プロローグ~再生~
その三階建ての建物は、静寂という名の病に侵されていた。
かつては機械の唸りと、人の怒号や笑い声が重なり合っていた場所だ。
鉄と油の匂いが染みついた一階。領収書の束が並ぶ二階。夕方になると、
味噌汁の湯気が階段を駆け上がり、建物全体を包み込んでいた三階の住居。
すべてが、まるで昨日のことのように思い出せる。だが、今は違う。
どの階も、呼吸を止めた化石のように冷え切っている。
六十九歳の夏美は、三階の窓を開け、しばらく外を眺めてから静かに閉めた。
音がない、というよりも、音が“戻ってこない”のだ。
夫が病に倒れたのは、冬の終わりのことだった。 会社は娘夫婦に譲った。
自分は一歩引く。それが正しい老い方だと誰もが言った。
――少なくとも、あの夜までは。
夏美は、自負していた。金の扱いには慣れていると。生まれてこのかた、
数字で困ったことは一度もなかった。会社の経理も、家の家計も、
帳尻を合わせるのは「足し算と引き算」のゲームに過ぎない。足りなければ補填すればいい。
それが夏美の知る“普通”だった。
だから、あの男に金を渡した時も、恐怖はなかった。 「資産運用」という言葉の甘い響きに、
夏美はかつてない全能感を覚えた。これは失敗ではなく、一時的な移動に過ぎない。
戻ってくるものだと、心のどこかで信じていた。 しかし、現実は数字のような優等生ではなかった。
金は、戻らなかった。それだけのことだ。
それだけのことが、人生という建物から土台を引き抜いた。
娘は、何も言わなかった。 ただ、すべてを整理し、黙って出て行った。
工場の設備も、顧客リストも、積み上げた信用さえも、根こそぎ持っていった。
「ここではもうやれない」。
その一言だけを残して。
広すぎる建物に、夏美はひとり残された。
一階に降りれば、油の匂いだけが腐ったように残っている。
二階の事務所や、だだっ広い会議室には無人の椅子が整然と並び、
まるで亡霊の会議を待っているようだ。
三階に戻り、茶碗を手に取れば、渇いた音が無機質に響く。
夏美は、自分が「金を生み出す方法」を何一つ知らないことに、今更ながら気づいた。
地代の請求書は、毎月律儀に届く。この建物は自分のものだが、足元の土地は借り物だ。
支払えない。滞納の赤字が、毎日少しずつ心を削っていく。
ある日の夕暮れ、夏美は一階の床に座り込んだ。あまりにも広い空間。
「この建物……使えばいいじゃない」
誰に向けたでもない声が、埃っぽい空気に吸い込まれていく。
「家族がいなくなったなら、家族をつくればいいのよ…」
それは、経営者としての計算ではない。ただ、この空っぽの箱を、
もう一度「生きている場所」に戻したいという、根源的な飢えだった。
こうして夏美は、この場所をシェアハウスとして再生させることにした。
募集をかけてから、一週間で三組が集まった。
福祉を学ぶ、少し世間知らずな女子大生の美優。
持ち物が極端に少ない、常に絵の具の匂いをさせる自称・画家の男、伊勢。
そして、妻に去られ、心に深い罅が入った佐藤と、中学生の息子、蓮。
美優以外、まともとは言い難い顔ぶれだった。
だが、夏美にとっては、それでよかった。
まともな人間は、こんな潰れかけた場所に住み着いたりはしない。
「ここが、あなたの部屋になります」
かつて従業員が使っていた二階の小部屋に、それぞれを案内する。
誰かに“貸す”という行為。それは、人生で初めての経験だった。
金をもらう感覚ではない。
乾いた大地に、水を分け与えるような心持ちだった。
そして、久しぶりに建物の中に「気配」が戻った。
階段を上り下りする足音。水道管が唸る音。誰かが電話で小さく笑う声。
