第二話~不協和音~
三ヶ月も経てば、魔法は解けた。階段を上り下りする「気配」は、
次第に夏美の神経を逆なでする「騒音」へと変わっていった。
月が替わり、地主から届いた一通の書面が、夏美の心臓を冷たく掴んだ。
『最終催告:来月末日までに、滞納地代210万円を一括返済すること。
さもなくば契約を解除し、即刻、建物を収去して更地返還を求める』
一括で210万円。猶予はわずか一ヶ月半。 夏美は二階の事務所跡に住人たちを集めた。
かつて従業員に訓示を垂れていた場所だが、目の前に座るのは頼りない三人だけだ。
「……というわけで、今月の家賃をお願い。
それから、溜まっている分も少しずつでいいから入れてもらうと助かる。」
沈黙が流れた。最初に口を開いたのは、画家の伊勢だった。
「……すいません。バイト、クビになりまして。描き始めると、どうしても夢中になっちゃうんで……」
伊勢がちゃんと家賃を払ったのは、最初の月だけだ。
「また? 何回目?」夏美が呆れる。
「でも、今は描かなきゃいけない時期なんだ。
この壁画は、俺にとって……」
「壁画じゃお腹は膨らまないのよ! うちは慈善事業じゃないんだから」
さらに深刻だったのは、佐藤だった。
「……あの、夏美さん。先日、リストラされたのはお話ししましたが……。
学校からも督促が来ていて、蓮の給食費も半年分滞納してるんです。
恥ずかしながら、家賃は少し待っていただけると……」
佐藤は別れた妻への慰謝料で退職金を使い果たし、僅かな蓄えも底を突きかけていた。
プライドが邪魔をして就学援助の申請すらできず、行政からの通知を隠し続けていたのだ。
210万円の断崖を前に、彼らが持ち寄れるのは「ゼロ」か、あるいは「マイナス」の現実だけだった。
そんな中、美優だけが申し訳なさそうに、封筒を差し出した。
「夏美さん、これは私の分です。……それと、佐藤さん、これ」
美優はもう一つの小さな包みを、佐藤の方へ押しやった。
「蓮君の給食費、足しにしてください」
「いや、美優ちゃん、そんな……ダメだよ」
慌てる佐藤に、美優は無理に微笑む。
「私、バイト掛け持ちしてるから平気です! 困ったときはお互い様ですよ」
美優の「家賃を払った上での善意」は、かえって佐藤の惨めさを際立たせ、
伊勢の甘えを正当化する毒のように室内に回った。夏美は目眩を覚えた。
その夜、三階まで怒鳴り声が響いた。
「お父さんのせいで、お母さんは出ていったんだ!
給食費までおねぇちゃんに払ってもらうなんて、カッコ悪いよ!」
不登校気味の息子・蓮の叫び声と、何かが壊れる音。夏美が駆けつけると、
廊下には割れた花瓶と、座り込む佐藤の姿があった。
「すいません……すぐ片付けますから」
佐藤は震える手で破片を拾うが、その手は血に塗れている。
(これが、私が信じようとした『家族』の正体なの?)
美優の「善意」は佐藤の「依存」を加速させ、伊勢の「情熱」はただの「逃避」に成り下がっている。
夏美が作ったのは理想郷などではなく、「現実から逃げ出した者たちの掃き溜め」だった。
「……バカみたい」
夏美は一階の台所に集まっていた住人たちの前に、地主からの督促状を叩きつけた。
「いい? みんな、よく聞いて。あなたたちの事情なんて、この紙切れ一枚の前では無意味なの。
私はこの家を守りたい。でも、あなたたちはここを壊そうとしている」
美優が何か言いたげに口を開くが、夏美は鋭い手招きで制した。
「美優ちゃん、あなたの優しさは、佐藤さんを甘やかしてるだけ。伊勢さん、あなたの絵は
一円の価値も生み出していない。そして佐藤さん、あなた、蓮君に謝る前に、まず稼ぎなさい!」
夏美の瞳に、かつて「経理の鬼」と呼ばれた頃の冷徹な光が宿る。
「明日から、ここを『ただのシェアハウス』にするのはやめるわ。ここは、私の建物よ。
ここを何でもいいからお金を作る場所に変える。そのためのアイデアを、死ぬ気で出しなさい。
嫌なら、今すぐ荷物をまとめて出ていって」
「……そんな、急に……」
戸惑う彼らを置き去りにして、夏美は自室で帳簿を開いた。 かつて娘夫婦を追い詰め、
自分を破滅させた「数字」という武器。今度はそれを、このバラバラな家族を繋ぎ止めるための、
冷酷な鎖として使う決意をしたのだ。
建物の空気は、一変した。再生への道は、再び「鉄と油」の匂いがするような、
泥臭い戦いへと戻っていった。(続く)




