教えられました。妖精の丘の内側のことだそうです。イスメネは、"ブルー"に捕らわれて困っているらしく――、ぼくは依頼を請け負いました。イスメネがなぜ"ブルー"に捕われてしまったのか、理由を見つけるための依頼を」
ジェムはなるたけ簡潔に、口を挟む隙をぎりぎり与えないぐらいの速さで、自分の置かれている状況を説明した。
説明を聞いたロロは、案の定、鬱屈した表情で頭を抱えていた。感情が抑圧された不安定な声で、彼はジェムに訊ねた。
「聞きたいことは山ほどある――が、最初に確認したい。その"ブルー"とやらを行き来して、お前がそこから出られなくなることはないのか?」
「それが昨夜、彼女と諍いをした理由です」ジェムは片手でリリーを指し示しながら答えた。
「そして、俺に話さなかった理由か。話せば家に帰されるから」
「……それだけでもないですね。依頼と関係があるか、まだ分からなかったから話しませんでした」
「カート、お前はこれに賛同したのか? 自分の身の安全よりも仕事を優先する、彼の意見に?」
ええと、とカートは戸惑いを見せつつ、ロロの質問に頷いた。
「若干の、認識の齟齬は見られますけど、まあそうです。ジェームズの不在は僕たちの調査に多大な損失をもたらすと思って。"魔法"については、彼の意見を聞かなきゃ分からないのが現状ですし」
ロロはあからさまな溜め息を吐いた。彼の胃がきりきりと締め付けられる音が聞こえた気がした。
ハフナー邸を見渡せる位置に座っていたネルが、人の気配を察して首を捻った。ネルの反応に気付いた探偵たちは、揃って彼女の視線の先を追った。セニヤ・マキラが家政婦長のスレマとポーターのアンディと並んで、ピクニックバスケットを持ってこちらにやってくる姿が小さく見えた。ロロは声を低くして言った。
「この件は後で話そう。今は彼らの信頼を得る方を優先したい」
これに異論を唱える探偵はいなかった。ジェムはカートの了承を得て、彼の隣に座ることにした。先刻の口論のせいで、面と向かってリリーに合わせる顔がなかった。
「お揃いのようですね」
ガゼボに着くなり、揃った面々を見てスレマが言った。
「いえ、」即座にロロが訂正する。「あと二人来ていません」
ああ、と呟いて、スレマは訳知り顔の微笑を浮かべた。
「そのお二人ならきっとすぐにいらっしゃいますよ。外は冷えるかと思いまして、膝掛けを運ぶのにお二人に御力添え頂いていたのです」
そして彼女の言う通り、すぐに残る二名――ペドロとマイが、両手に毛布を抱えてやって来た。こうして、親睦を深めるという名目で、探偵たちは屋敷の従業員から話を聞く機会を得たのである。はてさて、如何様な話が飛び出てくることやら。探偵たちは各々の外向きの"仮面"を取り付けたのだった。