夏美は、三階の自室のベッドで耳を澄ませた。 音が、戻ってくる。
それは、金で買えるどんな贅沢よりも、確かな重みを持っていた。
共同生活は、静かに、しかし確実に夏美の価値観を浸食していった。
美優は、アルバイトで稼いだ僅かな給料からきっちり家賃を払うと、
その残りを自分のために使うのではなく、同居人のために使った。
落ち込む誰かのために花を買い、食卓に彩りを添える。
夏美には、その自己犠牲がひどく効率の悪いものに思えた。
伊勢は、生活のための最低限の稼ぎを得ると、あとの時間のすべてを、
一円の報酬にもならない絵の制作に注ぎ込んだ。その並外れた集中力を、
なぜもっと実利のために使わないのか。夏美には、彼の生き方が危ういものにしか見えなかった。
佐藤は、過去の失敗を言葉で謝罪する暇があるならと、毎朝、共同の台所に立った。
息子への贖罪を込めた弁当を作り、ついでに他の住人の分まで無言で差し出す。
その泥臭い日常の反復こそが、彼にとっての唯一の再起であるかのように。
どれも、かつての夏美なら「無駄」と切り捨てた行動だった。
金にならないことばかり。しかし、夏美はそれらを否定できなかった。
彼らは生きるために、金以外の何かを必死に積み上げている。
ある夜、夏美は暗がりのなか、黙々とキャンバスに向かう伊勢に尋ねた。
「それで、どうやって食べていくの。明日のこと、考えないの?」
伊勢は筆を止めずに答えた。
「食べられる分だけ入ってくればいいんですよ。
今日のお腹が満たされていれば、明日のことは明日考えればいい」
夏美は、その言葉を理解できなかった。 理解できないまま、ふと、自分のこれまでの人生がいかに
「明日」という名の不安に支配されていたかに気づいた。
その沈黙のなか、伊勢は不意に立ち上がり、視線をキャンバスからリビングの広大な白い壁へと移した。
「……夏美さん、ここ、寂しすぎると思わない?」
「どういうこと?」
「この壁に、絵を描いたらどうかなって思ってさ…」
夏美は答えることができなかった。いつもの彼女なら「壁を汚さないで」と反射的に拒絶しただろう。
しかし、不安に縛られ、白く冷たい殻に閉じこもっていた自分と、この殺風景な建物が重なって見えた。
「ここに絵を描くってこと?」
伊勢は静かに頷いた。
「好きにすれば。……でも、どうせ描くなら美しい絵を描いてね」
翌朝、夏美が目を覚ましたとき、一階の壁には、朝日を浴びて呼吸を始めたばかりの、
鮮やかな森の輪郭が描かれ始めていた。
ある日、娘から手紙が届いた。
近況と、形式的な気遣いだけ。許しも、非難もなかった。
ただ一枚、知らない場所で知らない服を着て笑っている孫の写真が同封されていた。
夏美はしばらくそれを眺めてから、机の端に置いた。
取り戻したい、とは思わなかった。
もう、彼らは別の音楽を奏でているのだ。
代わりに、胸の奥で熱いものがせり上がった。
――ここにいる人間を、失いたくない。 それが、いつの間にか自分の中心に来ていることに気づいた。地代の滞納は解決していない。
問題は何一つ消えていない。 それでも、建物はもう空ではない。
一階には食卓が置かれ、二階には笑い声が響き、三階には誰かが淹れた茶の香りが漂う。
夏美は、ゆっくりと階段を降りていく。
かつては「持っているもの(富)」で成り立っていた人生。
今は「ここにいる誰か(繋がり)」で成り立っている人生。
それが正しいかどうかは分からない。 ただ一つ、確かなことがある。
壁に描かれた森は今夜も色鮮やかで、誰かの淹れた茶は温かい。
夏美は窓を開ける。街の音が、風に乗って入り込んでくる。
音が、もう消えない。 そう確信して、夏美は今日も、新しい誰かの笑い声を探しに階段を降りた。
(続く)




