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大根役者

「この前の舞台、観ましたよ」

 カウンターの中の女は、グラスに氷を落とした。

 深夜一時のスナック。

 昼は小劇場、夜はこの店。

 舞台女優と名乗って十年になるが、芝居だけで食えた月など一度もない。

 カウンターの向こうに座っているのは、昔の劇団の後輩だった。

 入ってきた頃は、挨拶の声も小さく、立ち位置すらよく間違えた。

 台詞のアクセントを直してやったのも、客席への目線を教えたのも、女だった。

 その後輩が、今はテレビに出ている。

 端役ではある。

 けれど、画面には映る。

 それだけで、こちらとあちらの線は引かれてしまう。

「来てたんだ」

「はい。後ろの方で。気づかなかったですよね」

「言えばよかったのに」

「言えないですよ。あの空気で」

「どういう意味」

 後輩は、少し首を傾げた。

「終演後、みんな優しかったじゃないですか。

 あそこで私だけ本当のこと言うの、感じ悪いかなって」

 女はグラスを持つ手を止めた。

「何飲むの」

「ハイボールで。薄めで大丈夫です。明日、朝から現場なので」

「売れてる人は大変だね」

「そうですね。ありがたいです」

 後輩は、嫌味でも謙遜でもなく、それを自然に言った。

 それが一番、腹立たしかった。

 女は氷を入れ、ウイスキーを注ぎ、炭酸を落とした。

 後輩はグラスを受け取りながら、ふっと笑った。

「先輩、変わってませんでしたね」

「何が」

「芝居」

 女は黙った。

「褒めてる?」

「まさか」

 後輩は、グラスに口をつける前に言った。

「大根役者って、言葉あるじゃないですか」

 氷が鳴った。

「私のこと?」

「他に誰がいるんですか」

「ずいぶん言うようになったね」

「先輩に教わったんです。舞台では嘘をつくなって」

「それで?」

「大根役者の意味、全部でした」

「全部?」

「はい。全部です」

 後輩は、指でグラスの縁をなぞった。

「まず、下手。これはそのままです。

 声は出てるのに、届いてない。台詞は覚えてるのに、生きてない。

 あれ、逆に難しいですよね。あそこまで何も起きない芝居って」

「……」

「それから、当たらない。大根は食あたりしないから、当たらない役者っていう説、ありますよね。

 先輩の芝居、本当に当たってませんでした。客席にも、相手役にも、自分の台詞にも。全部、きれいに外れてました」

「やめて」

「白い。これもそうです。

 役の色がついてない。ずっと先輩のまま。

 十年やって、まだ素人の白さが残ってるの、ある意味才能かもしれません」

「やめろって言ってる」

「中身がない。

 怒っても、泣いても、苦しんでも、全部表面だけ。

 空っぽの器を揺らしてるみたいでした。音だけするんです。中には何も入ってないのに」

 カウンターの中の女の手が震えた。

「黙れ」

「あと、味が染みてない」

「黙れって言ってる」

「十年やって、それでも芯まで味が染みてない。

 おでんの大根なら、とっくに煮崩れてる時間ですよね。

 でも先輩は、硬いまま。味もしないまま。

 すごいですよ。なかなかないです」

「黙れ!」

 女がグラスを叩きつけるように置いた。

 氷が跳ね、酒がカウンターに散った。

 後輩は少しも怯えなかった。

「ほら。今の方がよっぽど本物っぽいです」

「何しに来たの」

「感想を言いに」

「違う。私を踏みに来たんでしょ」

「踏まれる場所に、まだ立ってるんですね」

 後輩は、にこりと笑った。

「そこは尊敬します」

「馬鹿にしてるでしょ」

「はい」

 即答だった。

「でも、半分は本当に尊敬してます。

 十年も当たらないのに、まだ役者って名乗れるの、普通はできないです」

 女は笑った。

 笑わないと、殴りかかってしまいそうだった。

「売れたら偉いんだ」

「偉いとは言ってません」

「思ってるくせに」

「でも、売れてない人に“売れたら偉いんだ”って言われるの、ちょっと困りますね」

 後輩はグラスを置いた。

「だって、売れたいから続けてるんじゃないんですか?」

「……」

「違うならいいんです。

