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 両目を押さえている感覚が、他人の物から自分の手に変わる。

 ほんの瞬きの間の夢だった。


「余計なことを」


 初めて会った頃のような、ひどく冷たいお兄ちゃんの声に、あたしは慌てて顔を上げた。袖で乱暴に涙を拭う。


「思い出させてどうする? お前は、彼女がいない間に違う女とよろしくやっているくせに。責任もとれないのに、勝手にかき回すのはやめろ」


 お兄ちゃんは園子を一瞥した後、一歩、二歩と、樹に取り押さえられている涼に近付いていく。

 涼は黙ってお兄ちゃんを睨みつけていたけど、樹は顔が引き攣っていた。うん。お兄、怖いよね……今は(・・)人間のはずだから、人間のできる範囲でしか物事は動かないと思うけど。

 急いで立ち上がって、お兄ちゃんの腕に飛びつく。


「お兄、」


 そう声をかけて、一番驚いたのは当のお兄ちゃんだった。

 動きを止めて、あたしを見下ろして、サングラスの奥の瞳が見開かれているのが、この距離なら分かる。

 こんな時だけど、お兄ちゃんの感情をそこまで動かせたことがちょっと誇らしい。


「お兄、それは前からそうだったんだよ。あたしも分かってた。だから、それには何の問題もない。あたしに問題がなければ、記憶の有無は関係ないよね?」


 このままだと、お兄ちゃんは涼を一発殴りつけて、そのままどこかに行ってしまうに違いない。それが、あの場所なのか、違う何処かなのか想像もつかないけど。

 あたしはお兄ちゃんを捕まえたまま、涼に視線を移す。


「涼、ありがとう。覚えていてくれて。聞きたいこととか、めっちゃあると思うけど、今は無理そう」


 片手でジーンズの後ろポケットからスマホを取り出して、ラインのQRコードを表示させる。


「……トモキ」

「お兄はちょっと黙ってて」

「離せ」


 掴んだ手を離させようと添えられる手に、さらに力を込めて抵抗する。そのまま、スマホを涼に差し出した。


「新しい連絡先。とりあえず。みんなには後で教えてあげて」

「トモキ」


 涼が慌ててそれを読み込んでる間に、ちょっと気まずそうに佇んでる園子ににっと笑ってやる。


「園子っ……爆発しやがれ! 美由も樹も、ごめん。また今度」

今度(・・)は、大丈夫なのか」


 スマホを押し返しながら、涼が訊く。


「うん。大丈夫」

「トモキ」

「もう。うるさいな。離さないよ。離したら、逃げるかもしれない。まだ聞きたいことも言いたいこともあるんだから、話すなら車に戻ってからにして」

「もう、話すことなんて……」

「あるよ。沢山! 戸籍とか、お金の管理はどうなってるのとか、今日の晩御飯はどうするとか、免許証だって失くしてるのに再発行もしてない。迂闊に出来ないんだよね? お兄はもう生活の一部なんだよ。勝手にいなくなられたら、()()()()困るの!」


