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秋茄子は嫁に食わすな

居酒屋の奥の二人席に、男女が向かい合って座っていた。

 倦怠気味の恋人同士だろうか。

 二人は同じキーホルダーのついたスマホを、それぞれ手に持っていた。

 そして、互いの顔ではなく画面を見ていた。

 その時点で、だいたい答えは出ている気がした。

 卓の真ん中には、焼き茄子があった。

 醤油を吸った紫の身に、生姜が少し乗っている。湯気はもう、ほとんど消えていた。

 男がスマホから目を離さないまま、箸で焼き茄子を割った。

「秋茄子は嫁に食わすな、って言うしな」

 女の指が止まった。

「……なにそれ」

 男は、まだスマホを見ていた。

「ことわざ」

「初めて聞いた。どういう意味?」

 ここでようやく男は顔を上げた。

 少しだけ得意そうだった。

「秋の茄子はうまいから、嫁には食わせるなって意味」

 女は一瞬、ただ意味を飲み込もうとしていた。

 それから、眉をひそめた。

「え、ひどくない?」

「まあ、そういう説もあるってだけ」

「だけ?」

「別の説もあるよ。茄子は体を冷やすから、嫁の体を気遣って食わせるなって意味」

 女は焼き茄子を見た。

「待って。どっちにしても、嫁は食べられないの?」

 男は笑った。

「まあ、言葉だけ見ればな」

「なにそれ」

 女はスマホを伏せた。

「美味しいから食べさせない。体に悪いから食べさせない。理由は違うのに、結果は同じってこと?」

「そんな真面目に考えることじゃないだろ」

 そこで、ほんの少し空気が変わった。

 女は男を見た。

「今、初めて聞いたけど、普通に気持ち悪い」

「気持ち悪いって、昔のことわざだぞ」

「昔なら気持ち悪くないの?」

「そういう話じゃない」

「じゃあどういう話?」

 男は盃を置いた。

「昔の言葉を、今の感覚だけで裁くなってこと」

「でも、今あんたが言ったんでしょ」

「ことわざとしてな」

「私の前で?」

「だから何だよ」

 まだ、戻れた。

 たぶんここで、男が「変な言い方だったな」と笑えばよかった。

 女も「びっくりした」と言って、焼き茄子を食べて、それで終わった。

 でも男は、余計なことを言った。

「女って、こういうのすぐ自分への攻撃みたいに受け取るよな」

 女の目が止まった。

「今、女って言った?」

「一般論だよ」

「私は今、初めて聞いた言葉が嫌だって言ってるだけなんだけど」

「だから、それが感情的なんだよ」

 女は黙った。

 店の音が少し遠くなった。

 大将が焼き鳥を返す音だけが、やけに大きく聞こえた。

「感情的」

「そうだろ。意味を説明してるのに、気持ち悪いとか言い出すから」

「すごいね」

「何が」

「初めて聞いたことわざに違和感を持っただけで、女は感情的って話になるんだ」

「そういうところだよ」

「そういうところ?」

「話が通じないところ」

 その言葉で、女の顔から表情が消えた。

 焼き茄子の皿が、ゆっくり男の前へ押し出される。

「じゃあ食べなよ」

「何で」

「嫁には食わすな、なんでしょ」

「お前、嫁じゃないだろ」

「そういう問題じゃない」

「じゃあ何の問題なんだよ」

「食べるかどうかを、本人に聞いてない言葉なのが嫌なの」

 男はため息をついた。

「重いな」

 その一言は、かなり悪かった。

「今、重いって言った?」

「言ったよ。ことわざ一つでここまで詰めるのは重い」

「ことわざ一つじゃない」

「出たよ」

 女の手が、卓の下で震えていた。

「出たって何」

「そうやって何でも大きな話にするだろ。昔の言葉、男、女、支配、そういう話に」

「大きくしてるのはあんたでしょ。私が嫌だって言っただけなのに、女は感情的って返した」

「事実だろ」

 女の手が卓を叩いた。

 徳利が揺れた。

 焼き茄子の皿が少しずれた。

 隣の客が一瞬、こちらを見た。

「私を見て話せよ」

 女の声は、怒鳴り声ではなかった。

 だから余計に、よく響いた。

 男は顔をしかめる。

「店だぞ」

「だから何」

「みっともない」

「みっともないのは、あんたの言い方でしょ」

「もういい」

 男が立ち上がろうとした。

 女が、その袖を掴んだ。

「逃げないで」

「逃げてない」

「逃げてる」

「離せ」

「まだ話してる途中でしょ」

「話にならないんだよ」

 男が腕を振った。

 女の手が外れ、卓に当たる。

 皿が傾き、醤油が黒く広がった。

 女はそれを見た。

「今、払った」

「掴むからだろ」

「痛かった」

「そんな強くしてない」

「また決めるんだ」

 男の顔に、はっきり苛立ちが浮かんだ。

「被害妄想だろ」

 次の瞬間、女の手が男の胸元を掴んだ。

 椅子が倒れた。

 大将が振り向く。

 隣の客が箸を止める。

 焼き茄子は卓の上で崩れていた。

「もう一回言って」

「離せ」

「もう一回、私が被害妄想だって言ってみなよ」

「離せって言ってるだろ」

「言えよ!」

 女の声が割れた。

 男は女の手首を掴み、力を込めて振りほどいた。

 女がよろめく。

 徳利が倒れる。

 酒と醤油が混ざって、卓の上を濡らした。

 女は息を荒くして男を見た。

「謝って」

「何に」

「今の全部に」

「無理」

「無理?」

「俺は悪くない」

 乾いた音がした。

 女の平手が、男の頬を打っていた。

 店が止まった。

 男は頬に手を当て、ゆっくり女を見た。

「終わりだな」

 女は泣いていなかった。

 泣く手前の、もっと危ない顔をしていた。

「そうやって、最後は終わらせる側に立つんだ」

「手を出したのはお前だろ」

「最初に私を見なかったのは、あんたでしょ」

「本当に話が通じないな」

 女の目が、そこで切れた。

 女の手が男の髪に伸びた。

 掴む。

 引く。

 男が顔を歪める。

「おい!」

「やめろ!」

「離してください!」

 何人もの声が重なった。

 男も女の腕を掴み返す。

 椅子が倒れ、卓が揺れ、皿が床に落ちた。

 割れる音。

 焼き茄子が床に落ちた。

 それはもう、食べ物ではなかった。

 争いの残骸だった。

 大将と客が、二人を引き離した。

 女は肩で息をしていた。

 男は乱れた髪を押さえ、女を睨んでいた。

 もう、どちらも言葉を探していなかった。

 理解するための言葉ではなく、相手を終わらせるための言葉だけが残っていた。

 男が言った。

「お前とは無理だ」

 女は笑った。

「やっと主語が小さくなったね」

 男は何も返せなかった。

 女は鞄を掴んだ。

 倒れた椅子も、割れた皿も、床に落ちた茄子も、そのままだった。

「秋茄子は嫁に食わすな」

 女は小さく言った。

「初めて聞いたけど、本当に嫌な言葉」

 男は黙っていた。

「美味しいからでも、冷えるからでも、結局、嫁には聞いてない。私が嫌だって言っても、あんたは聞いてない。最初からずっと、聞いてない」

 女は暖簾の方へ歩いた。

 出口の前で振り返る。

「食べるかどうかくらい、本人に聞けよ」

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