 誰にも届かない小劇場で、誰にも当たらない芝居をして、夜はここでお酒を作って。

 それが先輩の芸術なら、私は何も言えません」

「言ってるじゃん」

「はい。言ってます」

 女の目が細くなる。

「あんた、昔はそんな喋り方じゃなかった」

「昔は先輩の前で怯えてましたから」

「私が怖かった?」

「怖かったですよ。先輩、売れてないのに偉そうだったから」

 空気が完全に切れた。

「……もう一回言ってみな」

「売れてないのに偉そうでした」

 後輩は淡々と言った。

「台詞の読み方、立ち方、客席への意識。全部教えてくれました。

 でも今思うと、先輩が一番できてなかったんですね」

 女がカウンター越しに身を乗り出した。

 後輩の胸元を掴む。

 ハイボールが倒れ、氷が散った。

 グラスが床に落ちて割れる。

「もう一回、大根って言ってみろ」

 後輩は掴まれたまま、笑った。

「大根役者」

「言ったな」

「下手で、当たらなくて、白々しくて、中身がなくて、味が染みてない役者」

「黙れ!」

「でも、怒る時だけは生きてますね。

 次の舞台、全部その感じでやればいいんじゃないですか」

 女が後輩を強く押した。

 椅子が倒れ、テーブルにぶつかり、瓶が転がる。

「ちょっと! やめなさい!」

 ママの声が飛んだ。

 だが、後輩も引かなかった。

 乱れた髪を払って、女の腕を掴み返す。

「触らないでくださいよ。衣装じゃないんで」

「まだ言うか!」

「言いますよ。大根役者」

「黙れ!」

「先輩、昔からそうですよね。自分より下だと思ってる子には偉そうなのに、抜かれた瞬間、被害者になる」

「黙れって言ってる!」

「私が入った時、言いましたよね。

 “役者は客席に当てないと意味がない”って」

 後輩は女を睨み返した。

「先輩の芝居、どこにも当たってませんでしたよ」

 女が飛びかかろうとした。

 常連客が慌てて止める。

 椅子が倒れ、床に酒が広がる。

「私はまだ終わってない!」

「終わってないなら、舞台で証明してくださいよ!」

「あんたに言われなくてもやる!」

「言われなきゃやらないから、大根なんじゃないですか!」

「この女、外出せ!」

 ママが怒鳴った。

 店の空気は完全に壊れていた。

 割れたグラス。濡れた床。倒れた椅子。

 安い照明の下で、二人の女だけがまだ燃えていた。

 後輩はバッグを掴んだ。

 出口へ向かいながら、振り返る。

「次の舞台、観に行きます」

「来るな」

「行きます」

「見下しに来るんでしょ」

「違います」

「違わない!」

 後輩は、濡れた床を見てから言った。

「確認しに行くんです」

「何を」

「大根役者って言葉が、まだ当たるかどうか」

 女は息を呑んだ。

「下手。

 当たらない。

 白々しい。

 中身がない。

 味が染みてない。

 全部、私が間違ってたって証明してください」

「黙れ」

「できたら謝ります」

「いらない」

「できなかったら?」

 女は答えなかった。

 後輩は、ほんの少しだけ口角を上げた。

「ほら。そういう沈黙が、一番大根なんです」

 また女が飛びかかろうとして、ママと客に押さえられた。

「離して!」

「今日は終わり! 店も終わり!」

 後輩はドアの前で、最後に言った。

「先輩」

「何」

「大根役者って言われて、そこまで怒れるなら、まだ役者なんじゃないですか」

「慰めるな」

「慰めじゃないです」

「じゃあ何」

「呪いです」

 ドアベルが鳴った。

 後輩が出ていくと、店には割れたグラスと、床に広がった酒と、まだ荒い息をしている女だけが残った。

 カウンターの端には、仕込み途中の大根が置かれていた。

 明日の煮物に使うつもりだったのだろう。

 白くて、硬くて、まだ何の味も染みていない。

 女はそれを見た。

 当たらない。

 白い。

 中身がない。

 味が染みていない。

 全部、さっき後輩に言われた言葉だった。

 ママが、ため息まじりに大根を持ち上げた。

「これ、明日まで煮れば味は染みるけどね」

 女は顔を上げた。

 ママは続けた。

「でも、腐ったら終わりよ」

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