 あの人に頼まれなくても、きっと同じことを言っただろう。

 だって、一年ずっと傍にいたんだから。はい、サヨナラ、なんてあたしにはできない。


「……有海……」

「と、いうわけで、ちょっととりこむから、またね」


 涼はまだ納得いかない感じだったけど、まあ、それは追々。

 軽い感じでみんなに手を振って、呆けているお兄ちゃんの腕を引いていく。


「――ああ。朋生だぁ……お兄さん(・・・・)も、苦労するねぇ」


 笑いを含んだ美由の声が聞こえてきて、振り返りかけたお兄ちゃんは、代わりに空いている方の手で顔を半分覆ってしまった。




 ようやく見つけた車の運転席にお兄ちゃんを押し込んで、はたと悩む。回り込んでいるうちに消えたりしないだろうか。そもそも、今でも出たり消えたり出来るんだろうか。

 難しいことはよく解らないので、お兄ちゃんの()を通って乗り込もうとしてみた。


「……馬鹿。ちゃんと回って来い」


 容赦なく頭を押し退けられて、首を痛めそうになる。


「……ちょ」

「心配しなくても、ちゃんと待ってる」


 じっと見ても、もうお兄ちゃんは元の冷静なお兄ちゃんだった。そっと手を伸ばしてサングラスを外す。抵抗はなく、ただ瞳が伏せられる。


「じゃあ、人質ね」


 意味のあることかどうか分からなかったけど、そのまま信じるのは不安だった。

 そのサングラスを自分でかけて体を起こすと、お兄ちゃんが微かに、ほんの微かに口角を上げた。


「……似合わない」

「ひっど」


 気持ち強めにドアを閉めて、足早に助手席へ回り込む。言葉通り、お兄ちゃんは待っていた。エンジンがかかる。


「思い出したんだろう? 何故、まだ兄と呼ぶ」


 あたしは少し呆れて、お兄ちゃんを指差してやった。


「名前、知らないもん。他に呼びようがないじゃない」


 一瞬だけこちらを向いた視線が、思ってもみなかったと語ってる。あたし達は自己紹介すらしていない。


「気に食わないならちゃんと教えてよ。本名でも、設定? でも。会社ではなんて名乗ってるの? それとも、仕事も実はしてないの?」


 だとすると、お金がどこから出てたのかすごく不思議だ。


「仕事はしてる。ちゃんと。さすがに貯金だけでは回せない。人の世は面倒臭い」

「そう。で? 名前」

「トモキ、全部思い出して、ココロも戻ったならもう俺の役目は終わりだ」

「言うと思った。馬鹿言わないで。あたしは思い出しても、両親や、親戚や、涼達以外の他のみんなは違うんじゃない? 辻褄が合うように。あたしは、『有海朋生』ではなくなってる。それに兄として関わっているのに、途中で投げ出すの?」

「トモキの兄は海外に行ったって、事故に遭ったって構わない」

「やだよ」

「元々、時が来たらそうするつもりだった」

「やだよ」


 お兄ちゃんは今度はゆっくりとこちらを向いた。


「どっちにしたって、得体のしれないモノと同じ家になんて暮らせないだろう?」

「なんで? 今までと同じでいいじゃん」

「……ちょっとは考えろ。もう俺は『記憶の曖昧な妹』を気にかける兄でいる必要はない。このまま山奥に連れて行って置きざりにしたっていい」


 怖い顔して腕を引かれたって、怯むような事じゃない。色のついた景色は現実味が薄い。お兄ちゃんはずっとこの世界に生きていたんだなぁ。


「それ、お兄に何の得があるの? ね、じゃあ、この一年、お兄は何もかも演じてた? 全部嘘だった? 楽しいことなんて一つもなくて、ただただ嫌な時間を過ごしてた?」


 逸らされた瞳と、小さな舌打ちがあたしの自信になる。


「じゃあ、何か問題が出てきてから考えよう? それに、あそこの家賃ひとりで払うの辛い。引っ越すのもお金がかかるし」

「後悔するぞ」


 お兄ちゃんは投げやりにそう言って、ギアをドライブに入れた。


「誰が?」


 もう一度、呆れたような視線を受け止める。


「あたし、ずっと“お兄ちゃん”が欲しかったんだよねぇ」

「俺は、戻りたくなんてなかったんだ」


 それが過去形だったから、あたしは聞こえないふりをしてシートベルトを締めた。お兄ちゃんはしばらく前髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜていたけど、やがて諦めたように車を発進させた。差し込んできた夕陽に眩しそうに目を細めながら。

 返せと言われたら、返すつもりだったサングラス。結局、いつまでたってもお兄ちゃんの口からその言葉は出なくて……


「今晩何食べようか」

「……ハンバーグ」


 不機嫌な声は、初めてのリクエストをぶっきら棒に告げた。

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