第八話 掃除屋は二つ名を持つ(前)
ローザリッテはラルクの妻ではない。
どころか、婚約すらしていない。縁談は真正面から断ったはずだ。なのに。
「なぜだ……どうして。言葉は通じているのに」
「何、恋煩い? マスター。やだねぇ、そんな年で初恋なんて」
「は、初恋!? そそそんなわけないだろうシェイド! というかお前、『恋煩い』って」
ずいぶん人間くさい言葉を知ってるんだな、と呆れ顔のあるじに、背に黒翼を生やした精霊は肩をすくめる。
「僕は人間じゃないけど。かれこれ五百年は人間と付き合ってるからね。いやでも覚えるよ」
「……いやだったのか?」
「ううん、べつに」
ふいっと目を逸らしたシェイドの横顔は端正なばかり。青白い月光を浴びて彫像めいている。猫のような金の瞳は、いったいどこを見ているのか。
夜風が吹き、少年の闇そのものの短髪と黒衣の裾を控えめに揺らした。
ラルクが暮らす棟の最上階からは、王居よりも城下の灯りほうがずっと近い。それは、旧王城が王宮敷地内の外れに建つことにほかならない。
ラルクは、自身も似たようなものだと思っている。
血縁としては近くとも、王位からはもっとも遠いのだから。
その境遇を不幸とも不平等とも感じたことはないが、生まれゆえの縛られた人生だった――とは、感じたことがある。
なぜ、自分は幼いときにシェイドに引き合わされ、伯父に託されたのか。
なぜ、母は同じ日に髪を切り、大巫女という位を賜って王宮を辞したのか。
が、それらは国王と王太后も同じこと。連綿と続いた王国の守護と指導者の役割は、本質はたいして変わらないのだ。
結論、ラルクは十代の終わりに悟ってしまった。
伯父が世を去り、『掃除屋』の職務を正式に引き継いだとき。初めてひとを手をかけたときのことだった。
いまは何も感じない。
弟と自分の、それぞれの役目が資質に合うもので良かったと思うだけだ。
――けれど、案じていることがある。
では、ずっとティリエルを守り続けてきたシェイドは?
彼の意思はどうなのか。
永世を生きる精霊にとっては、人間の一生など蜉蝣の一夜。そんな人間に仕えさせられたあげく、その相手がせわしなく代替わりするなんて。
(精霊は、契約に縛られるっていうもんな。王国の開闢に何があったのか……。俺は、こいつにとってさほど悪くない主人であれればいいんだが)
「じゃ、行こうか。今日は城下?」
「あぁ」
ラルクはひとまず、いつも通りのシェイドにホッとした。両腕をだらりと垂らし、余分な力を抜く。
闇の精霊であるシェイドから【飛翔】の力を借りる際は、なるべく抵抗を減らす必要があった。摩擦が大きいと、貸すほうも借りるほうも消耗が激しいのだ。飛んだ先ではどんなアクシデントが待っているかもわからない。力の温存は必須だった。
やがて背中にぴりりとした感触。肩甲骨のあいだが熱を帯び、ずしりと重くなる。それが嘘のように収まると、準備万端。イメージするだけで大きな黒翼が現れ、ラルクは束の間、翼人となる。
なお、魔法でできた翼は羽が抜けない。
痕跡を残さず、羽ばたいても無音のため、ラルクはたいへん重宝している。
そうして、シェイドが見つめる眼下を、ラルクも見つめた。
……少しだけ哀愁を乗せて。
◇◇◇
一夜明けて、ポートメアリ公爵家。
エントランスでは、公爵夫人は優れない様子で執事と話し込んでいた。たまたま通りかかった娘のレオニアは、はて、と首を傾げて声をかける。
「どうなさったの? お母様」
「あぁ、レオニア。それがね、今日招待していたおひとりが、茶会を欠席なさると。どうやらご不幸があったらしいのだけど」
「まあ」
母である公爵夫人は物思わしげに頬に手を当てる。
今日は、我が家で茶会を予定していた。
先日の王太后陛下の茶会の内容を、たくさんの貴婦人がたが知りたがったからだ。場を整えてくれたのは母だった。
案の定、どのご婦人も即答で招待に飛びついた。
欠席の申し出は、未明に当主が亡くなったという侯爵家からだった。
しぜんにレオニアの眉も曇る。
――――皮肉にも、茶会はその話で持ちきりとなった。
「ねえぇ、お聞きになった? ヘデラ侯爵家の」
「ええ、ええ!」
喪に服さねばならない近い家のご婦人がたは軒並み欠席となったせいもあり、ポートメアリ公爵家に集った淑女たちは黒の小物で弔意をあらわしつつ、口元を扇で隠して囀るのに忙しい。
「うちは、使用人の従姉妹があの家で洗濯婦をしているの。片付けを命じられたそうよ。ひどい有様だったと」
「久しぶりではなくて? 『粛清の黒騎士』が貴族を手にかけるなんて」
「先日はロディタ男爵があやうく殺されそうになったんですって」
「おそろしい……」
「――さあ! 皆様がた、パイが焼けましたわ。先日、王太后陛下お抱えの菓子職人からレシピを譲っていただきましたの。レモンと蜂蜜茶はうちの荘園から取り寄せました。お口にあえば良いのですけど」
「まあぁ!」
「素敵……!」
パンパン、と、陽気に手を打つ音。
ここぞというタイミングでポートメアリ公爵夫人がかぐわしい香りのレモンパイを運ばせる。
貴婦人たちは手のひらを返すようにそちらへと移動し、さながら花に群がるミツバチのようにさざめきあった。
やや遅れて彼女らのあとに続いたレオニアは、不安そうな面持ちで母に近寄る。
「お母様」
「レオニア。こんなときこそ笑顔でね? 不確定な情報で踊らせられてはだめよ。ほら、王太后陛下とお話した、ラッセルの春のドレス。あの話題なんてどう? きっと盛り上がるわ」
「……はい。そうですわね」
つ、と、優雅に一礼して茶席へ向かった娘を見送り、夫人は、残されたもうひとりの少女に目を細めた。
少女は国王陛下から預かった、大切な異国の客人だ。ティリエル語がとても堪能なので、噂話はすべて聞き取れたことだろう。
せめて、安心させるように微笑む。
「さ、ローザ様もあちらへ。お好きなところを切り分けますわ」
「はい、公爵夫人」
ありがとう存じます、と会釈する可憐な令嬢を、夫人はしずしずと連れゆく。
いっぽう、ローザリッテは三歩ばかり進み、ふと立ち止まって振り向いた。じっと空を見上げる。
(……)
銀の綿雲のような髪を持つ美少女は、しばらくのあいだ、ずっと尖塔輝く王宮の端――灰色がかった旧王城のあたりを見つめていた。




